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A big cat.

 「うちもこの時期位は連休にしようかな〜」

 ウィリアム章大(しょうた)はそう言いながら物憂げな表情を浮かべ、咥内から紫煙を吐き出した。何かを痛嘆する様な気落ちした口調は、いつもの快活で特徴的な間延びしたものとは明らかに違う。彼の見つめる窓の向こうでは、音を立てて寒風が吹き荒れている。

 人々はクリスマスと年末年始を控え、すっかりお祭り騒ぎだ。依然として空には灰色の厚い雲が鎮座し、地上の温度は日に日に低下の一途を辿っているにも関わらず、皆一様に浮き足立っている。冬の寒さも何のそのだ。

 そんな世界的なイベントも、アサシンの業務に携わる者にとっては無縁のもの。仲介業は年中無休、アサシンも休まず任務にあたっているのだ。寧(むし)ろ一年を通して最も依頼件数が多いのはこの月だという。クライアントにとっては心の大掃除をしたい時期なのかも知れない。新年は晴れやかな気持ちで迎えたいと願う者が、人生の再スタートを切る為に元凶を断ち切りたい。そういう思いで依頼をしに来るのだろう。

 しかし、ターゲットの遺族を思うと、何とも嘆かわしい事だろう。一年の終わりが訪れる度に、被害者の死を思い起こし、彼等は涙に暮れるに違いない。周囲の幸福感に満ち溢れた空気に晒され、何度も何度も、忘れたくても忘れられない過去に悲愴するのだろう。アサシン側の僕がそう思うのも遺族にとっては棚上げと非難されそうだが、しかし、居た堪れない気持ちになる。

 とはいえ、彼がそんな遺族に対して沈痛な思いを抱き、クライアントの非情さを嘆き、そう言ったのではない事は皆目見当がつく。僕は室内の中央に構えるデスクの脇にあるマガジンラックを冷ややかな目付きで一瞥した。其処には旅行のパンフレットが山積みに乗せられているのだ。思わず溜め息が漏れる。僕は追及する気にもなれず、手に持った依頼書の内容を目で追った。

 今回のターゲットは年金生活を送る高齢者、クライアントはその娘の様だ。最近、こうした家族間の依頼が後を絶たない。悲しい事だ。ターゲットは認知症であったり、介護認定を受けていたりといった理由から、それを疎ましく思って依頼されたのかも知れない。両親を介護するという状況は、謂わば子育ての逆ではないかと僕は思う。幼い頃に親がやってくれた事を今度は子がしてあげる、そうは思わないのだろうか。それを放棄し、挙げ句こうしてアサシンに殺害の依頼をするという者を理解する事は、僕には出来ない。それとはまた違う理由もあるのかも知れないのだが、それはウィリアム章大にしか判らない事である。

 僕は書類を鞄に収めると、彼の方へと視線を向けた。未だに偽善者を装い、悲観的な顔付きを見せているが、僕が帰った後にはまたパンフレットを眺めながら、旅行先に思いを馳せる事であろう。実際に旅行が出来る可能性は、ほぼ皆無に近いというのに。

「そういえばお前、クリスマスは誰と過ごすつもりだ?」

 突然、彼は思い出した様にいつもの調子でそう訊ねて来た。クリスマス…か。言われてみれば、今日はクリスマスイブだ。まだまだ先の事だと思っていたが、年のせいか時の経つのは早い。

「特に誰と過ごすという約束はありません。妹と細やかながら祝うつもりです」

 僕がそう答えると、彼は心底興味なさげに小さく頷いて見せた。その顔は僕の返答が不正解だとでも言いたげである。何て返せば正解なのかは判然としないが、そんな顔をされてしまえば、此方としては面白くない。が、恐らく彼はその問いを自身に返して欲しいのだろう。ただそれだけの為であって、僕の答えなど、実際必要はないのだ。

「代表はどなたと?」

「否、俺も大した約束ってのはないんだが……」

 僕が問い返すと、彼は歯切れ悪く言葉を濁してから、「彼奴(あいつ)の事を思うと、な」

「彼奴…、川崎ですか?」

 突然、川崎の名が浮上した事に、僕は思わず語調を強めた。彼は渋面を浮かべて小さく頷く。

「奴には身寄りが居なくてさ。もしお前が良かったら、どうだ、明日皆で妹のバーにでも行かないか?」

 ウィリアム章大は至って川崎を気に掛けている様であった。上司としての気遣いなのだろう。僕が川崎の代理として従事して来た中で、彼からそんな誘いを受けたのは初めてである。先日、僕はウィリアム章大に大変世話になっているのだ、断る訳にはいかない。

 しかし、川崎に身寄りが居ないというのは初耳だった。自身の素性を語るのを避けている様にも見える彼の新たな情報に、僕は眉を寄せた。可哀想に。僕やウィリアム章大には身近な場所に家族が居る。その事に彼はどんな思いを抱いているのだろうか。

「解りました。川崎が良ければ、僕は構いません」

 出来る事なら、クリスマス位は気心知れた間柄で祝いたいものだ。川崎もきっと、内心喜ぶに違いない。 ウィリアム章大が安堵の表情を浮かべたのを見てから、僕は席を立ち、軽く頭を下げ、事務所を後にした。

 早速川崎に明日の予定を直接訊いてみようと帰宅した僕は、玄関に辿り着くなり言い知れぬ緊張感に苛まれた。玄関に見慣れない靴が置いてあるのだ。男物だろうか、かなりサイズの大きなスニーカーである。随分と使い古し、薄汚れたそれは、脱いだままの状態で置かれている。

 まさか、泥棒?靴を脱いでの侵入だなんて、何とも律儀なものだ。僕は音を立てぬ様にドアを閉めると、その場で神経を研ぎ澄ませた。クッションフロアを抜けたドアの先にあるリビングからは小さな物音がする。その手前の浴室からはシャワーから流れる水の音。これは川崎の入浴中に、何者かが侵入したと考えるのが妥当だろう。大胆な泥棒も居るものだ。

 僕は緊張に全身から汗を滲ませ、不安に足を震わせながらも、傘立ての中から一本の傘をそっと抜き取った。サイズの大きな靴に、住人の意識がある内に侵入する大胆さは、余程腕っぷしに自信のある人物といえよう。そんな相手に、素手で対抗出来る力は、僕にはない。

 僕は静かに深呼吸をすると、音を立てぬ様に靴を脱ぎ、クッションフロアへと足を忍ばせた。非力な僕だけで泥棒を捕まえる自信はない。まずは浴室に居る川崎に声を掛けよう。恐る恐る前へと足を運ぶ。目の前にはリビングに通じるドアが待ち構えている。散々室内を物色し終えた泥棒と鉢合わせでもしたらと思うと、気が気でない。尋常でない程に心拍数が上昇している。恐怖と焦燥感に逸る気持ちをグッと堪え、何とか浴室のドアへと辿り着いた。僕は震える手を伸ばし、ドアノブに触れた。その瞬間、

「っ!!」

 指し示したかの様に浴室のドアが開き、中から見知らぬ大男が姿を現したのだ。僕よりも頭ひとつ分も違う長身の白人は、突如現れた僕を見下ろし、目を見開いている。かくいう僕も、其処に川崎が居るものと思い込んでいただけに、驚愕し、硬直した。

「う、うわっ……!」

 が、一瞬後にはその人物こそ侵入者であると気付き、僕は反射的に持っていた傘を頭上高く振り上げていた。

「止めろ」

 しかし、傘は頭上でピタリと止まった。聞き慣れた声に視線を横に移すと、リビングのドアの前に川崎が相変わらずの無表情で立っていた。この状況に全く動揺している様子が窺えない。

 彼は此方に非があるとでも言いたげに、傘を押さえ付けているのだ。僕の眼前に立つ白人を侵入者という認識で見ている訳ではなさそうだ。事実、白人には一切の悪意や戦意といったものが窺えないのである。

「…知り合いか?」

 緊張感が一気に解かれた僕は、深々と溜め息を吐き、傘を下ろした。まさか見ず知らずの泥棒の味方をする訳がない。

「ネコだ」

「……はいっ?」

 しかし、川崎はあまりにも奇妙な事を言うから、僕は驚いて間の抜けた声を上げてしまった。ネコだって?ネコと言えば、あの小柄で華奢な尻尾の長い小動物である。僕の目の前に居るのは、鮮やかなブロンドの髪を肩先迄垂らし、エメラルドグリーンの瞳をした190cm程はある体格の良い男だ。とてもネコと表現出来る様な容姿ではない。

「ネコって…」

「拾った」

「拾った!?」

 え、捨てネコですか!?貴方の目には人間が動物に見えるんですか!?寧ろこの白人がネコなら、僕はネズミ位の差があるんですけど!!

 どんな人間であれ、ネコと比喩したとしても、こんな大人を拾って来るだなんて、人の良さにも程がある。川崎の知り合いというのならまだしも、赤の他人を、僕の断りもなく家に上げるだなんて、此方への配慮に欠けてはいないだろうか。一体、どういうつもりでこんな事を。

「スラム街のあの地下通路で踞ってたから、連れて来た」

 川崎は事の経緯を簡潔に説明してくれた。其処は以前、彼が住処としていた場所である。

 見るとこの白人、湯気の立つ裸体はすっかり痩せ細り、文字通りの骨と皮だけの状態である。どうやら長い事まともな食事を摂っていないホームレスとも捉えられる。そんな姿を見せられれば、無下に追い出すには良心が痛む。

「……。何か、食べる物でも作るよ」

 最早戦意も喪失し、呆れ返った僕は傘を元の位置に戻しながらそう言った。全く、見掛けによらないこのお人好しには心底恐れ入る。ふたりの前をすり抜け、リビングへと向かう僕に、川崎は一言「済まない」と呟いた。 有り合わせで作った夕飯は、瞬く間に川崎と見知らぬ白人の胃の中へと収まっていった。目の前で凄まじい速さで食べ物が減っていくのだ。川崎が大食いなのはかねてから知っていたが、この白人も負けてはいない。胃が空っぽだった何日間を補う勢いである。互いにその細い体の何処にそれだけの量を詰め込むスペースがあるというのだろうか。後片付けをしながら、僕は頭を悩ませた。

「君、名前は?」

 僕はソファに横たわり、膨らんだ腹を擦りながら満足げな表情を浮かべている白人へと声を掛けた。こんな寒い時期に、すぐさま追い出そうだなんて無情な事はしたくないが、素性も知らない赤の他人を、何も訊かずに家に置いておくのも不安ではあった。

 僕の貸した服を着込み、窮屈そうに襟を指先で摘まんでいる白人は、穏和な微笑を浮かべ、ゆっくりと口を開いた。

「ネコ」

「……」

 その張り付いた様に微動だにしない笑顔の裏では、僕を揶揄(やゆ)し、嘲笑っているのだろうか。子供が覚えたての言葉を言う様なたどたどしい口調で返って来た答えに、僕は隠す事なく怒りを表情に見せた。

「うちじゃあこんなデカイネコは飼えないぞ、川崎」

 僕はダイニングテーブルの椅子に座り、テレビの画面を見つめている川崎へと、皮肉を込めて毒付いた。まるで傍観者でも気取っているかの様な態度に、少し腹を立てていたのだ。彼は悪びれた様子もなく、此方へと視線を移すと、「名はジョナサン・ローズ」

と、唐突に言い出した。

「やっぱり、知り合いじゃないか」

 何故、先に言わないのか。僕の胸中で沸々と怒気が込み上げる。ふたり揃って僕を馬鹿にしているのだろうか。

『続いてのニュースです。今月9日未明から行方が判らなくなっている、筒浦メンタルクリニックの入院患者について、警察は公開捜査に踏み出す事を発表しました』

 ふと、ニュースキャスターの声に僕は無意識にテレビの画面へと目を向けた。連日報道されている精神病患者の失踪事件のニュースである。

『行方が判らなくなっているのは、○○区に住むアメリカ国籍の無職、ジョナサン・ローズさん、29歳……』

 僕は画面に映った行方不明者の顔写真を見るや絶句した。正面を向き、薄笑みを浮かべるその人物は、紛れもなく目の前に居るこの白人であった。彼もまた、この報道に少々驚いた様で、目を丸くし、画面を正視している。自身の事がこれ程盛大に取り上げられている事を初めて知ったのだろう。

「まさか、匿えって事か?」

 僕は妙な胸騒ぎがした。嫌な予感がする。まさかとは思うが、念の為、そのまま訊ねてみた。

「結果的にはな」

 川崎は何ともアッサリと肯定し出した。寧ろ願い出る手間が省けたと思っているに違いない。

 冗談じゃない!僕は思わずそう絶叫する寸前であった。何も無しに入院患者が病院から失踪する訳がないのだ。何等かの事件性を視野に入れてしまうのはごく自然な流れである。そんな匂いを漂わせる人間を側に置いておけば、もし本当に事件が起きた場合に真っ先に関与を疑われてしまう。

 それに、万一警察が居場所を嗅ぎ付けたら、僕達が職務質問を受け、家宅捜査をされるだろう。家には証拠は残していない筈だが、最悪アサシンの情報が漏れでもすれば、僕達だってただでは済まされない。この患者のお陰で、僕達の将来も危ぶまれる危険性を孕んでいるのだ。もし僕が捕まってしまえば、妹の世話を誰が見るんだ。莫大な治療費を誰が払うんだ。

そう簡単に匿えと言われて、解りましただなんて二つ返事は出来ない。

「そういえば、」

 僕の心配を余所に、川崎は不意に思い出したかの様に唇を薄く開き、此方を見据えた。

「代表に呼ばれてただろう。依頼か?」

「!馬鹿っ…!!」

 川崎の言葉に、僕は肝が冷え、怒気を含めて声を上げた。何も知らない赤の他人を前に、依頼の話を持ち出すだなんて、どういう神経をしているのだろうか。アサシンとしての危機感はないのだろうか。

「そう心配しなくても、ネコは俺の同期だ」

「え……」

 次ぐ川崎の言葉に、僕は驚いて白人を見下ろした。彼が川崎の同期…。という事は、彼もまたアサシンなのか。彼は相変わらず笑みを絶やさず、正(まさ)しくネコの様に此方をジッと見つめている。

「俊敏で卓越した柔軟な身体能力を誇り、かねてからネコと呼ばれている。俺もうっかり本名を忘れてた」

「それ、ちょっと酷いよ」

 ネコと呼ばれる白人は、愉快げに喉の奥を鳴らして笑う。何とも対照的な同期だ。柔和そうな垂れ目に長い睫毛、痩けた頬、大きな口。報道では30代手前との事だったが、もう少し齢を重ねている様にも見えるその容姿に、片言の日本語。アサシンと呼ぶには少々抵抗がある。僕のイメージするアサシンは、川崎の様な物静かで冷然とした人物であるが故のギャップなのだろうが。

 僕は川崎に促され、鞄から依頼書を取り出して渡すと、彼はそれを受け取り、書類に目を通し始めた。アサシンの血が騒ぐのか、ネコも立ち上がり、川崎の背後からそれを眺めている。

 ふたりは随分と親密な関係にある様にも見えるが、どちらかというと、ネコの方が川崎にぞっこんといった風である。

 川崎は手早く承諾書にサインを済ますと、此方に書類を戻して来た。

「今年最後のクエストかな。盛大に血祭りに上げて来てよ」

 その穏やかな笑みと雰囲気からは想像もつかない様な、何とも残酷な発言である。心なしか、僕が見て来た中で、一番楽しそうな様子に、思わず戦慄してしまう。一方の川崎は、至って気にも留めていない様だが。

 全く、川崎の代理人として日々至る所に神経を費やしている上に、病院を抜け出した患者を匿う事になるだなんて。先行きが不安である。おまけにネコが居る内はエンゲル係数もかなり上がりそうだ。

 その後、彼等は思い出話に花を咲かせていた様だが、僕は精神的な疲労感に打ち負け、リビングに飛び交う会話をBGMに、一足先に眠りに就いた。

 翌朝、僕は家事を済ませてから家を出た。昨夜の夕飯だけで冷蔵庫の中身が底を尽きかけたのである。正直、あのふたりの胃袋を満足させられるだけの食材をひとりで持ち帰るのは不可能に近いかも知れない。川崎でも連行しようかと思ったが、僕が外出する時にはまだふたりとも眠っていた。

 しかし、僕にとって彼等と外出しなかった事は逆に好都合かも知れない。僕は買い出しに行く前に事務所へと向かうつもりでいたのだ。承諾書を提出する為でもあったが、本来の目的は違う。

「ネコが?」

 昨日の出来事を話すと、ウィリアム章大は眉を寄せ、目を細めた。かつての教え子の健在に喜んでいるという風には見えない。過去に良くない事でもあったのか、明らかに不穏な顔付きで押し黙ってしまった。一体、ネコは何者なのか。僕が再三しつこく食い下がっていると、彼は漸く仕方無しにといった様子で口を開いた。

「ネコは川崎にも匹敵する程の腕利きのアサシンだった。今は療養に専念してると、人伝(ひとづて)に聞いてたが…」

 彼は空(くう)を見つめ、口許を片手で覆い、黙考している素振りを見せた。

 ネコが腕利きのアサシンというのは意外だ。あの穏和な笑みが印象深い男が、川崎に匹敵する実力と実績を持っていた事に、多少の驚きは隠せない。精神科での療養か。それだけアサシンとしての精神的ダメージが大きいという事なのだろうか。あの人の良さそうな笑顔の裏では、未だに癒えない深い傷を抱えているに違いない。

「ネコは何故、病院を抜け出したんでしょうか」

「さぁな。病院食が不味かったんじゃないか?」

 それはないだろう。確かに病院食は不味い、僕にも経験がある。しかし、良い年した大人が、そんな理由で病院を抜け出すなんて事はないだろう。何か、そう迄して成し得ねばならない事でもあったのだろうか。

「まぁ、義理堅すぎるだけで根は良い奴だ。川崎に任せておけば良いだろう」

 そうは言うものの、彼の表情には暗い影が射している。しかし、川崎に任せておけば良いと言われれば、確かにそうだと思えて来た。川崎の同期なのだから、妙な真似はしないであろう。

 僕は不安を解消された事でホッと胸を撫で下ろし、承諾書を提出すると、ショッピング街のスーパーへと向かった。

 帰宅したのは正午を過ぎた頃だった。スーパーにある一番サイズの大きいビニール袋にありったけの食材を詰めたにも関わらず、結局は3枚も使う羽目になった。マンションの入口でタクシーを降り、エレベーターに乗って自宅へと入るのは重労働であった。何とも心が折れそうになる。大家族の母親はこんな事を毎日行っているのだろうかと思うと恐れ入る。

 何とか自宅のドアを開けて中に入ると、僕はクッションフロアに袋を下ろした。これだけで随分と体力を消費してしまった。今日はゆっくりと湯船に浸かりたい気分である。

 しかし、今夜はウィリアム章大から誘いを受けている。湯船に浸かる余裕はなさそうだ。僕は靴を脱いでまた袋を持ち上げる。乱れた呼吸が落ち着く暇もない。

 まっすぐキッチンにある冷蔵庫の前に辿り着くも、流石にすぐ腰を下ろして食材を詰め込む気にはなれなかった。まずは少し休憩しよう。僕はそう思って溜め息を吐きながらリビングのソファの方へと視線を移した。まだあのふたりは眠っている様だ。室内はひっそりと静まり返っている。

 僕はソファに深く腰掛け、全身を委ねた。一気に疲労感が押し寄せる。出来る事なら、少し一眠りしてしまいたい。が、今この家には大食いがふたりも居るのだ。そろそろ腹を減らして揃って起きて来るに違いない。昼食位は用意しておかねば。

「……よし」

 僕は敢えて声を出して自身を鼓舞し、立ち上がった。

 と、その時であった。川崎の自室のドアが荒々しい音を立てて勢い良く開いた。そちらへと視線を向けると、川崎が顔を伏せた状態で立っていた。何やら様子が可笑しい。

 彼は全速力で走った直後の様に荒い息を吐き、肩で呼吸をしている。ドアについた手で体を支え、立っているのもやっとといった有り様であった。

「…川崎?」

 不審に思って声を掛けると、彼はゆっくりと顔を上げた。その表情は苦しげに歪み、皮膚からは大量の汗を掻いていた。まるで痛みに耐えている様である。

「……」

「え…?川崎っ…!?」 川崎は何かを呟いた様だが、その声は虫の息に掻き消され、一瞬後、彼の体が大きく揺れ、力なく床へと崩れた。僕は慌てて駆け寄り、身を屈めて彼を抱き上げた。

「川崎!おい、川崎っ!」

 僕は言い知れぬ焦燥感に声を張り上げて名を呼んだ。しかし、彼は胸元の衣服を握り締め、焦点の定まらない目で虚空を見つめていた。息をするのも辛そうだ。

 僕の声に、ネコが川崎の自室から姿を現した。その光景を見るや、動転し、暫く閉口してしまっていた。とはいえ、僕もひたすら川崎の体を揺さぶり叫ぶだけで、まずやらねばならない事は何か、すっかり機転が回っていなかったのだ。

「あ、救急車…!」

 その単語が浮かんだのはあまりに唐突で、何故真っ先に思い出せなかったのかと自責の念が襲う。僕は対峙して座り込むネコを見た。

「川崎を頼む。今、119番するから……」

「No!」

 しかし、僕の提案に突然ネコが鋭い口調でそれを制した。危機迫る様な語調に、一瞬怯んでしまった。

「病院ダメ」

「…何だって?」

 僕はネコの言う言葉の意味が解せず、怪訝な表情を浮かべた。この緊急事態に、まさか自身の身を案じている訳ではあるまいな。川崎はまるで心臓が痛そうに顔を歪めている。僕達の手に負える状態ではない。専門家に診て貰うのが最善策ではないのだろうか。

「ウィリアムに電話を」

 ネコは懇願する様な眼差しを向けてそう言った。一体どういうつもりなのだろうか。ウィリアム章大は医者じゃない。彼に電話を掛けたところで、川崎の容態が回復する訳がないのだ。

 しかし、ネコのあまりの剣幕に、僕は不満を抑え、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、事務所へと電話を掛けた。彼が出る迄のたった数秒の間にも川崎がこのまま息を引き取ってしまいはしないかと、逸る気持ちに手が震える。

『川崎が……』

 ウィリアム章大は事態を聞くと、いつになく緊迫した声で呟いた。彼の次ぐ言葉を待ちながら、もしかしたらあらゆる業界に精通するその太いパイプを以て川崎を適切な病院へと搬送してくれるのかとも思っていた。

『駄目だな。一帯の病院はネコの件で警察が目を光らせてる。とにかく安静にして、様子を見てくれ』

 様子を見ろだなんて、誰でも容易に想定し得る回答を求めて電話を掛けた訳ではない。僕は怒り心頭に発する思いで電話を切ると、ネコを睨み付け、危うく心ない誹謗を浴びせるところであった。が、その感情も抑えるしかなかった。

 ネコは自身の口に人差し指だけを伸ばした左手を寄せていた。見下ろすと、川崎は先程に比べて呼吸も落ち着き、失神した様であった。

 僕達は川崎をベッドに寝かせ、様子を見る事にした。彼の衣服は大量の汗で湿っていた。相当苦しかったのだろう。

 ふたりで手を合わせて着替えさせる事となり、僕は川崎の自室のタンスから適当に服を取り出し、ベッドの横に移動した川崎の方を振り返った。ネコは慣れない手付きで長袖の部屋着を脱がせている。意識を失った人間を動かすのは容易な事ではない。手を貸そうと近付いた僕は、思わず目を見開き、その場に立ち尽くしてしまった。全身からすぅっと血の気が引いていくのがはっきりと判った。

 川崎の両腕には、無数の切り傷が隙間なく引かれてあったのだ。それは古い傷から最近出来たであろう傷迄、所狭しと描かれてある。腕だけではない。衣服を脱がされ露になった腹部や腰、太股にも長さの違う傷痕が残っていた。不注意で負った傷とは思えない……そう、躊躇い傷の様な線が、体中に刻まれているのだ。

 自傷行為。不意にその単語が脳裏を過った。僕は戦慄した。川崎がそんな事をする様な人柄だとは思えない。しかし、もしネコがアサシンとして生きて来た上で精神的ダメージを受け、入院するに至ったというのなら、川崎だって例外ではない。何に対してそれ程の苦痛を強いているかは判然としないが、こうして日々独りで感情を圧し殺して来たのかと思うと、胸を締め付けられる思いだ。


 僕はネコの手前、必死に泣きそうな気持ちを堪え、何とか川崎に服を着せると、ネコがその体を軽々と持ち上げ、ベッドに寝かせた。

「さっき言ってた…、病院が駄目というのは、どういう意味だ?」

 僕は未だ胸中に燻る怒りを噛み殺し、ネコに訊ねた。内心、ネコが居なければ川崎を病院に連れて行けたかも知れないのだ。本当に自身の身を案じて病院への搬送を拒否したとなれば、僕は心を鬼にして追い出すつもりでいた。

 ネコはベッドの脇に腰を下ろし、憔悴した表情を浮かべ、此方を見上げた。

「アサシン、病院ダメ」

「アサシンが?」

 僕は眉を寄せて首を傾げた。相手は力なく小さく頷くと、川崎の方へと視線を移す。

「アサシン、セーゾンケンない」

 そのたどたどしい口調から、意味を理解するのに少し時間を要した。セーゾンケン…。

「生存権が、ない?」

 漸く理解出来たものの、それはあまりにも信じ難い事であった。アサシンとはいえ、こうして生存している人間としての権利がないだなんて、そんな事有り得るのだろうか。

 ネコは何か言いたげに口ごもる。時折、英単語を呟いている所を見ると、どうやら日本語での説明が彼には難しい様だ。僕が英語が通じる事を伝えると、安心した様子で僅かに顔を綻ばせてみせた。

「アサシンは常人には理解し難い心理面のスキルを要する。もしかしたら、それは川崎から聞いた事があるかも知れないけど」


「あぁ。川崎は洗脳だとか記憶を消すだとか言ってた」

 そういった特異能力を習得するには、大きな対価を払わねばならないらしい。が、それが何なのかを聞く前に、当人は眠ってしまい、今迄知らずにいたのだ。

 ネコは力強い目付きで此方を見据えると、重苦しげに口を開いた。

「それを習得する為に……、否、アサシンになる為には生存権を放棄する事が絶対条件なんだ」

「そんな…!」

 予想だにしていなかった衝撃の事実に、僕は愕然とし、声を上げた。目の前で眠っている川崎は、アサシンというだけで生きている事を公的には証明出来ないのだ。任務達成率100%を誇る優秀な彼が家を持たないのも、そういった理由からなのだろうか。

「待てよ…。それじゃあ川崎の死亡届が出てるって事か?死亡届は医者から死亡診断書が必要な筈だよな?無理だろ…。現実的に、可笑しいよ」

 僕は予備知識を引っ張り出して抗議した。生きている人間の死亡診断書なんて、どうやって発行するというんだ。しかし、感情的になって声を荒げる僕に反して、ネコは真剣な態度で此方を正視している。

「ウィリアムは様々な業界に精通してる。書類の改竄(かいざん)位、洗脳するよりも容易い」

 そう言われてしまうと、言葉も出ない。僕はアサシンを甘く見ていたのだ。非合法の殺人集団、その裏事情は予想以上に複雑で、恐ろしいものであった。個人情報を提示する術のない人間は、何処に行っても怪しまれてしまう。病院で診て貰うのも難しいに違いない。自身を自ら他者や外界と遮断し、生きるのは、どういった気分なのだろうか。想像にも及ばない。

 川崎はどんな思いでアサシンとして生きているのだろう。あらゆる制限を設けられ、表立って歩めぬ現実と引き換えに、何を守りたいのだろう。

 僕は顔を伏せ、眉間に皺を寄せて唇を噛み締めた。身近に居ながら、僕は川崎の何一つも知らないのだ。自責の念が込み上げる。もし、もっと早く彼の心の叫びに気付いてやれていれば、これ程に体の傷が増える事もなかったかも知れないのに。

「公共施設街の総合病院に、川崎の主治医が居る」

「…主治医?」

 ネコの言葉に、僕はゆっくりと顔を上げた。主治医?それは川崎が何等かの病を患っている事を示しているのだ。ネコは目を伏せ、苦しそうに声を絞り出した。

「突発性心筋症。川崎の持病だよ」

「突発性…、心筋症?」

「原因不明の難病。前触れもなしに、突然発作を起こすんだ」

 先程の川崎は、持病から来る発作が起こったという事か。だから心臓の部分を押さえていたのだろう。ネコはその主治医がもぐりでアサシンの治療を行っているのだと教えてくれた。総合病院と言えば、僕の妹が入院している場所だ。川崎と同居する事となった初日、其処で彼と居合わせたのは、受診の為だったのだろうか。


 アサシンとは頭を体を駆使して任務をこなす。僕なんか以上に神経を研ぎ澄まし、心身共に尋常でなく疲弊するであろう。加えて病を抱えているとなると、その負担は計り知れない。その体で、今日迄生きて来たのだ。

 僕には彼の安否を危惧するしか術がない。僕は医者でもなければ、川崎の代わりに任務にあたる勇気もないのだ。僕は自身の不甲斐なさに頭を抱えた。

「川崎は筋金入りの秘密主義だからね。きっと君の事を思って多くは語らなかったのかも知れない」

 ネコは僅かに顔を綻ばせ、穏やかな声色でそう言った。それは救いとなって僕の沈んだ気持ちに染み込む。「川崎はさ、最初こそ裏の世界に於いてあまりにも無知で、純粋な男だった」

 ネコはそう言いながら川崎の額に張り付いた前髪を、指先でそっと摘まみ上げ、サイドに流す。

「ボクが精神的に参ってしまった時、アサシンを辞めて療養に専念する様に言ってくれたのも、川崎だった。表面には見せないだけで、彼はそういう男だよ」

 懐古する様な落ち着き払った口調に、暖かな眼差しを川崎に向けるネコ。同期として、絶大な信頼や憧憬を以て行動を共にして来たのだろう。脳裏にその情景がぼんやりと浮かぶ。

 僕は川崎の方へと視線を移した。胸元の微かな動きだけで漸く生存が確認出来る。寝返りも打たず、鼾(いびき)も掻かず、ただ静かに寝息を立てる姿に、僕は知らぬ間に涙を流していた。ほんの少し目を離した隙に、彼の呼吸が、心臓が、脳が止まり、このまま還らぬ人となってしまいそうな気にさえなる。世界を脅かすアサシンではなく、川崎という唯一無二の人間に迫り来るあまりにも悲しすぎる死を思うと、これ以上感情を殺す事は出来なかった。

「……ボクはもう、病院に戻るよ」

 僕の心情を察してか、ネコも今にも泣き出しそうな顔付きでそう言った。それが本意ではない事は解っていた。本当は川崎の意識が戻る瞬間を、その目で見たい。しかし、万一このまま彼の容態が悪化してしまうのではと考え、病院への搬送を優先したのだろう。ネコが入院先の病院に戻れば一帯の病院に目を光らせている警察も退散し、彼を安全に診て貰う事が出来る。

「君の思う通り、不本意ではあるけど、ボクは君みたく無垢に人を苦しめる事はしたくないからね」

「……どういう、事だ?」

 ネコの口調は語尾に向かうにつれて先程の穏やかなものから、憎悪を含んだものへと変わっていく。見るとその目には怨恨の念を宿し、獲物を狙う獰猛な獣の様に、此方を見据えている。今にも飛び掛からんとする勢いで、敵意を剥き出しにしているのだ。

 僕はネコの言葉の意味が理解出来ず、身を強張らせ、彼を凝視した。

「川崎は本来、この世界に在るべき存在ではない。君のせいで、川崎の人生が狂ったんだ」

 僕が川崎の人生を狂わせただと?一体、何の話をしているんだ。僕達はまだたった数ヶ月を共にしただけの付き合いである。その当初から川崎はアサシンだったのだ。この浅い関係で、どうやって人生を狂わせる事が出来るというのだろうか。

「君は憶えてないんだね。自分がどうやって川崎を窮地に追い込み、今迄苦しませて来たのかを」

 ネコはゆっくりと立ち上がり、此方へと向き直った。その殺気立つただならぬ雰囲気に、僕は物怖じ後退った。

 憶えていないも何も、先程からネコの言葉の意味が全く解らない。まるで僕達が過ごして来た数ヶ月を側で見ていたかの様な口振りである。

 そう思った直後、ネコは自身の頭部を指差して見せた。暫くどういうつもりなのかが解せず眺めていたが、僕は突然弾かれた様な感覚に襲われた。まさか、読心術……?

 ネコは片方の口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。読心術に良い思い出はないが、こうしてまたそれを用いる人物と遭遇するだなんて、思ってもみなかった。

「君は己の罪を忘れ、何食わぬ顔で川崎と接触する非情な男だ。川崎の安否を心底案じる優しい代理人を演じれば演じる程、ボクは虫酸が走る」

 ネコの存在そのものが鋭利な凶器となり、僕へと向けられている。背筋に悪寒が走り、脳が逃げろと警告している。しかし、それに反して僕は金縛りにでも遭ったかの様に、身動きが取れないでいた。ゆっくりと僕達の距離が縮んでいく。


 殺される。僕はそう直感した。逃げねば、殺される。混乱する思考回路では、体に完全な指令を送る事が出来なかった。

「ん……」

「っ…!」

 その時、ベッドから衣擦れの音がした。ネコは振り返り、背後へと視線を移す。川崎が寝心地悪そうに眉を寄せ、身悶えしてはいるが、目を覚ます気配はなかった。

 僕は咄嗟に踵を返し、部屋を飛び出した。体がネコの隙を窺っていたのかも知れない。逃げねば、殺される。

 しかし、リビングへと出てすぐに背後から着ていた衣服を掴まれ、歩みを阻まれてしまった。振り払おうと右側に上体を捻ったのが間違いだった。左手で衣服を掴んでいたネコの右手が、僕の頬を目掛けて飛んで来たのだ。まともにそれを受けた僕は、痛みに顔を歪め、目を瞑ってしまう。一瞬、遮られた視界を狙ってか、ネコは衣服を掴んでいた手を離すと、すかさず背中を突き飛ばして来た。

「うっ…!」

 固い物同士がぶつかり合う鈍い音が周囲に響く。僕は勢い余って壁に頭と肩を打ち付けてしまった。目の前で雷が落ちた様な錯覚に陥る程の閃光が視界を掠める。

 それでもネコへと向き直り、次ぐ危険に備えようとするも、交わす程の瞬発力など、僕にはなかった。

 僕が対峙する形で向き直ると、ネコはすぐに腹へと拳を沈めた。日本人よりも大きなそれを、腹筋に力を加える事なく受け止めた事で、強烈な痛みが押し寄せ、胃から何かが込み上げそうになる。

「ぐ…、う……」

 僕は腹を抱えてその場に踞った。胃酸が食道迄上がって来ている。何とか嘔吐は避けたいが、そんな事を考慮する暇もなく、ネコの足がこめかみを激しく蹴る。

「うぁっ…!」

 痛む部分を交互に押さえ、唾液を飲み込みながら、何故こんな状況になったのかを必死に考える。僕が川崎の人生を狂わせた決定的な何かがあるのだ。それは当人やネコが知っている。このたった数ヶ月の間に、僕は何をしたのか。全く思い出せない。元よりそんな記憶が僕にはないのだ。

 僕が何をしたというのか。思い当たらない以上、精神科に通う程のメンタルが不安定なネコの虚言ではないのか。


 そう思った途端、ネコは僕の肩を掴んで無理矢理上体を上げさせた。その顔は怒りに紅潮し、鬼の様に目尻が吊り上がっていた。

「そうやって自分の罪を他人に擦(なす)り付けるしか能がないのか。その身を以て、償う気持ちはないのか」

 ネコの声は怒気を含み震えていた。すっかり神経を逆撫でしてしまったらしい。思うだけで僕の感情は筒抜けなのだ。まともな人間なら、当然腹を立てても仕方無い事を僕は考えたのである。

 しかし、理由も解らぬままこうしてネコから暴行を受ける事に対して、僕は腑に落ちなかった。話し合いで何とかならないものなのか。ネコの様子から、そんな悠長に構えられる程の問題ではなさそうだが。とはいえ、その理由を親切に教えてくれそうな状況でもない。

 ネコは肩を掴んでいた手を首へと移した。しまった、と思ったが、もう遅い。骨張った両手が、僕の首を締め付ける。

「くっ……!?」

 痛みに堪えるだけに消耗した力を振り絞り、その手を引き離そうにも、まるで接着剤を塗ったかの様に微動だにしない。気道が遮られ、徐々に体が酸素の不足を訴え、代わりに全身から大量の汗が噴き出す。ネコの腕を掴む手にも、力が入らない。

「君の罪は死でしか償えない。その身を以て、川崎の痛みを知れ」

 ネコの目が妖しく光を放つ。首を締め付ける手の力が、次第に強まっていく。僕は顔を歪め、滲んでいくネコの殺意に満ちた表情を見つめた。苦しくて呻く事も出来ない。

 どうして?何も知らないまま、僕はネコに殺されるのか?全身が意に反して痙攣を起こし始める。呼吸と思考回路が低下の一途を辿っている。

 僕は薄れ行く意識の中で、ただただ苦しくて、怖くて、痛みが逃れたかった。どうせ死ぬのなら……、早く殺してくれ。そう思えていた。

 その瞬間、何かが物凄い速度で風を切る様な音が聞こえた。同時に、首を締め付けていた手の力が緩む。

 一気に空気を吸い込んだ体に、強烈な吐き気が込み上げる。僕は頭を振ってネコの手を振り払い、顔を伏せて咽び返した。暴行を受けた際に歯で噛み切った口内から、床に血が飛び散る。 目線を上げると、驚いた様に目を見開き茫然とするネコの姿があった。突然の事態に、状況を把握出来ていないといった様子である。その首には腕が巻かれ、彼の背後には、見慣れた蒼白い顔の青年が冷然とした様子で立っていた。

「…川崎……」

 僕は喉から絞り出す様に情けない声を出した。意識を取り戻した川崎が、僕を助けてくれたのだ。その顔色はまだ不調を表しているが、ネコに向けられた蔑む様な眼差しには、ハッキリと生気が宿っている。

 ネコは悔しそうに小さく舌打ちをすると、僕の首から手を離した。川崎の腕を払い、立ち上がる。

「大丈夫か?」

 川崎はネコを押し退ける様に屈み込むと、僕の背中を擦った。その表情に、思わず息を飲む。眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔付きと焦燥感を滲ませる声。本気で心配してくれているのだ。こんな顔、見た事がない。僕は慌てて視線を逸らし、首に片手を添え、呼吸を整えながら何とか頷いて見せた。

「どうして、彼を庇う?」 頭上から憎悪と困惑とが入り交じった声がした。ネコは眉間に深く縦皺を刻み、背筋の凍る様な恐ろしい目で僕を睨み付けている。それでいて、時折川崎に同情する様な視線も送っている。未だネコを取り囲む殺意に気圧され、僕は肩を竦めた。


 川崎は腰を上げ、僕の眼前に庇う様にしてネコと向き合うと、あの禍々しく不穏なオーラを滲ませた。

「リックを俺の所に寄越したのは、やはりアンタだったんだな」

「リックを…?」

 川崎の言葉に、僕は驚嘆した。読心術の使い手というあの謎の少年と、ネコが繋がっていただなんて、思ってもみなかった。

「本名はエリック・ローズ。アンタに息子が居るとは聞いてたが、まさかと思い代表に調べて貰った」

 リックはネコの息子だったのか。以前、少年が自身の能力を悪く言わない人物が居ると言っていたが、それが父親だったのだろうか。

「記憶を読む能力は、四国に配属されたアサシンに多い心理的能力だ。そっちに飛ばされたアンタが絡む子供だという事はすぐに解った。何も知らない子供にあんな危険な思いをさせるのも、アンタの悪い癖だ」

 ネコは目的の為なら手段を選ばない性分らしい。川崎と接触をさせた事で、リックは小さな体で、あんな方法で記憶を消されてしまったのだ。僕が川崎の名を想像したが故でもあるのだが。

「何の為に、リックを川崎と接触させたんだ?」

 息子に危険な思いをさせて迄、川崎を探し出さねばならない理由があったのは明白だ。そして、病院から抜け出した理由もそこにあるのだろう。僕は節々の痛みに堪えながらも、好奇心から訊ねてみた。

 すると、川崎は此方をチラッと見下ろした。心無しかその目付きは寂しげである。が、すぐにネコの方へと視線を戻す。

「アンタは俺の側に、この人が居ると確信していた。リックには俺ではなく、この人を探す様に仕向けていたんだろう」

「……僕を?」

 川崎の言葉に、僕は目を丸くし、頓狂な声を発した。どうして僕を探していたのだろうか。ネコとは全く面識がなかった筈なのに。それもネコの言う川崎の人生を狂わせた事に原因があるのか。

「リックを使ったのは、四国から戻ってから所在が掴めない川崎を探す為の、苦肉の策だった」

 ネコは諦めた様に溜め息を吐き、眉尻を下げて心底申し訳なさそうに弁解した。しかし、すぐに恨みがましく僕を睨む。


「彼は己の罪をすっかり忘れてる。偽りの記憶に塗り替えて、第三者気取りでノウノウと生きてるんだ」

 ネコは鋭い口調で僕を責め立てる。同時に、川崎に対する非難めいた感情も、その口調から窺える。どうしてこんな僕の味方をするのかとでも言いたげである。

 自身の罪を偽りの記憶に塗り替えているだと?どういう事だ?僕の記憶に偽りなどない。15歳で他界した両親、病床に伏す妹、体に鞭打って働いた日々、入院、そして川崎の代理人としての今…。この記憶の何処が偽りだというのだろうか。

「考えるな」

 ネコの言う言葉の意味を必死に考えようとする僕に、川崎は此方を振り返らずに言った。何故だろう。その言葉を聞いただけで、胸中に渦巻く焦りも不安も、一瞬にして潮を引いた様に治まっていくのだ。癇癪を起こして泣き叫ぶ赤ん坊が、母親に抱かれ宥められる内に落ち着きを取り戻す様な感覚である。何とも不思議な瞬間だった。

「そうやって記憶を閉ざしても、己の罪から逃れる術はない。沸き上がる疑問に不安を煽るだけさ」

 一度は戦意喪失していたネコの目が、再び悪意で満たされ、僕へと注がれる。今度こそ殺される勢いで向けられた敵意に、僕は情けなくも川崎の背後に身を寄せ、血の混じった唾液を飲み込む。

 しかし、川崎がそれを赦さないとでも言う様に、威圧的なオーラを更に放つ。同期を相手に殺意すら含んだそれに晒され、僕もネコも戦慄した。押し潰されそうな程の強力なオーラに、全身が震える。

「俺から何を奪おうとしているか考えろ。これ以上この人に手を出せば、俺はアンタを殺す」

 低く掠れた抑揚のない口調が、更なる恐怖心を掻き立てる。僕がこれ程怖じ気付き、硬直してしまっているのだから、標的のネコはその何倍もの恐怖を感じている事だろう。彼は怯えた様に目を剥き、唇を固く結っている。暫時、周囲をただならぬ緊張が張り詰め、それぞれの息遣いさえ鮮明に聞こえて来る程であった。

 やがて、その空気に耐え兼ねたのか、ネコは口惜しそうに渾身の思いをぶつけるかの様に僕を鋭い目付きで睨み付けた。しかし、これ以上は手を出そうとせず、一歩後退りすると、足早に家を飛び出していった。

 川崎が放っていた黒いオーラも引き、辺りはしんと静まり返った。全身を物凄い速さで疲労感と痛みが駆け抜け、僕は顔を歪めて身を屈めた。

「痛いか?」

 顔を上げると、川崎は僕の正面に腰を下ろし、此方を不安げな表情で見つめている。

「…大丈夫。それより、川崎こそ動いて平気なのか?」

 先程迄、発作を起こして寝込んでいたのだ。僕は自身の外傷よりも、川崎の容態を案じてそう言った。すると、彼は少々驚いた様に目を丸くしてから頭(こうべ)を垂れた。

「済まない」

「え、否……」


 唐突にそう言われ、僕は困惑した。確かに川崎とネコの関係に巻き込まれたとも捉えられる件に、彼が謝るのも解る。が、そんな素直に謝られると何て返せば良いのやら。

「重くなかったか?」

「……え?」

 あまりにも脈絡のない問いに、僕は眉を寄せて首を傾げた。長い前髪の隙間から、沈んだ顔が覗く。重いとは、ネコのパンチの事なのか?言葉の意味が理解出来ていないと悟った彼は、居心地悪そうに目を逸らし、「俺が」

「……。あぁ、否、僕が運んだ訳じゃないから」

 どうやら自分が倒れた際、ベッドに運んでくれた事に対する謝意だった様だ。その時はネコが運んだのだから、僕に川崎の重さは判らないが。

「知らなかったよ。川崎に持病があるなんて」

 その言葉には少し非難を含んでいた。最初から知っていれば、普段から気に掛ける事も出来たし、もっと早く適切な対応が出来たかも知れないのだ。

 川崎は瞼を閉じ、細く長い溜め息を吐いた。

「迷惑を掛けた」

「迷惑はしてない」

 自責する様な口調で言う川崎の言葉に被せ、僕は語調を強めた。

「心配はしたけど…」

 本心を付け加えると、川崎は顔を上げ、暫く互いに見つめ合った。彼は子供の様に澄んだ瞳に僕を映している。この時、僕達はもうアサシンと代理人という浅い関係ではなく、友情ともいえる関係へと移り変わっていくのを感じた。

 時が経つにつれて室内は次第に薄暗くなっていく。川崎は立ち上がり、リビングの明かりを点けると、「待っててくれ」と言って一度自室へと入って行った。中から物を漁る音が聞こえたが、やがて小さなプラスチック製の箱を手に戻って来た。

「簡単な応急措置しか取れないが、何もしないよりはマシだろう」

 CDボックス程の箱には絆創膏や消毒液、包帯や湿布等がぎっしりと詰まっていた。救急箱だ。川崎は其処から長方形の脱脂綿を取り出し、消毒液を掛けて僕の額に当てた。痛みに顔が歪む。ネコに背中を突き飛ばされた際に、壁に擦って傷が出来てしまったのだろう。今迄気付かなかった。

 川崎は驚く程の慣れた手付きで患部に応急措置を施してくれた。肩に貼った湿布のツンとした臭いが鼻腔を擽る。

「散々なクリスマスだな」

「あぁ、お互い……」

 川崎が箱を整理しながら苦々しい声で言った事に、何の気なしに同意したのも束の間、僕はハッとした。そうだ、今日はクリスマスだ。

 僕は慌てて立ち上がろうとしたが、ネコに暴行を受けたお陰で体の至る所が悲鳴を上げた。つい口からもそれが飛び出る寸前であった。

「痛っ……」

 僕は腹を抱えて悶絶した。心配そうに顔を覗き込む川崎に、辛うじて平気だと伝えるも、機敏な動きは暫く控えねばならないだろう。

「そうか、妹にプレゼントでも渡すつもりだったか」

「あぁ。それと、代表から今夜誘いを受けてたんだ」


 病院で僕の見舞いを待ち侘びる妹の姿が脳裏を掠める。きっと不貞腐れているに違いない。早く会いに行ってやらねば。最悪、ウィリアム章大からの誘いは後日改める事にしよう。

 僕は川崎にウィリアム章大から今夜片岡リオのバーで飲む約束をしていた事を告げた。

「僕はこの体だし、難しいと思う。川崎も病み上がりだし、断るかな」

「そうだな。アンタは妹の所に行って、それからでも休んだ方が良い」

 弱音を吐く僕に、川崎は肯定的な意見をくれた。彼に礼を言うと、僕は痛む体に鞭を打って妹の待つ病院へと向かう事にした。沸き上がる疑問は、今は後回しだ。

 僕は先にショッピング街でタクシーを降り、最近巷で有名な洋菓子店へと立ち寄った。やはりクリスマスとあって、大勢の客が店頭に並んでいる。面会時間の終わりが迫っている事は解っているが、僕は此処のフルーツタルトが妹の大好物だと記憶していた。クリスマスにはそれを差し入れしようと決めていたのである。

 周りはカップルや家族連れ、仕事帰りのサラリーマンで賑わっている。ディナーのデザートとして持ち帰るつもりらしい。

 僕は人混みから顔を覗かせ、ショーケースにあのフルーツタルトがあるかを確かめた。色とりどりの品が陳列する中に、それが若干数残っているのが見え、安堵の溜め息を吐く。

 10分も掛かって漸く辿り着いたカウンターで愛想笑いを浮かべる店員に、早口で目当てのタルトと、適当にガトーショコラを注文する。アルバイトの高校生だろうか、おっとりとした丁寧な対応に、つい焦りを隠せなかった。釣り銭も保冷剤も要らないから、早く寄越してくれだなんて、無理難題を言い出しそうにもなる。

 やっとの思いでケーキの入った白い箱を受け取ると、僕は足早に自動ドアを潜ってタクシーを探した。後はこのまま病院へと向かうつもりだった。賑わう街並みの中、客待ちのタクシーはすぐに見つかった。道路の脇に立ち、掴まえようと片手を挙げようとした。

「……あ」

 しかし、ふとある事に気付き、思い留まって時刻を確認する。午後6時半を過ぎた頃だ。僕は一瞬迷いはしたが、やがて再びショッピング街へと戻った。

 30分後、僕はタクシーに乗り、妹の待つ総合病院へと向かった。

 面会時間の終了が刻一刻と迫る。僕は逸る気持ちに院内を小走りに進んでいた。関係者が見れば注意されたであろう速度だが、幸い擦れ違ったのは誰もが入院患者やその家族の様であった。

 自動販売機で緑茶と珈琲を買ってから、漸く妹の病室へと行き着いた。

 この病室は妹と同年代の患者ばかりで、室内には小振りなクリスマスツリーが綺麗に飾り付けられていた。サンタクロースや円形のエナメルのオーナメントに混じって、何故か短冊が提げてある。

 妹は窓側の右のベッドを使っている。他のベッドでは患者の家族らしき者との会話が聞こえて来る。こんな世界的なイベントの日に、妹を遅く迄独りにしてしまった事に罪悪感を覚えながら、閉められていたカーテンを開けた。

「遅くなって御免……」

 僕は開口一番で謝罪しようと思ったが、すぐに口を噤んだ。妹は天使の様な穏やかな寝顔を浮かべ、眠っていたのだ。不貞腐れているか、泣いているのではないかと心配していたが、どうやら杞憂だった様だ。念の為、近くに寄ってその顔をじっくりと観察してみたが、涙を流した跡も見当たらない。

 僕はベッドの脇に据えたパイプ椅子に腰を下ろし、暫く妹の寝顔を眺めていた。きっと起きていたら額に貼った大きな絆創膏を見て心配するに違いない。寧ろこの状況に感謝すべきかも知れない。病床に伏す妹に、余計な心配は掛けたくない。

 僕は面会時間が終わる迄、飽きる事なく妹の寝顔を見つめていた。思うのは先程のネコの言葉だ。僕が川崎の人生を狂わせた、ネコはそう言っていた。しかし、その様な事をした記憶は、少なからず僕にはない。が、自分の意思に反して相手を傷付けてしまうというのは良くある事だ。何気無い一言でも、聞く側の受け止め方では鉛の様に重く感じる事もある。川崎なんて、普段は顔に出さないから僕の言動に対してどんな感情を抱いているのかは、判然としない。そう言ってしまえば、必ずしも自分に非がないとは決して断言は出来ないのだ。

 僕は川崎に何をしたのか知りたかった。死でしか償えない程の事とは何なのか。帰宅した後、川崎に訊くつもりでいた。

 しかし、と思い留まるのには理由がある。妹の存在と、後の川崎の態度だ。もし本当に僕が川崎を窮地に追い込み、苦しめているとなれば、僕は彼の側に居るべきではないかも知れない。そうなれば、代理人としての座を退く事になるだろうが、それでは妹の多額の治療費を払う資源も潰えるのだ。まともな仕事の収入では賄える額じゃない。僕はこの為に川崎の代理人としてアサシンの業務に従事しているのだから。

 それに、川崎は先程僕をネコから庇ってくれたり、心底心配してくれていた。自分の人生を狂わせた元凶に、無償の情を投げ掛ける人間など居るだろうか。ネコに加勢しても可笑しくない状況だったにも関わらずだ。少なからず、僕には出来ない。側に居る事さえ苦痛に感じるだろう。

 やはり、あれは単なるネコの虚言だったのではないかとも思う。子供は注目を浴びたくて様々な行動を起こす事がある。例えば泣いてみたり、怒ってみたり、甘えてみたり。学校ではあたかも虐めにあっているかの様に振る舞ってみせる事だってあるのだ。川崎にぞっこんだったネコが、自分の気を引く為に僕を悪者扱いしたとしても、不思議ではない。

 僕はゆっくりと腰を上げると、ケーキの入った箱を冷蔵庫に、以前買ったプレゼントをサイドテーブルに置いた。折角気持ち良さそうに眠っているのに、起こすのは申し訳ない。目が覚めた時、妹は喜んでくれるだろうか。可愛らしい寝顔を脳裏に焼き付ける様に見つめてから、音を立てぬ様、カーテンを閉めた。

 常に暖かな病院から出た途端、底冷えする寒さに晒され、僕は身震いした。外はすっかり闇に覆われ、街灯が周囲を照らしている。

 時刻は午後8時を過ぎようとしていた。クリスマスとはいえ、この周辺はひっそりと静まり返っている。

 僕は道路沿いに出てタクシーを拾うと、後部座席に腰を据え、溜め息を吐いた。冷気に触れると、全身の痛みが更に増す様である。無意識に眉間に皺が寄る。運転手に行き先を告げると、車体はゆっくりとその方向へと進み始めた。

 車窓の景色は不規則な速度で移り変わる。無彩色の街が、今日限りのイルミネーションで鮮やかに彩られ、僕の網膜に容赦なく飛び込んで来る。建ち並ぶどの家々でも、家族や恋人とこの世界的なイベントに乗じて盛り上がっている事だろう。僕は背凭れに身を委ね、煌々と漏れる家の明かりを眺めながら、身寄りのない川崎を思った。

 タクシーはゆっくりと指定場所の前に停車した。精算を終えてマンションのエントランスに入る迄の僅かな外の寒さにも、身が縮んでしまう。

 オートロックを解錠し、エレベーターに乗り込むと、全身を程好い緊張が包み込んだ。心なしか、それは身体中を駆け巡ると、袋を提げた左手に行き着く様な気がする。目的の階に辿り着き、通路を歩きながら窓に映る自分の顔を確かめてみる。いつもと変わらぬ顔をしているだろうか。自分では判断しかねる。

 玄関のドアを開けると、隙間からモワッとした暖かな空気が漏れ出し、たちまち全身を包み込んだ。寒さと緊張で強張っていた体の筋肉が俄かに弛緩する。クッションフロアの奥のリビングに通じるドアに嵌め込まれた磨り硝子からは明かりが見え、テレビの音らしきものも僅かながらに聞こえて来る。

 靴を脱いでリビングのドアまでは1メートルほどしかないにも関わらず、やけに遠く長く感じた。その先に川崎が居る。そう思うだけで弛緩したばかりの緊張がまた高まるのだ。慣れない事をするとなれば、つい意気込んでしまうものである。僕は気を落ち着かせるべく深呼吸をしてから、やっとリビングのドアを開けた。其処にはソファに腰を据え、テレビを眺めるでもなく眺める川崎の姿があった。テレビでは拡大する日本のスラム化について、評論家が熱弁を奮っている。

「妹は喜んでくれたか」

 川崎は此方を振り返る事なく訊ねて来た。病み上がりにしてはしっかりとした口調だ。とても暫く病床に伏していた人間とは思えない。

「否、寝てたよ。待たせ過ぎたかな。プレゼントは置いて来たけど、起きるのは明日かな。また明日行って来るよ」

 僕の返答に、川崎は漸く此方に顔を向けた。相変わらずの無表情ではあるが、しかし、それでも何やら感付いた様な印象を受ける。それもその筈、僕は思い切り声が上擦り、早口になってしまっていたからだ。異変に気付かない訳がない。しかも、彼が此方を見た途端に僕は咄嗟に左手を背中の方へと回し、袋を隠したのがバレたかも知れない。明らかに不審な言動に彼が疑念を抱かない訳がない。

「そうか」

 しかし、川崎はそれ以上追及する事もなく、首を戻し、またテレビへと視線を移した。この無頓着さが時には有り難く思う。

 妙な沈黙が続いた。否、こうして同じ屋根の下に暮らしていながら互いに口を利かないのは珍しい事ではない。今日に限ってそれを妙だと思うのは、この左手に提げた袋のお陰である。

 このまま立ち尽くしていては川崎の疑念を煽るだけだ。まずは熱い珈琲でも啜って体を温め、気を落ち着かせよう。それからタイミングを見計らい、これを渡そう。僕は左半身を壁際に寄せ、袋を覆う様にコートを脱いで手に持ち、自室へと足を向けた。が、川崎の背後を横切ろうとしたその瞬間、何かが腹部にぶつかった。結構硬い。僕は反射的にその部分を見下ろした。川崎の手が背後に伸び、僕の腹部にあった。その手には小振りの箱が乗っている。シンプルな水色の包装紙に包まれた10センチメートル四方ほどの箱だ。

「え……」

 僕は最初、それが何であって、わざわざ僕の前に差し出した真意が掴めなかった。川崎は此方を見てはいない。目を丸くし、口を半開きにした頓狂な顔でそれを見下ろすばかりでいた僕に、川崎は堪りかねた様子で腰を捻って此方に上体を向けて見上げて来た。受け取れ、という意味だろうか。僕はコートを袋ごと床に置いてから箱を受け取った。その爽やかな配色とは裏腹に割と重みがある。

 包装紙を剥がしたのは自然な動作であり、殆ど無意識であった。とはいえ、何か得体の知れない期待に手先が覚束なく、紙を破いてしまいそうになりながら、僕は逸る気持ちを抑え切れなかった。徐々にその全貌が露になる様を、川崎は真顔で見つめている。

 箱から出て来たのは口径5センチメートルほどのマグカップだった。光沢のない高級感を漂わせる陶器製のそれは、包装紙に包まれていた時よりもずっしりと重く感じた。相反してそれをじっくりと眺める僕の瞳は少女漫画に登場する少女の様に星空や宝石を彷彿とさせるキラキラとした輝きを放っていたに違いない。僕は感動に打ちひしがれ、体が熱くなっていくのを感じていた。漸くそれが僕へのクリスマスプレゼントである事に気付いたのだ。きっと珈琲好きな僕の為に、川崎が吟味し、選び抜いた逸品なのだろう。彼らしいシンプルでありながら存在感のある洒落たデザインだ。

「良かったら使ってくれ」

 素っ気ない声にも、どこかいつもとは違う感情が入り雑じっている様に思えた。気のせいかも知れないが、僕にはまるで地上に伸びる薄日と共に発せられた神の声にすら感じたのである。

「有り難う……」

 僕はそう言いながら身を屈め、空いた手でコートを退いて袋を掴むと、川崎の眼前に差し出した。彼はそれを見るや無表情で小首を傾げている。先程の僕とさして変わらぬ困惑の行動だ。何も言わずにゆっくりとそれを受け取り、中を覗き込む。袋から取り出した箱の包装紙を至極丁寧に外していく姿を、僕は両手でマグカップを包み込みながら見つめていた。まさか僕がこんなものを用意していただなんて、予想だにしていなかっただろう。と思いながらも、その無表情を見ているとそうでもなさそうな気にさえなる。感情の起伏に乏しい彼からは、今の所別段変わった様子は窺えない。

 川崎の手にウール素材の真っ白なマフラーが広げられた。病院に行く途中にふと思い立ち、急遽彼のクリスマスプレゼントにと買って来たのだ。

「あの、ほら、川崎って任務でこんな寒い中に外出する事が多いだろ?だから、その、少しでも温かくと思って…。色々探してはみたけど、好みとか全然判らないし、もしかしたら気に入らないかも知れないけど……」

 無言で物珍しげにマフラーを眺めたり、質感を確かめているらしい川崎に、照れ隠しと言わんばかりに捲し立てると、彼はまた驚いているかも喜んでいるかも判然としない無表情で此方を見上げて来た。暫しの沈黙がふたりを包む。

「……何?」

「否…」

 堪らず訊ねると、川崎は目を伏せて含みを持たせて一度言葉を切った。それから妙に畏まった口振りで、「アンタにしては、無難なセンスだな」

「……返せよ」

 川崎の憎たらしい感想に、僕はすっかり臍(へそ)を曲げ、あからさまに不機嫌な顔付きでマフラーの端を掴んで引っ張ろうとしたが、彼はそれを制し、

「有り難う」

と、言った。その時の川崎の顔を、僕は一生忘れないだろう。冷酷な印象を受ける切れ長の目を細め、口角を緩やかに吊り上げた、初めて見せた笑顔を。

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