早池峰の女神さま
「メグミちゃん……。お迎えが来てる」
そう言って、流は少しよけてくれた。そのおかげで道の先が見えた。
霧にぬれた木道が終わっていて、そこには白い鹿がいた。額に金色の星をつけた、白い大きな鹿。
「あれって、アタシの夢の中に出てきた鹿だ」
「うん、早池峰の女神様のお使いの鹿だね。きっとオレたちを迎えに来たんだ」
アタシは注意深く口元をかくしたまま、脇へよけてくれた流を追い越して、白い鹿の前に立った。
どうしてだか、そうしなくちゃいけないような、そんな気がしたから。
鹿の真っ黒な目が、アタシをじっと見ている。
「来たよ。アタシを赤ちゃんのトコロに、連れて行ってくれる?」
あれだけ体は温まったはずなのに、ほんの少し立ち止まっただけで、体温がどんどん山の風に持っていかれてしまう。
白い鹿はしばらくアタシをみつめた後、クルリと向きを変えた。
霧をかきわけるように足を進める鹿の、そのピンと立った短いシッポを目印にして、アタシと流と汀ちゃんは山頂の奥宮を目指した。
目の前の鹿の大きな角の先に、ボンヤリと黒いカゲが見えてきた。
「あれが、早池峰山奥宮だよ。メグミちゃん」
流が教えてくれた。
大きなゴツゴツとした、黒い岩。長い刀のような形をしたモノが、何本か立っている。
「奥宮」っていう言葉から想像していた、キレイで人がたくさんいて、神社みたいな建物なんかじゃなくて。
黒い岩の前にある、古ぼけた小さな、お社。それが『早池峰山奥宮』だった。
色んな意味で、期待を裏切ってくれたお社の前に、あの、夢に出てきた女の人が立っていた。
長い髪に飾った花。七夕の織姫様みたいにヒラヒラした着物。
優しそうに見えるのに、何だか、とてもコワく感じる。
白い鹿が女の人の側に近寄ると、その人は鹿の長い首をそっとなでてあげた。
──「人」って言うのとは、ちがうのかな。「女神様」だもんなぁ。
アタシがそんな事を考えているうちに、女の人視線をコチラに向けた。
「よく来ましたね、メグミ」
「あなたが……早池峰山……奥宮?」
「いかにも。わたくしが、この山の守護。早池峰山奥宮」
やっと。やっと、たどり着いた。ここが目指してきた、山頂のゴールなんだ。
『早池峰山奥宮』と名乗った女の人──じゃなくて、女神様は、アタシの後ろに立っていた流と汀ちゃん兄妹に目を移した。
「そう。お前たちが、メグミを案内してくれたのだね。淵の子河童」
は? 今、何て言った?
「カッパ? 二人が? はぁ?」
口に手を当てたまま、あたしは女神様相手に、スゴい声を出して聞き返してしまった。
だって……カッパ?
「よい。すでにここは山頂。よく言われた事を守り、我慢しました。もう手を離しても、禁忌には触れぬよ」
そう言われて、ちょっとだけホッとして、アタシは手を下ろした。
「あの──カッパって?」
「おや、知らなかったのですか? この二人は、カッパ淵の子河童。人間ではないのですよ」
え……どういう事?
思わずふり返って、流と汀ちゃんの二人を見る。
「……ごめんね、メグミちゃん。ウソをつくつもりはなかったんだけど……」
「言い出すタイミングがなかったし、それに、せっかく仲良くなったメグミちゃんが、本当の事を知ったら私たちをキライになるかな、って」
さびしそうな、悲しそうな顔をして、二人はアタシに言った。
「そんな……そんな事……」
ないって言える? あの時、川の土手で『カッパ淵』について二人が話してくれた。その話をアタシは、笑ったんだった。
『カッパなんて、いるワケないじゃない』
アタシの言葉を、流と汀ちゃんの二人はどんな気持ちで……。
「メグミちゃん。オレたちは昔、新家のだんなさんに助けられた河童の、その子孫だよ。
命を助けられた恩返しに、ずっと新家の子供たちを見てきた。メグミちゃんのおばあちゃんも、メグミちゃんのお母さんも、オレたちの友達だったんだよ」
「だけどやっぱり、河童だって事はだまってたの。いつか恩返しが出来るように、お兄ちゃんと私は、新家の子供たちと仲良くなって友達になった。そして、メグミちゃんに会ったのよ」
「これでようやく、恩返しが出来る。そう思った。だからオレたちは、メグミちゃんの力になろう。メグミちゃんを助けよう、って」
「でもね、メグミちゃん。私たち、本当にメグミちゃんと友達だって思ってるから。
メグミちゃんとお話して、遊んで、本当に楽しかったんだから。恩返しだけなんかじゃ、ないからね。信じて、メグミちゃん」
ちょっとだけ笑ったその顔は、やっぱり二人ともよく似てる。兄妹なんだから、当たり前か。
「うん、信じる。だって、二人はアタシを助けてくれたじゃない。ココまでつれてきてくれたじゃない。アタシも流と汀ちゃんの事、大事な友達だと思ってる。そりゃ、二人がカッパだって言われて、ちょっとビックリしたけど──」
アタシはまっすぐ、早池峰山の女神様の方を見た。
「カッパでも人間でも、友達だって事に変わりはないよ」
二人は約束通り、女神様の御座所まで案内してくれたんだもん。
次は、アタシががんばらなくちゃ。
「早池峰の女神様。赤ちゃんを──。赤ちゃんをパパとママに、返して下さい。お願いします」
アタシを見ている、奥宮の女神様の視線がイタい。全身に見えない細いハリが、チクチクとささっているみたい。
「その願いを、かなえてあげる事は、出来ません」
冷たく静かで、そっけない女神様の言葉。
「どうして? どうして、返してくれないの? あなたが勝手に、赤ちゃんをつれて行ったんじゃない。だからアタシが、つれ戻しに来たのよ。赤ちゃんを返してよ」
「メグミちゃん、ねえ、ちょっと……」
アタシの言葉をさえぎるように、汀ちゃんが後ろから腕を引っ張ったけど、その手をふりはらって言葉を続けた。
「あなたは一生に一度なら、どんな願いもかなえてくれるんでしょ? だったらお願いよ。赤ちゃんを返して!」
アタシの怒鳴り声にも、相手の表情は動かない。
「それでは、あの時『赤ん坊なんかいらない』と、そう願ったのは本心ではなかったと言うのですか?」
女神様のその一言は、アタシの胸につきささった。一瞬、返す言葉にツマる。
「そ、それは……。そんなの、本気じゃなかったわよ。あたり前でしょ、決まってるじゃない」
精一杯の強がり。ようやく、これだけの言葉をしぼり出した。でも──。
「それは、嘘。あの時、そなたが口にした言葉は、本心から出たものだった。でなくては、わたくしに届くはずはないのです」
必死に否定したアタシの言葉は、あっという間に打ちくだかれてしまった。
くやしい。何も言い返せない。
赤ちゃんをいらないと思ったのは、アタシの本音。
そんな自分の「本当」をつきつけられて、思わずウソをついてしまったアタシ。ココに来てまで、ウソをついてしまうアタシを、簡単に見破ってしまった女神様。
アタシはココへ、何をしに来たの? 少なくとも、女神様に言い訳をするためにじゃあ、なかったはず。
これじゃあ、ココまでつれて来てくれた流と汀ちゃんに合わせる顔がないよ。
自分たちの大事な秘密を明かしてまで、アタシを助けてくれようとしているのに。アタシがこんなんじゃ、ダメだ。
「そうだよ。あなたの言う通り、あの時アタシは本気で、赤ちゃんがいなくなればいいと思った。赤ちゃんさえいなければ、パパとママはまた、アタシだけを見てくれる。そう思ったから。でも──」
泣きさけんでいたママと、その背中を支えていたパパの姿。二人をつらそうに見ていた、おばあちゃん。
誰もアタシの事を見てなかった。赤ちゃんが戻ってこなかったら? きっとパパもママも、アタシを見てくれないままだと思う。
「でも、ダメなんだ。赤ちゃんがいなかった事には、ならないよ。パパもママも、赤ちゃんがいなくなった事を忘れたりしない。ううん、忘れるはずがない。もしもパパとママがアタシを見てくれても、それは、アタシの後ろに赤ちゃんを見ているんだと思うし、それに赤ちゃんがいなくなった本当の理由が、アタシなんだって、パパとママが知ったりしたら──」
二人は絶対に、アタシの事を許してくれないだろう。
そんな事、考えただけで体がふるえる。
「ならばわたくしが、そなたの両親から赤子の記憶を消してあげましょう。そうすれば二人は、そなただけを見てくれるでしょう」
アタシの心をテストするように、甘い言葉が女神様の口からこぼれた。
一瞬、気持ちがグラリと動く。
赤ちゃんの記憶がなくなる? 赤ちゃんがいた事を、パパとママが忘れる? それなら……。
「そうすれば父も母も、そなただけを見てくれるでしょう。どうです?」
アタシだけを……見てくれる?
右へ左へとゆれていたアタシは、流の声にハッとした。
「メグミちゃん、思い出してよ! 君はココへ、何をしに来たのか。何を願いに来たのかを!」
何を? 何をしに? 何を願いに? 決まってる、そんな事。
「アタシは……赤ちゃんを取り戻しに、返してもらうために来たのよ。たとえパパとママが赤ちゃんの事を忘れても、アタシは忘れない。パパとママを見るたびに、自分のやった事を思い出すわ」
女神様がマジマジとアタシの顔を見た。おかしいけど、この時初めて、女神様がアタシを見たような気がした。多分、それはハズレてないんだろうな。
きっと女神様は、今になるまでアタシを見てなかったんだ。これまでアタシが感じてきた女神様の視線は、アタシの内側を見ていたのかも知れない。
「自分の罪悪感がつらいと言うなら、そなたの記憶も消してあげますよ。どうしますか?」
「そんなコトしなくていいから、赤ちゃんを返して」
アタシもまっすぐに女神様を見る。
もう迷わない。迷ってる場合じゃ、ないんだから。絶対に赤ちゃんを、つれて帰るんだから。
「心が決まったようですね。しかしだからと言って、簡単に赤ん坊を返してあげるわけにはいきません。そなたの一生に一度の願いは、すでにかなえられてしまいました。このまますんなりと、そなたの二度目の願いをかなえるわけには、いかないのです」
「じゃあ、どうすればいいの? どうすれば、赤ちゃんを返してもらえるの?」
何を言われるのか、正直、とてもコワかった。でもココまで来て、引き下がるワケにもいかないんだ。
アタシは精一杯強がって、女神様をにらみつけた。
「ホホ。そんなに怖がらなくても、大丈夫。何も取って食おうとか、生命を差し出せなんて事は言いません。でも、一生に一度の願い、それに見合うだけのものを差し出してもらいます。当然でしょう?」
うん、確かにその通りだと思う。
アタシは一度、願いをかなえてもらった。自分の本心からの願いを。
それをなかった事にしてもらうには、やっぱりタダで、と言うのは虫がよすぎるか。
「分ったわ。アタシが持っているモノなら、何でもあげるわ」
ゴクリとツバを飲みこむ。喉の鳴る音が、妙に大きく感じられた気がした。
「では……」
急に女神様が大きくなったように思えた。ううん、実際に大きくなったワケじゃない。女神様の大きさは変わらないのに、アタシが感じる女神様の気配が大きくなったって言うのか──。うまく伝えられないよ。
「そなたの記憶をもらいましょう」
「記憶……アタシの?」