序章
朝露に濡れた草を踏みしめ、枯れた桜の大木に手を置き、今にも霧に飲み込まれそうな湖に目を向けた。静かに緩やかに波がある。
冷えた風がさららの身体を嬲る。ぞわりとなんとも言い難い気持ちの悪さが肌を撫でた。
気がつくといつも桜の木の下に立っている。枯れた大木であった。表皮はからからに乾いており、少し爪で削ってやればたやすく剥がれ落ちるほど。さららはこの木が花芽をつけたところなど、一度も見たことがない。けれども湖に向かってせり出すように生えている木に寄りかかれば、なんとも切なく胸が締め付けられ、同時に安らぎも感じるのだ。
さららは自身の着物の袖を両手にとって拡げた。まるで桜の花びらを受け止めるように。だが落ちるべき花びらは当然のごとくあろうはずもなく、落ちてくるのは鳥の高く響く鳴き声と、風になぶられた草の不協和音だった。
白い布地にしかし、淡い色をした桜の花びらがはらりはらりと落ちてきた。さららは不思議に思うこともなく、また桜の木を仰ぎ見ることもなかった。それは布地のほんの少し離れたところで生まれ落ちる花びらであったから。花びらは生地に落ちると同時に、溶けるようになくなり、はじめからそうであるように着物の模様として残った。
さららは長らくひとりで居た。
声をかけるものはおらず、人ひとりさえ通らぬわびしい場所だった。
来れば食らってやるのに、不気味に口の端だけを歪めて、思い描くのは顔もはっきりとせぬ男の顔。男は日本刀を上段の構えでさららと対峙し、間合いを一気につめると逃げ惑う暇もなく振り下ろす。痛みはなく、己の身体が斬られる鋭い感覚が一瞬さららの全身に駆け巡る。だが血は出なかった。男はいつの間にかいなくなっており、己の身体には傷ひとつ見当たらない。そんな幻を日に何度か見るが、事実だったかはわからない。
「にくらしや」
現か幻かも判然とせぬのに、さららは日本刀を持つ男が恐ろしくてたまらない。
「にくらしや。はよう来い。私と同じ目に遭わせてやるゆえに」
幹に強く爪を立てると、ぽろぽろと木の皮が剥がれ落ちる。爪あとはいたるところについていて、見るも無残だった。