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佐和喜市は今年の桜が咲けば五十六になる。高継より二つ年上である。かつてはどこかの下男であったという話だが、奉公先の主人が死に放浪の末に高継の家に転がり込んできた。常に酒を飲み、ぶらりぶらりと過ごしている。特に生活に困っている様子はないが、働いている様子もない。気が向けば五条家の勝手に上り込み、高由の相手をほどほどに、高継や夏江との雑談に笑ってふと見ればいなくなっているというような具合である。であるから高継たちは、喜市がどこに住んでどのような生活をしているかは全く不明なのだ。だからといって邪険にするには理由がなさすぎる。なにより、このちゃらけた男は、高継の良い話し相手になっていた。
「桜は人を酔わすけんな」
にやり、口の端を歪めて喜市はつぶやいた。
携帯しているひょうたんのふたを開け、酒をあおる。
もう桜は散り始めていた。
風が少しでも吹けば、さながら川の流れのように帯状に花びらが舞い落ちていく。その薄紅の流れを目で追った。昨夜の大雨のせいで、ほとんど桜は散ってしまっている。また地面に落ちた花びらは濡れた土にまみれ、変色し、かつての美しさをことごとくなくしていた。
喜市は誰の許可を取ることなく、五条家の裏山に来ていた。視界は白く灰色でどんよりしていたが、彼にはまったく気にならない。それどころか、どこに石があるか、木があるかはっきりと見えているように、しっかりとした足取りだ。
三十年前のあの日から徐々に霧が濃くなった山である。出入口は人界と魔界の境目のように見えるほどであった。山には庭師が手入れしたような枝葉の美しい桜ではなく、細い枝も太い枝も入り混じった桜の木々が細い道沿いに植えられている。少し前までは、満開でそれは美しい回廊となるのだが、今は薄汚れた薄紅の絨毯が敷き詰められている。
かつては五条家の庭師が総出で木々の手入れをしていたが、高継の代になってからは全員を解雇して今の惨状だ。そもそも高継はこの山に入ることができない。初が殺された山であるし、また高継を拒否するかのような濃い霧がためらわせるのだ。
以前は五条家の好意で裏山を解放し、山登りの客がいたのだが、殺人事件があってからというもの高継は人が入れぬよう立て板で入口を塞いだ。だがいつの間にかそれは朽ち、ましてや人気のない山。男女の逢引きにはもってこいだったのだろう。
男女は入り乱れ、それぞれの恋を勝ち取っていた。しかしいつの頃からか、再び人が絶えた。同時に不穏なうわさが立ち込めたのだ。
あの山には神さんがいる。――別れの神さんだ。
山頂にある枯れかけた大木がそれだというのだ。その大木を目にした男女はその後必ず別れたという。
「へっ」
喜市は唾を吐き捨てた。
今では愛を語り合う場ではなく、恨みを込めて山を登る人間が増えた。
そしてその負の感情は山にこもり、大木にたまって枯らせていくのだ。
喜市は枯れた大木を正面にして胡坐をかいて座り込み、酒をあおっていた。すでに顔は赤く、吐息には熱がこもっている。目は虚ろであった。
水分を多分に含んだ地面は、早喜市の尻を濡らしていたが本人はまったく気にした様子はない。
「しかし、昔のおまえさんはべっぴんさんだったなあ。お前をこんな姿にした人間を、わしは許しとおない」
人間の感情には、時に魔力を帯びるときがある。その魔力が桜の大木を枯らしたのだ。喜市は顔をゆがませてひたすら酒を口にする。
彼の脳裏には、今もなお瑞々しく花を咲かせる大木の姿が浮かんでいた。皮がひび割れ、白くなり、苔で覆われたみじめな姿など、認めたくはなかった。
実際、その大木の根元には別の枯葉が積もっている。今の季節なら、その美しい艶やかな花びらが根元を覆っているはずなのに。
「だがな、わしの目には今もおまえは美しいけん」