あたしの決意
アタシが見上げると、おばあちゃんは何とも言えない顔をして教えてくれた。
「……鹿がね。雪みたいに真っ白な鹿が、赤ん坊をもらうと言って、笑美をつれて行ったって。そう言うんだよ。夢から目が覚めたら、もう笑美はいなかったんだって……」
鹿? 白い鹿って?
アタシは夕べの不思議な夢を思い出していた。
雪のように白くて、額に光る星のある鹿。そしてあの、キレイな女の人。
『わたくしが、赤子をもらってゆきましょう』
あの人はそう言った。
アタシが願ったから。赤ちゃんなんか、いらないって。どこかへ行っちゃえって。
「アタシの……せい?」
玄関に誰か来たみたい。
おばあちゃんが連絡したんだと思う。ちょっと太ったお巡りさんが、汗をふきながら立っていた。
「新屋のばあちゃん、赤ん坊がいなくなったってのは本当かい?」
「ああ、駐在さんかね。よう来てくれたよ」
話を聞くためにやって来たお巡りさんを、おばあちゃんは玄関まで迎えに行った。
今なら。今なら誰も、アタシの事を気にしてない。
アタシはそっとその場を離れると、自分が寝ていた部屋に戻った。
白い鹿。女の人。赤ちゃん──。どうしよう。アタシがあんな事、言ったせいだ。だから、本当に夢の鹿が現れて、赤ちゃんをつれて行っちゃったんだ。
このままじっとしているワケにはいかない。だけど、どうしたらいいんだろう? 頭の中がグルグルする。
確かに、赤ちゃんなんていらないって思ったし、いなくなれって思った。だけど、それで本当にいなくなるなんて、思ってなかったのに……。
フスマを開けて様子をうかがってみる。かすかに、おばあちゃんとお巡りさんの話し声が聞こえてきた。
「どうもなぁ──。誘拐というのとは、違うような気がするんじゃが」
「そうは言っても、赤ん坊がいなくなったのは……」
「ばあちゃん、コレ、早池峰さんの『赤子取り』と違うんかい?」
「そんな──。もうそんな時代と違うじゃろ」
「けど、誰かが外から入ってきたような跡は、どこにもないぞ。鍵もかかっとる。雨戸も閉まっとる。庭にも家の中にも、足跡一つ残っちゃおらん。しかも、子供の気配に敏感になっとる母親の横から、鳴き声もあげずに赤ん坊だけ盗み出すなんてのう」
「だからと言うて、早池峰さんの『赤子取り』とは」
「第一、このちっこい町に、赤ん坊盗むような、心得違いの人間はおらんぞ」
早池峰さん? どこかで聞いた事が。どこだったかしら? とにかく、こうしてはいられない。だけど、どうしたら?
「──流に。流に相談してみよう」
考えれば、流に相談したからって、何が解決するワケじゃないんだけど。でも、その時は、それが一番いい方法だと思ったんだ。
きっと、これからどんどん人が集まる。赤ちゃんを探すために、近所の人も警察の人も来るはず。人がたくさん来てからじゃ、家を抜け出すが難しくなるかも。
アタシはそっと部屋から出ると、玄関に向かった。人の話し声が近づいてくる。早くしなくちゃ。
玄関に飛び降りてクツをつかむと、そのままクツ下で走り出した。道端に転がっている小石が、クツ下を通して足の裏に食い込む。その痛みが、アタシを責めているような気がした。
カッパ淵。いつもと同じ川の流れ、いつもと同じ風、いつもと同じ──流と汀ちゃんの兄妹。
「メグミちゃん──」
アタシの先に気が付いたのは、妹の汀ちゃんの方だった。
「どうしたの、、メグミちゃん? クツもはかずに」
目を丸くした流が近寄ってくる。その顔を見たとたん、アタシの中にあった細い糸が、プツンと切れたような気がした。
「──流、どうしよう。赤ちゃんが、アタシのせいで。どうしよう、ねえ、どうしたらいい!?」
パパにもママにも言えなかった。言えるはずがなかった。おばあちゃんにだって、言えないよ。
「一体、どうしたんだよ? 泣いてちゃ、分からないよ」
泣いてる? アタシが?
気が付けば、ほっぺたを涙が流れていた。
「はい、メグミちゃん」
汀ちゃんが小さい手で、ハンカチを差し出してくれた。それを受け取り、アタシは二人に話し始める。
パパの事、ママの事、赤ちゃんの事、自分の見た夢の事、おばあちゃんから聞いたままの夢の話。そして──赤ちゃんをいらないって言った、自分の事。
軽べつされるかもと思った。せっかく仲良くなった、流と汀ちゃんの兄妹。その二人に軽べつされるのは、とても怖かった。
でも、二人にかくし事をしたくない。だから怖かったけど、、正直に全部話した。
「赤ちゃん、いなくなったんだな?」
アタシの話聞き終わった流は、いつもと変わらない口調で尋ね返してきた。
「夢の中に、白い鹿が現われたんだな?」
「うん。額の真ん中に、金色の星のついた、白い鹿。それと、キレイな女の人」
あの女の人は、自分の事を何て言ってただろう? よく思い出せない。
あまり耳にした事のない名前だったような気がするけど。
「お兄ちゃん、それって」
「間違いないだろうな。早池峰のお使いだ」
笑い飛ばされるかと思った。だけど流も汀ちゃんも、真剣な顔でアタシの話を聞いてくれる。
早池峰? そう言えば、家に来たお巡りさんもそんな事、言ってたかも。
「はやちね……おくのみや……。そう言ってた。アタシの夢の中に出てきた、女の人」
記憶をふるい起こす。うん、確かにそう言ってた。
「奥宮って言ったのか? それじゃ、早池峰の女神本人が出て来たって事になる」
早池峰の女神? 何だろう、それって。
「あのね、メグミちゃん。この遠野の土地は、早池峰の山の裾野に広がってるの。そして、この土地を治めているのが、早池峰の女神。本当は神様っぽい、むずかしくて長ったらしい名前があるんだけど。でも私たちは『早池峰さん』って呼んでるわ」
「早池峰山の山頂に、小さな祭壇があるんだ。そこが奥宮。女神の御座所なんだ」
アタシの夢の中に出てきた女の人は、山の神様だったんだ──。
「ねえ、お巡りさんがおばあちゃんに、『早池峰さんの赤子取り』って言ってたの。それって、どう言う事? おばあちゃんは『時代が違う』って言ってたけど」
ずっと疑問だった言葉。妙に心に引っかかる言葉。
「『赤子取り』か。まだそんな言葉、覚えてる人がいたんだ」
話をしているうちに、流の言葉使いがどんどん大人びていくような気がした。
ううん、言葉使いだけじゃない。全身から感じるモノも、変化したような気がする。
「『赤子取り』って言うのはね、メグミちゃん。昔、この辺りにあった習慣の事だよ。北の土地の冬は厳しい。だから秋の収穫は、生きていくうえでとても重要だった。雨が長くても、反対に降らなさ過ぎても、米の出来に大きく係わるからね。特に暑くならない夏は、村人にとっては大問題だったんだよ。涼し過ぎると米が実らない。米が出来なければ、厳しい冬を乗り越える事は出来ない」
「前の年のお米とか、残ってないの? それを合わせれば、冬を乗り切るぐらいにはなるんじゃ?」
「うん、そう考えるよね。でも昔は、一つの田んぼに対してかけられる税の割合は、厳密に決められていたんだ。出来不出来に係わらず、一年にこれだけ、と決められていた」
「歴史で習ったわ。年貢って言うのよね」
「そう。今みたいに室温を管理する施設がなかったから、そうそう長くは保管しておけない。そもそも、北国の地では余裕のある収穫は見込めない。年貢を納め、翌年の苗を育てるための米を除けば、食べていくだけで精一杯って事になる。暑くならない夏は、そのカツカツの米さえもなくなってしまうんだ」
どうして流は、こんな事を知ってるんだろう? 流って、アタシと同じ十歳のハズじゃないの?
「食べる物がなければ、母親は体力をつけられない。体力がなければ、お乳が出せなくなってしまう。そうすると、力のない赤ん坊は冬を越えられない。だから──」
流は少し悲しそうな目をして、言葉を続けた。
「その年に生まれた子供を、山の女神に還すんだ。育てられず、また冬を越せそうにない赤ん坊を、早池峰の女神に願って引き受けてもらう。そうすると、お山の使いである白い鹿が現れて、赤ん坊を連れて行ってしまうんだ。これが『早池峰さんの赤子取り』だよ」
それじゃあ……。連れて行かれた子供たちは……。
「子供たちは? どうなるの?」
「早池峰山に連れて行かれた赤ん坊たちは、女神に育てられて、山頂にある『開慶水』という池の底の屋敷で暮らしてるって、言われてるわ。女神と一緒にね」
汀ちゃんが、そっとアタシの手を握って来た。その温かい感触に、アタシは何かを思い出した。
抱っこされた、ママの手の温度。一緒に眠った布団の中の、パパの体温。三人で食べたご飯の熱さ。お風呂のお湯。いろんなモノのいろんな温度。
でも、赤ちゃんの温度を思い出せない。
泣いているママの顔、怒っているパパの顔、笑っている二人の顔。
でも、赤ちゃんの顔を思い出せない。
どんな顔をしてた? どれくらいの大きさだった? どんな手で、どんな足だった?
分らない。だって、触ってないから。だって、見てないから。
「アタシ──赤ちゃんの事、覚えてない……。アタシの妹なのに……」
涙が出た。今までの涙とはちがう。自分の事じゃなくて、赤ちゃんの事を考えて流れる涙。
「アタシ、ひどい事しちゃった……。どうすればいいんだろう?」
「それはね、メグミちゃん。君が決めなくちゃいけない事だ。オレや汀は、メグミちゃんを手助けする事は出来ても、決定を下す事は出来ないんだ」
アタシはゆっくりと顔を上げて、流を見た。
「メグミちゃん、私もお兄ちゃんも、メグミちゃんの味方だよ。だから言って。メグミちゃんはどうしたいの?」
汀ちゃんがキュッと、アタシの手を握りしめてくれた。
アタシがしでかしてしまった事だから、アタシが決めなくちゃいけないんだ。
「流、汀ちゃん。アタシ、決めたよ」
泣いていたママの姿が浮かぶ。苦しそうなパパの顔が浮かぶ。悲しそうなおばあちゃんの後姿が浮かぶ。
「赤ちゃんを、取り戻しに行かなくちゃ。でも──」
でも、どうやって? どうやって助けに行けばいいんだろう?
「それがメグミちゃんの出した答えなら」
「私たちが、それを手伝うわ」
「さあ、こっちへ来て」
二人に手を引かれて、アタシは川べりを少し歩いた。
流と汀ちゃんが向かっているのは、小さな小屋? ううん、お社だ。そばには、カッパの像が二体。
「ここはね、『お乳の社』って言うんだ。赤ちゃんを産んだお母さんたちが、お乳の出が良くなりますように、ってお参りに来るんだ」
中をのぞき込んでみると、旅館なんかでよく見る、旅の思い出ノートみたいなのが置いてあった。
「ここからどうするの?」
「ここにはね、『赤ちゃんが無事に育ちますように』っていう、お母さんたちの願いがたくさんこもってるの。だから『赤ちゃんを助けたい』って思うメグミちゃんを、きっと守ってくれるよ」
そう言って、汀ちゃんは側に生えていた草の葉っぱを二枚、ちぎりとってアタシに渡してくれた。
「メグミちゃん、これね、『目隠し草』って言うの。これを目の上に置いてね」
細長い、小舟のような形をした、ツルツルの緑の葉っぱ。汀ちゃんの差し出してくれたソレを、アタシは受け取ってながめた。
「目の上に? コレを?」
これで一体何をしようと言うんだろう?
「オレたちを信じて、メグミちゃん」
「もちろん、信じてるよ! 信じてるけど、何をどうするのかぐらい、教えてくれなきゃ……」
何も知らされないのは、ちょっと不安になる。
「きっとね、メグミちゃん、言っても君は信じないと思うよ。でも確かに、何も言われずにいたんじゃ、もっと不安になるかも知れない」
流がコワいくらい真剣な顔で、アタシを見た。とても自分と同じ年だと思えない。
「これから言う事は、とても信じられない事かも知れない。だけど、これだけは信じて。オレも汀も、メグミちゃんを助けたいんだ」
流の力強い言葉に、アタシはうなずいた。
「この土地は、古くから山の神、川の神に守られて来た所なんだ。民話、神話が多く残るこの遠野は、不思議な力も多く残っている。さっき汀が言っていたように、人々の願いも強い力になるんだ。オレと汀はその力を伝って、早池峰の女神の社を飛び石にして、山頂の御座所までをつなぐんだ」
聞いただけでは、何が何だか分らない。だけど、二人がアタシをどうにか助けようとしてくれている事だけは、信じられる。
「──本当の事言って、よく分らないんだけど……。それでも、それでも、流と汀ちゃんの事は信じるよ」
そう。アタシ一人じゃ、どうにも出来ない。早池峰山へ行く事も、赤ちゃんを取り戻す事も。だから、二人に任せよう。二人の言葉を信じよう。アタシを助けてくれようとしている二人の気持ちが、すごく嬉しかった。
「じゃあ、さっきの葉っぱを目に当てておいてね。周りの景色が変わる時に、気分が悪くなる人も、いるみたいだから」
「うん、分った」
アタシは言われた通り、『目隠し草』の葉っぱをまぶたの上に当ててみた。少しだけヒンヤリとした葉っぱは、不思議な事に手を離しても落ちてこなかった。
「それじゃあ、行くよ」
右手側から流の声がした。そして、二人が左右からアタシの手を握る。
「しっかりつかまっててね」
左手側から汀ちゃんの声がする。アタシがそっとうなずくと、二人の声が重なった。
「「飛ぼう!」」