No.355:The vocalist of the mask.
学校、図書館、美術館、森林公園。どれをとっても国内随一の規模を誇る施設が軒を連ねる朝比奈ニュータウン。オフィス街から車で約20分程の高級住宅街を取り込んだ其処は、世界的な不況や犯罪沙汰を微塵も感じさせぬ静閑さを持っている。一帯に住む人々は社会的地位を持つ大富豪ばかりで、世帯から金を徴収し、街ぐるみでセキュリティ管理をしているのである。
その中でも一際空高く聳え立つ高層マンションの一室。上層階にもなると街灯の明かりも、外の生活音も届かない静寂に包まれた空間である。広々としたリビングには価格もデザインも一流の家具類が、スタンドライトの淡い明かりに、ぼんやりと照らされている。特に目を引くのは、室内の一帖分を占める大きなオーディオだ。世界で最も支持されているメーカーの新商品で、室内の至る箇所にスピーカーを配している。今そこからは一昔前に大流行したバンドの曲が大音量で流れている。聴く者によっては騒音とも捉えかねない程のボリュームだ。室内にスクランブル交差点でも作ったのかというイメージを抱いて頂ければ解り易いであろう。この大音量で隣人が怒り狂って怒鳴り込んで来ないのも、高級マンションと謳う程の防音設備が施されているお陰と言えよう。寧(むし)ろ上質な革張りのソファに身を沈める女の耳には、まるで子守唄の様に心地好く聴こえているのだ。 その女は見る者すべてがハッと息を飲む程、魅力的な容貌をしていた。猫の様な大きな目は長い睫毛に縁取られ、鼻筋は高く通り、唇は柔らかそうにふっくらとした厚みがある。背も高くスレンダーで、モデル並みの抜群なスタイルだ。恐らくこの女の微笑には魔性のものを感じさせ、誰もが惹き付けられ、憧憬の眼差しを向ける事であろう。
女は股を肩幅程に開き、両方の膝に左右それぞれの肘をつき、前屈みの状態である一点を見つめていた。生気の感じられない人形の様なその姿には、この世を絶望視した喪失感が見て取れる。とても笑顔を見せてくれる様な雰囲気ではない。
室内に流れる割れんばかりの曲が、ラストスパートに向けて演奏が徐々にヒートアップしていく。焦燥感を掻き立てるドラム、高鳴る鼓動を彷彿とさせるベース、絶叫にも似たギター。それをバックに鳥肌の立つ酷く嗄(しわが)れた男の声が、渾身の思いをシャウトする。
女はおもむろに譫言(うわごと)の様に歌詞の一部分を口ずさみながら、それでも眼前の机上に置かれた錠剤を、いつまでも見つめていた。
「お願いします!お金はいくらでも払いますから!」
気迫のある甲高い女の声は、事務所の外側に居ながらも届いて来た。僕はビルの階段の一階と二階の踊り場で、それを聞いた。何やら刑事ドラマか何かで聞いた様な台詞である。身代金目当てで子供を誘拐された金持ちの親が、犯人にそんな事を言うシーンが良くある気がする。まぁ、その後に続く台詞が、
「子供の命だけは助けて下さい!」
ではなく、
「彼奴(あいつ)を殺して下さい!」
となるのが、アサシンに殺害の依頼をするクライアントならではと言えよう。
事務所内に充満する煙草の臭いと、あのむさ苦しい男の顔を思い浮かべるだけでも心底気が滅入るというのに、加えてあんなヒステリックなクライアントが中に居るとなれば、この場で踵を返して帰宅の途にも着きたくなる。何事に於いても相手に不快な思いをさせる程に自我を忘れて取り乱す人間は、僕は嫌いだ。好きという者も中々居ないであろう。あの状況で僕が割って入れば、事態は更に悪い方向へと向かいそうだ。取り敢えず、ほとぼりが冷めるのを待とう。僕は二階へと辿り着くと、事務所のドアの左側の壁に凭れ、入室のタイミングを見計らう事にした。
「もう結構です!!」
何度目かのやり取りの後、一際甲高い声が聞こえたかと思うと、床を蹴る様な荒々しいヒールの音が此方へと近付いて来た。嫌な予感がして、僕は素早く更に左に避けると、案の定ドアが勢い良く開け放たれ、ひとりの女が飛び出して来た。ドアは先程僕が立っていた壁に思い切り叩き付けられ、危うく嵌め殺しの磨り硝子が割れるどころか、僕に激突する寸前であった。女はダークブラウンのロングヘアを靡かせ、鮮やかな赤いピーコート姿で、僕の存在に気付く様子もなく、そのまま足早に階段を駆け降りて行ってしまった。僕は暫く茫然と女の去って行った階段を眺めていた。
「何だ、居たのか」
ドアを閉めに来たのであろう、ウィリアム章大(しょうた)が中から姿を現し、声を掛けて来た。自称・無造作ヘアをすべて後ろに撫で付け、黒いスーツにベージュのネクタイを締めた格好に、僕は面食らってしまった。来客をもてなすに相応する身形(みなり)ではあるが、その口調と険悪な表情からは不機嫌さが見て取れる。そりゃ面と向かってあんなにヒステリックに叫ばれれば、誰でも腹が立つだろう。
ウィリアム章大に促され、入った室内は、あの嫌な臭いも然程(さほど)しなかった。窓を開けて換気しているからであろう。が、その矢先に彼はデスクの上にあった煙草の箱に手を伸ばしている。
「ったく、マジあの女ムカつくな〜」
彼はすっかりご立腹らしく、ドカッとチェアに腰を下ろすと、煙草を口に咥え、先端に火を点けた。元々言葉遣いがあまり良い方ではないが、これ程クライアントに直接的な暴言を吐く事も珍しい。
「何か気に食わない事でも?」
興味本意で訊ねてみると、彼は背凭れに深く身を沈め、デスクの上に足を組んで乗せてから、紫煙を吐き出した。
「水城透子を殺してくれと依頼して来たんだ」
「水城透子?」
その名は最近、急にメディアで取り上げられる様になり、世間を賑わせているから嫌でも記憶している。
水城透子と言えば、大手芸能プロダクション「F.T.F」が今世紀最強の歌姫として売り出している若手の女性歌手である。腰に届きそうな程のミルクティーブラウンの髪に緩やかなパーマをかけ、奥二重の垂れ目に、小さな可愛らしい唇の、小柄な少女である。少女、といっても年齢はおろか、彼女に関する個人情報は一切公開されておらず、口数の少なさも謎を秘めた存在として人気が高まっている。いつもピンクやパステルカラーの服を着ていて、お姫様と囃し立てられているとか。正直、歌手というよりはアイドル的な位置付けにあり、彼女を支持するファンも20代後半〜40代の男が大多数を占める。彼等の熱狂ぶりはある種の宗教団体で、彼女はまさに教祖だと言う評論家も居る。
たまに発する声と、歌声の違いも世間が注目している点である。普段は小鳥の囀(さえず)りの様に、甘く鼻にかかった様な声だが、歌うとなるとガクッとオクターブが下がるのだ。今世紀最強の歌姫と謳われているだけあって、声域の広さや綺麗なファルセットにビブラート、どれをとっても抜群の歌唱力である。それでいて、聴く者の脳裏に曲全体のストーリーをすんなりと思い描かせる、そんな神憑りな声の持ち主なのだ。
……誤解しないで頂きたいが、以上の水城透子に関する情報は僕の予備知識ではない。更に言っておくと、僕はロリコンでもない。これだけの情報は、僕が彼女の名を口にした際、語尾に疑問符を付けた事で、その存在を知らないと思われ、ウィリアム章大が教えてくれた事である。彼は息つく暇もなく知識をひけらかすと、満足げに煙草を口に咥えた。先程吸い終えたばかりだというのに。
まぁ、芸能人に詳しくない僕でさえ、先月下旬に発売された彼女のクリスマスソングが4週連続1位を記録し、テレビでも街頭でもそれが流れているのは知っている。
「今の女は松平佳澄とかいう、その水城透子の現場マネージャーらしいんだが、理由も言わず、ただ殺してくれの一点張りだ」
ウィリアム章大は窮屈そうにネクタイを緩めながら、苦々しい表情を浮かべている。あまりにも理不尽なクライアントの要求に苛立っているのであろう。
彼は来る者拒まず精神で単純にすべての依頼を請け負う訳ではない。ターゲットの喪失により起こり得る公私に渡る損得を考慮した上で、依頼を請けるか否かを見極めるのである。確かに、今回のターゲットは売れっ子の歌手とあって、その損失はかなり大きいであろう。プロダクションだって痛手を負う事になるし、信者(ファン)達の精神的ダメージも計り知れない。それはクライアントとしても、例外ではないのだ。そういった明らかな損失を判断し、彼も依頼を断ったに違いない。
「困るよな、透子ちゃんがこの世から居なくなるだなんて」
「え?」
「もし他の仲介業に依頼されて透子ちゃんが殺られたら、俺そいつ突き止めてアサシンも仲介業もろとも殺しちゃうな」
「……はい?」
至って真顔で話す彼に、僕は呆気に取られ、間の抜けた声で返していた。否、まぁ、間違いなく困るんだろうな、関係者は。
で?何故に貴方が困るというのか。万一ターゲットが殺害されたら、何故に貴方が仇討ちをするというのか。僕は事態を把握した途端、敢えてこれ以上の口出しはしない事にした。居たよ、此処にも信者が…。売れっ子は大変だが、お陰で命拾いしたんだろうな。
恐らく彼は今回、水城透子の一ファンという超個人的な立場で依頼を断ったに違いない。理不尽なのはどっちだ。頭が痛い。
僕は鞄から先日川崎が請けた依頼の事後報告書を提出し、早々に退室した。あのクリスマスソングを口ずさむ信者を残して……。
ビルを出ると、凍てつく冷たい風が剥き出しの肌を刺す。僕は寒さに身震いしながら、不意に空を見上げた。其処には灰色の厚い雲が翼を広げ、更に上の青空を覆い尽くしている。その無彩色の景色を眺めていると、この寒さが一層厳しさを増す様である。残り一週間を切ったクリスマスも、こんな曇り空の下で過ごす事になりそうだ。
「おーい!ちょっと待ってくれー」
その時、頭上から聞き慣れた男の声が降り掛かって来た。振り返り、ビルへと向き直ると、開いた窓からウィリアム章大が顔を覗かせていた。その手には、A4サイズの紙が握られている。
「報告書に川崎のサインがないぞー」
彼の言葉はまだ続いていたが、僕は視界の上部にちらつく何かが気になり、更に上へと焦点を合わせて絶句した。ビルの屋上に、人が立っているのだ。落下防止用の柵を乗り越え、身を乗り出し、地上を見下ろしている様に見える。顔迄は確認出来ないが、あのダークブラウンのロングヘアに赤いピーコートは、先程事務所を飛び出した女ではないか!
僕は慌ててビルの中へと引き返し、階段を駆け上がった。どうしてこの建物にはエレベーターがないのかと、初めて苛立った。あの女、まさか依頼を断られた事で此処から飛び降り自殺でもしようだなんて……、考えているだろうな、あの様子は。僕は全速力で5階迄を走った。どうか間に合ってくれ!
屋上の扉を開け、急いで周囲を見渡すと、道路に面した柵にしがみつき、顔を伏せて屈み込んでいる女の姿があった。僕は其処に居るという事に少し緊張を解しながら駆け寄り、冷風に晒され赤くなった手に触れた。冷たい。すっかり感覚がなくなっている様だ。
「何やってるんだ!こっちに来い!」
僕が強い口調で呼び掛けると、女はハッとした様子で顔を上げた。細い切れ長の目に低い鼻、薄い唇と、これといって特徴のない顔で、フレームのない楕円形の眼鏡を掛けた30代程の女である。恐怖と驚きと悲愴の入り交じった複雑な表情を浮かべ、体を小刻みに震わせている。
「……どうして」
「…え?」
女は喉から絞り出す様に、苦し気に呟いた。言葉の意味が解せず、首を傾げる僕を、光に翳したビー玉の様な潤んだ瞳で見つめている。
「どうして、止めるの…」
引き留められた事に対して何処か非難する様な口振りである。見ず知らずの人間がこれからなそうとする行為を何故阻止しようとするのか、純粋に訊いている様にも受け取れる。僕は少々躊躇ったが、意を決して本心を打ち明けた。
「赤の他人だろうと何だろうと、目の前で死なれては夢見が悪い」
僕は努めて穏やかに、しかし真剣な口調でそう言い切った。自分勝手な理由なのは重々承知している。今日初めて会って、まだまともに会話もしていない人間に、見知った間柄と同様の思いを抱けというのは無理な話である。川崎や妹の危篤に「死ぬな」と言うのとでは訳が違うのだ。かといって、素性も知らない人間に対して「お好きにどうぞ」なんて言う程、僕は無神経ではない。偽善者を演じるつもりはない。故に正直な理由ではあった。
女は暫く茫然自失といった様子で僕を正視していたが、やがて眉尻を下げ、唇を固く結い、顔を伏せて嗚咽し始めた。どうやら其処から飛び降りる気は失せた様だ。僕は安堵の溜め息を漏らし、女が泣き止むのを待った。
その後、泣き止んだ女は冷えきった体で何とか柵を上って此方側へと戻って来た。元々化粧は薄い様だが、涙でアイラインが消えてしまい、先程より目が若干小さく見える。極度の寒がりである僕も歯がガタガタと震え出し、彼女が戻って来るや否や、一緒に近くのカフェへと暖を取りに向かった。どうも事務所には引き返し難い雰囲気があったからだ。幸い、道路を挟んで斜め向かいに小さなカフェがあり、僕達は淹れたばかりの熱い珈琲で身も心も落ち着かせた。
「どうも、お騒がせしました…」
マグカップを両手に持ち、大事そうに珈琲を少しずつ啜っていた女が、心に余裕が出来たのか、心底申し訳なさそうに肩を竦め、伏し目がちにポツリと呟いた。先程のヒステリックな態度と、自殺を目論んでいた勢いは、今は全く見受けられない。普段は物静かな性格なのだろう。木製の固い椅子に腰掛け、内心本当だよと思う反面、僕はすっかり安心していた。
「松平さん、だっけ?もう大丈夫なのか?」
「えぇ、大方…」
僕の問いに、松平佳澄は此方へと視線を移し、小さく頷いた。酒焼けでもしたかの様な、酷く嗄れた声である。まだ若い(といっても僕よりは年上なのだろうが)勿体無い。しかし、彼女の声には何処か聞き覚えがある。
僕は小声で自身が或るアサシンの代理人である事を明かしてから、
「どうして、水城透子の殺害を依頼したんだ?」
と、訊ねてみた。先程は感情が昂ってしまい、会話が成り立っていなかった様だが、落ち着きを取り戻した今なら、ターゲットの殺害を依頼した理由を話してくれるかも知れないと思ったのだ。どの道、ウィリアム章大に話した所で、無理だと一蹴されてしまいかねないのだが、僕は本当の第三者という意味では、理解出来るかも知れない。
松平はマグカップの中で小波を立てている珈琲をジッと見つめ、押し黙っている。余程言い難い事なのであろう。相当な頑固者である。そこで僕はターゲットの喪失により起こり得る損得を説いてみた。芸能プロダクション、ファン、松平自身にとっても大きな損害があるのではないかと、持論を述べた。
「それでも、殺して欲しいのか?」
松平は暫く考え込む様に眉間に皺を寄せていたが、何か思い立った様に顔を上げ、僕を見据えた。
「じゃあ、西島をターゲットにすれば良いの?」
「西島?」
松平は神妙な面持ちで頷いて見せてから、
「『F.T.F』の社長で、元『ViCE』のボーカルの西島淳也よ」
と、付け加えた。その西島淳也という存在が何故浮上したのか、僕には解らなかった。
「どういう事だ?詳しく聞かせてくれ」
「……え?」
僕が同じ事を訊こうと口を開いたと同時に、横から声が聞こえて来た。顔を上げると、其処には長身の外国人が立っていた。僕と松平は間の抜けた声を揃え、その人物を凝視した。ウィリアム章大である。彼は渋面で険悪な雰囲気を滲ませている。一体、何故此処に?
「西島淳也って奴と透子ちゃんがどういう関係かと訊いてるんだ」
「特に深い付き合いでは…。今回の透子の新曲を手掛けたのが西島というだけで」
「あ、そ。なら良い」
ウィリアム章大は心底安心した様にホッと胸を撫で下ろし、僕の横に腰を下ろした。何なんだ、唐突に現れおいて。話を聞きに来たのなら、公私混同せず、しっかり仕事をして頂きたい。
松平によると、西島淳也というのは一昔前に大流行した「ViCE」というバンドで一躍人気を博したミュージシャンであり、水城透子の所属する芸能プロダクションの社長でもある。今でも様々なアーティストの楽曲活動に参加したり、バンドのツアーグッズのデザインもしているという、この業界では名の知れた鬼才なのだとか。30代後半にしてアスリート並みの引き締まった体躯に、獣の様な危なっかしい顔付きと酷くハスキーな声で世の女性を魅了し、バンドは今でも語り継がれるという。聞けば一度は耳にした事はあるヒット曲を数多く持っているらしい。
しかし、どうしてこの場面で西島の名前が挙がったのだろうか。松平は当初、ヒステリックになる程に水城透子の殺害を依頼して来たのに、この期に及んで西島に変えれば良いのかという発言も変だ。この3人の間にはどういう因果関係があるのだろうか。
「もうこんな時間…。すみません、また日を改めて来ます」
不意に松平は自身の腕時計に視線を落とし、慌てて立ち上がった。バッグから財布を取り出し、珈琲の代金を払おうとしているが、僕も腰を上げ、それを制した。
「僕が払う。ただ、受け取って貰いたい物がある」
怪訝な表情を浮かべ、首を傾げる松平を待たせ、僕は鞄からメモ帳を取り出すと、スーツの胸ポケットに挿してあるボールペンを引き抜き、それに走らせた。僕の携帯電話の番号を走り書きすると、彼女へと手渡す。ウィリアム章大に叱責されるかと思ったが、彼は煙草を口に咥え、ウェイトレスに火種を貰おうと店内を見渡している。恐らく、解っていながら見過ごしてくれているのだろう。
「また時間が出来たら、僕に連絡を」
松平は真剣な顔付きで頷いて見せると、此方に頭を下げ、急いでその場から立ち去って行った。
正直、今回の件についてはウィリアム章大が許可を出さないとは思うし、彼女の話には耳も貸さないと思う。だが、僕は納得がいかないし、また彼女が身投げでもしたらと思うと、そのまま見送る事は出来なかった。
「代表」
「何だ」
ウェイトレスからマッチを受け取り、煙草の先端に火を点けたウィリアム章大へと、僕は声を掛けた。彼もまた事態を把握したらしく、妙に微笑を浮かべて返答した。
「もしまた彼女が来たら、教えて頂けませんか?」
何故、水城透子を殺して欲しいのか。仮にそれが拒否された場合、何故西島淳也にターゲットを変更したいのか。一体、何の為に殺す必要があるのか。理由もなしに簡単に依頼を請ける訳にはいかない。もしかしたら、松平は別の仲介業に依頼を持ち掛けるかも知れない。が、何処かでそれはないという妙な自信があった。僕自身、その理由を訊かれても答えられないのだが。
「…解ったよ」
彼は僅かではあるが、楽しげに頷いて見せた。彼にも気付いているのかも知れない。僕は間接的に、彼女を以前から知っている事に。
その夜、テレビの音楽番組に渦中の水城透子が出演していた。チャンネルを変えていたらたまたま映っただけなのだが、日中の一件もあり、僕はそれを見てみる事にした。それ迄は背凭れにダラリと寄り掛かってリモコンを握っていたのだが、気付けば僕は会議に参加しているサラリーマンの様に姿勢を正し、テレビの画面を正視していた。
水城透子はクリスマスを目前に控え、フリルとレースをふんだんにあしらったミニドレス、ベビーピンクの薔薇のコサージュ、パンプスといった姿で、至る箇所にアクセサリーを散りばめ、さながら雪の妖精を模した所だろうか。司会者とのトークの大半は一言で返すだけで、殆ど言葉を発する事なく続いた。当人の個人情報の一切が非公開とあって、自身の素性を明かさぬ様にと口止めされているのかも知れない。終始落ち着きなく目線を泳がせ、その場を取り繕うと、ただ愛想笑いを浮かべているだけの様に感じるのは、僕だけだろうか。まぁ、世の信者達はこの悩ましげな表情を見て、今まさにエールとラブコールを送っているのであろう。スピーカーからも、野太い男達の声が聞こえて来ている。もしかしたら、罪のない司会者に野次を飛ばしているのかも知れない。
「アンタ、この歌手のファンなのか」
先程迄、夕飯の時間になっても自室で眠っていた川崎が、起きて来るなりテレビの画面を食い入る様に眺めている僕を見て、ソファの後ろから訊ねて来た。普段はニュースかドキュメンタリー番組しか見ない僕が、と驚くのかと思ったが、案外いつも通りの抑揚のない口調である。寝起きで感覚が鈍っているのであろう。
「知ってるのか?」
「残念ながら成人は超えてる様に見えるが」
「……。飯、温めて食べてろ」
どうやら川崎にとっての僕のイメージは、すっかりロリコンかシスコンになっているらしい。違うというのに…。今更訂正する気にもなれず、僕は渋面を浮かべながら、ぶっきらぼうにキッチンを指差した。彼は悪怯れた様子もなく、そちらへと姿を消した。全く、デリカシーのない男である。
そして、愈々(いよいよ)水城透子の歌が始まった。ステージは白と青のライトとスモークで幻想的な雰囲気を醸し出している。オーケストラとコーラスを率いて、先月下旬に発売されたクリスマスソングが流れ出す。西島淳也が提供したという、あの曲だ。僕はソファから身を乗り出し、注意深く彼女の動きに目を見張り、耳をそばだててその歌声を聞いた。
素人見解だが、この歌声は本当に素晴らしい。音程の取り難い曲なのに、一分の狂いもなく、難なくこなしている。絶妙な声量の強弱なんて、ミュージカルの様に巧みに表現されているし、何より途切れる事なく綺麗なファルセットのロングトーンが決まっている。ウィリアム章大が言っていた神憑りな声というのも、強(あなが)ちファンの欲目だけでもない。鳥肌さえ立つ程の歌唱力だ。
水城透子の歌が終わると、番組は一旦CMへと移り変わった。僕は知らぬ間に全身に走らせていた緊張を解くべく、背凭れに身を委ねた。自然と大きな溜め息が漏れる。思った通りだ。
「随分と真剣に見入ってたな」
ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、遅めの夕飯を口に運びながら、川崎は此方を見ずに声を掛けて来た。
「あぁ。予想以上に、演技が下手だなと思って」
僕は肘掛けを使って頬杖をつき、彼の背中をぼんやりと眺めながらそう答えた。
アサシンの心理的能力程ではないが、メディアの洗脳というのはこうも凄まじいものなのかと、今更になって思い知らされた。そこ迄真剣に検証しようと思った人間は居ないのだろうか。否、僕の様な素人でさえ判断出来たのだ、知っていながら公表出来ないという圧力を掛けられているのか、知った上でも支持する者も中には居るであろう。或いはメディアの洗脳にまんまと錯綜され、真実を見る目が失われてしまったか。
あの神憑りな歌声は、水城透子のものではない。テレビの画面を見ながら歌を聞いていると、彼女の口の動きと流れて来る声とが噛み合っていない場面が目立つのだ。当人は口を閉じているのに声が聞こえた箇所はふたつもあった。彼女が終始自信なさげな表情と態度を見せていたのは、僕みたいな勘繰り深い人間に、その事を知られる事への恐れか、単純に大きなミスをしないかという焦りか。
まぁ、これだけなら極度の上がり症故に、レコーディング中はちゃんと歌っているが、人前に出る時はアテレコというスタイルを取っている可能性も考えられる。実際、バックの演奏は大半がそうなのだ。歌にだって同じ事が言えよう。しかし、僕はこの歌声の主を知っている。水城透子の現場マネージャー、松平佳澄だ。
あの腹から出した様な低い声と、普段の声を聞けば、大方合致する。飽く迄これは僕の憶測だが、もし本当なら、彼女が水城透子の殺害を依頼した理由も見当がつく。 松平佳澄の歌唱力は誰もが認める程の素晴らしさだが、彼女を売り出すには問題があった。失礼な話だが、彼女はインパクトのある様な容姿ではなく、どちらかといえば地味なタイプだ。メディアに姿を見せずに活動する事も可能だが、どうせなら話題性のある会社の看板が欲しい。そこで白羽の矢が立ったのが、容姿は抜群に良い水城透子だ。松平佳澄の歌声に、水城透子の容姿とあれば、もう虎に翼であると考えた。しかし、松平佳澄としては面白くはないだろう。腹を立てた彼女は、アサシンに殺害の依頼をする…。
西島淳也に関してはどうだろう。彼は芸能プロダクションの社長、差し詰め「虎に翼」作戦を最終的に承認した事が、松平佳澄には納得がいかなかった、といった所だろうか。彼女にしてみれば、自分の手柄を他人に横取りされたも同然なのである。
「川崎」
「何だ」
僕が黙考している間に、川崎は夕飯を済ませ、キッチンで食器を洗っている。キッチンはリビングの隅の奥まった所にあるのだが、ソファがある位置からはシンクに立つ彼の姿が見えるのだ。
「もし、川崎が自分の手柄を他人に横取りされたら……」
言い終えぬ内に、キッチンから硝子の割れる耳障りな音が響いた。驚いてその場で身を乗り出し、キッチンを覗き込むと、川崎がいつになく戦慄してしまう程のオーラを放ち、此方を見据えていた。相変わらず無表情ではあるが、何処か怒気を含んだその顔付きに、僕は粟立ち、硬直した。
「何故、そんな事を訊く?」
「……」
しかし、内から滲み出る黒いオーラとは打って変わり、その声からは心なしか焦りを感じた。表には見せないにしろ、動揺している様だ。何故?こっちが訊きたいよ。
僕はもしもの話だと前置きしてから、日中に起きた一連の経緯を話した。どうやら誤解が解けたらしい川崎は、深々と溜め息を吐いてから、シンクに散らばったのであろう硝子の破片を拾い始めた。
「済まない、割ってしまって」
「良いよ、明日買って来る」
僕はそう言って再びソファに体を戻してから、先程の彼の言動を真剣に考えた。彼は僕の問い掛けに珍しく動揺していた。まさか、任務達成率100%を誇るアサシンが、他者に仕事を横取りされただなんて事があったのだろうか。否、始めた当初なら考えられなくもない話である。もしかしたら、彼にとって触れられたくない傷を、僕は抉ってしまったのかも知れない。彼に対する好奇心はあるが、あれ程の焦りを見せられては追及し難い。僕にだって人に知られたくない過去の失態はあるのだ。まぁ、川崎には思い切り知られてしまったのだが(妹の部屋の事である)。
「…そのクライアント、松平佳澄とか言ったな」
硝子の破片を古新聞紙で包んでいた川崎が、唐突にそう言い出した。その口調は既にいつもの様子に戻っている。僕が肯定すると、彼は空(くう)を見つめ、暫く黙り込んでいたが、
「松平……、松平か」
と、独り言の様に呟いた。僕が怪訝な表情で眺めている事に気付くと、うなじに左手を添えて首を鳴らし、
「記憶違いかも知れない。忘れてくれ」
翌朝、僕は家事を済ませてから外出の支度をしていた。川崎が割った食器は、良く使うプレートだった為に、早い所買い足しに行こうと思っていたのだ。その間に何度も携帯電話の待受画面を確認してみたが、未だに着信はない。松平から連絡が来ないかと気になっているのだが、何せ売れっ子歌手のマネージャーである、そんなに自分に費やす時間もないのだろう。
身支度を整え、家を出ようとした矢先、僕は昨日ウィリアム章大から事後報告書を渡された事を思い出した。川崎のサインがなかった為に返されたのだ。こんな寒い中、何度も往復したくはない、用事は纏めて済ませておきたい。僕は鞄から書類を取り出し、川崎の自室のドアをノックした。「何だ」
案外、返事はすぐに来た。寝ている所を起こす覚悟でいたのだが、どうやら起きていたらしい。
「事後報告書にサインがなかったみたいなんだ」
「今出る」
川崎は数秒でドアを開けた。相変わらずの無表情で書類を受け取ると、一旦室内に戻りサインをしている。チラッと中を覗いてみたが、デスクの上にノートパソコンと何かの紙が束ねてあるだけで、他に今迄と変わった所はなかった。
「出掛けるのか?」
ボールペンを机上に残し、此方へと歩み寄りながら、川崎が訊ねて来た。既にトレンチコートを羽織っているのだから、どう見ても外出するのは一目瞭然である。
「ちょっと、買い出しに」
「俺も行って良いか?」
「はいっ?」
昨日貴方が割った皿を補充しますだなんて面と向かって言えず、そう答えると、彼は予想だにしない質問を投げ掛けて来た。川崎と一緒に買い物?今日こそは大雪でも降るのだろうか。
「ペンのインクが切れそうだから」
「あ、あぁ…。解った。じゃあ、待ってるよ」
あからさまに動揺する僕に、川崎は眉を潜めてそう言うと、ドアを閉めてしまった。ペン位、言ってくれれば買って来るのに……。川崎とプライベートで外出するだなんて、考えもしなかった。僕は付き合い始めたばかりの恋人の様に、彼が準備を終えるのを待った。
30分後、僕達は家を出てタクシーでショッピング街へと向かった。其処に行けば生活用品が何でも揃うのだ。衣類、食品、日用品、雑貨、家具家電等といった国内外の品々が売られている。クリスマス時期とあってか、いつも以上に人が集まっている。
まずは川崎の為に文房具屋へと足を運んだのだが、彼は思ったよりも早く用事を済ませてしまい、僕の買い物の付き合いをして貰う羽目となった。先に帰っても良いのにと言ったが、食品を買うなら荷物持ちが必要だろうと返して来た。確かに、大食いの彼との食材を運ぶのは大変なのである。本当に厚意で言ってくれたのか、単なる暇潰しかはさておき、次は食器を取り扱う雑貨屋だ。多種多様な食器が棚に整然と陳列されている中を、互いに思い思いに眺める。
僕は最初に本来の目的であるプレートを見て回った。大体同じ位の大きさのそれを手に取っては、厚さや深さを細かくチェックし、且(か)つデザインにも拘(こだわ)る。実用的なのは勿論の事、長く使うなら気に入ったデザインの物を選びたいのだ。とはいえ、ひとつにプレートといってもこの店には大きさや形、デザイン、素材の異なるものが多数揃っている。自分の気に入る品を発掘するのにも時間を要する。黒いリーフ柄の白いプレートに決めた時点で15分は経っていた。
退屈してはいないかと店内を見渡し、川崎を探していると、彼は和風の食器の並ぶ棚の前でそれらを見つめていた。意外とそういう趣(おもむき)のある物の方が好きなのだろうか。当人は和が似合う様な容姿ではないが。否、着物は割と似合いそうだ。ちょっと平べったいのが難点だが。
僕はその間に、今度はマグカップを物色する事にした。家には2個しか置いておらず、もしもの来客用に買い足しておこうとは前々から思っていたのだ。が、「よし、来客用のマグカップを買いに行こう」というだけで態々(わざわざ)外出したりはしないものだ。こういう時のついでとして、つい後回しにしてしまい、いざという時に後悔するものである。
さて、どんな物が良いだろうか。シンプル過ぎては来客用として味気無いし、派手過ぎては使う側の気が引けてしまう。選ぶ者のセンスが問われる。プレート同様に、マグカップにも数十と種類がある。僕はそれらを見渡し、目を引く物を手当たり次第に持ち上げ、眺めていった。
漸くシルバーとグレーの花柄の洒落たマグカップを2個選んだ所に、川崎がやって来た。その手にはこの店の名前が印刷されたビニール袋を提げている。知らぬ間に会計を済ませていた様だ。僕はマグカップの入った箱を手に取ると、彼の横を擦り抜けてレジへと向かった。代金を支払い、共に店を出る。
「アンタにしては、センスあるな」
「余計なお世話だ」
妹の部屋を見ている川崎は、僕の選ぶ物があまりにも一般向けだった事に驚いている様子である。一応、リビングも川崎の自室も、あの家全体の家具類を揃えたのは僕なのだが…。妹の部屋だけを考えてそう言うのは勘弁して頂きたい。
「この後はどうする」
「後はスーパーに買い出しに行ってから、帰りに事務所に寄るよ」
折角理に叶う良い買い物が出来た事に喜び勇んでいた所での川崎の心ない発言に気を悪くした僕は、彼の問いにあからさまに不機嫌な口調で返してやった。彼は全く悪気はないといった風で周囲に視線を巡らせ、何かに焦点を合わせると、
「先にもう一件、寄りたい所がある」と言って、さっさと歩き出した。少しは謝罪の念はないのだろうか。僕は呆気に取られて盛大に溜め息を吐いてから、彼の後を追った。
デパートのワンフロアに彼の寄りたい場所があった。CDショップ、楽器屋、本屋が収まったその場所に辿り着くと、彼は脇目も振らずに大音量で最新曲を流しているCDショップへと入って行った。何だ、好きなアーティストの新曲でも発売されたのだろうか。僕は店内を歩き回り、ふと目に付いた水城透子のポスターを眺めた。年末のカウントダウンライブの告知ポスターである。メディアへの出演にライブか、忙しいな。それは松平にとっても同じ事だ。売れっ子の歌手に仕事のオファーがあれば、必然的にマネージャーも動かねばならないのだ。毎日仕事もせずに家で引きこもっているのも嫌だが、毎日仕事ばかりに忙殺される生活も嫌だな。と、他人事の様に黙考していると、川崎が近寄って来た。何かと思い視線を移すと、彼は手に持っていた一枚のCDを差し出して来た。……まさか良い年した大人が買ってくれとせがんでいる訳もなく、況してや彼の方がどう考えても金を持っているのだ。何か特別な意味があるのだろうと思い、それを受け取ってジャケットを見てみた。其所には見た事はないが、絵に描いた様な美女の写真があった。猫の様な大きな目に、高い鼻と柔らかそうな唇。長い髪を濡らし、グラマーな胸元に見事な曲線美を惜し気もなく晒している。世のスーパーモデルにも引けを取らない完璧な容姿の美女ではある。しかし、僕はその名前に見覚えはなかった。こんな美女をメディアが見過ごす筈がない。
「『Izumi.M』……。知らないな」
率直にそう答えると、川崎は、そうだろうなと相槌を打って見せた。今のはどういう意味なのだろうか。僕が芸能界に詳しくない事を察しての事だろうか。何だか馬鹿にされた様な気分である。
「昨夜、調べてみた。本名は松平泉美」
「マツヒラ…って」
川崎の言葉に、僕は驚いて声を上げた。再度ジャケットの美女へと視線を戻す。少し位は写真を加工してはいるだろうが、大体20代半ばといった所か。まさか、松平佳澄の親族なのか。それにしても、失礼だが顔が違い過ぎる。とてもあの地味な松平佳澄と、写真の美女とでは不釣り合いに思えてしまう。
「松平泉美には双子の妹が居るらしい。それがその松平佳澄かはともかく、彼女は2年前にデビューしたが、すぐに自宅で薬の過剰摂取で死んだ。恐らく自殺だろう」
一般的にこのご時世で歌手としての人生を歩む事が出来るだなんて、身に余る思いだと思うのだが。何故デビューして間も無く、自ら命を絶つ事となってしまったのだろうか。もし松平佳澄が双子の妹だとすれば、彼女の死に相当ショックを受けた事であろう。
川崎はこのCDが松平泉美の最初で最後の曲である事を告げると、
「試聴してみると良い」
と付け加えた。想像するにこの美女の歌声はそれこそ聖歌の様に清らかで繊細なものであろう。しかし、この状況下でそんなつもりで彼がそう助言した訳ではない事は解っている。僕は店員に頼んでそのCDを試聴させて貰う事にした。逸る気持ちを抑え、ヘッドホンを耳に当てると、ウッドベースの心地好く鼓膜を震わせる音色が聞こえて来た。次いでオルガンとギター、ドラム、トランペットにサックスと、南国を思わせる軽快なジャジーな音が調和する。自宅で聴いていたら、つい体を揺らしてしまいそうなミディアムナンバーだ。普段好んで聴く曲というのはないが、僕はこういった曲調が好きなのである。
何度目かの小節の終わりに、フェルマータを過ぎた直後、耳に飛び込んで来た歌声に、僕は目を丸くして隣に立っていた川崎を見た。彼は僕の反応を予知していたらしく、此方へと小さく頷いて見せる。
ヘッドホンから流れるその歌声は力強い低音から澄み渡る高音迄、自在に行き来する。ビブラートもロングトーンも難なくこなし、リゾート地の広大な夕暮れの海を容易に想像させる神憑りな歌唱力であった。
僕は曲の途中でヘッドホンを外した。察していた疑問が、歌声を聞いただけで解消されたのだ。
松平泉美の声を実際に聞いた事はないが、それは松平佳澄の歌声そのものであった。彼女は水城透子だけでなく、この美女の声にもなっていたのだろうか。
「お目が高いんですね」
曲を聴き終えた為にCDを入れ替えに来た年配の店員が嬉々とした表情を浮かべて近付いて来た。僕が試聴スペースから少し避けると、店員はCDケースを弄りながら、
「『Izumi.M』、このCDが発売された時の反響は凄かったですよね。今でいう水城透子に迫る勢いで世間を賑わせてましたから」
と、饒舌に話を進める。
「まぁ尤(もっと)も、自殺したってニュースになった時の方が騒がれちゃいましたけどね」
店員は皮肉を込めて笑いながら仕事を終えて立ち去って行った。
芸能界には疎い僕でも、駆け出しの歌手の自殺がニュースになったとなれば一度はメディアを通して見聞きしている筈だ。しかし、僕にはその記憶が欠片も残っていなかった。川崎から聞いて初めて彼女の存在と死を知ったのだ。ついに健忘症にでもなったのだろうか。
「あ、そういえば」
話し足りないのか、手持ち無沙汰なのか、店員は再び此方へと向き直り、声を上げた。
「あの歌手、昔流行ったバンドのボーカルと付き合ってるだなんて噂も立ってましたよね。何だったかな、バンド名……」
「……『ViCE』ですか?」
「そうそう!それです。今や大手芸能プロダクションの社長なんですもんね〜」
まさかと思い挙げてみた名前に、店員は大きく首を上下に振って更に捲し立てている。その話を半分聞き流しながら、僕は言い知れぬ胸騒ぎに顔をしかめた。松平泉美と西島淳也の交際、自殺、水城透子の殺害を依頼しに来た松平佳澄……。絶対とは言えないが、一連の出来事が何処かで繋がっている様な気がする。過去の事件が今にも尾を引いている。俄(にわ)かな確信があった。
携帯電話に着信があった事に気付いたのは、CDショップを出た後であった。10分前に、知らない同じ番号から2件。僕は松平佳澄ではないかと思い、慌てて掛け直した。何度目かのコール音の後、出たのは何と知らない男であった。酷く嗄れたその声に、僕はつい面食らってしまった。
「もしもし…」
『はい』
「今、そちらからお電話を頂いたのですが」
『失礼ですが、どちら様でしょうか』
そう言われて素直にアサシンの代理人ですとは言えない。単なる間違い電話かも知れないのだ。ここはひとまず切った方が良いかも知れない。そう思った時、突然川崎が横から携帯電話を奪い耳に当て始めた。
「恐れ入ります。此方はサナダ宅配便の田中と申します」
僕は電話口の男よりも、川崎のその言動に唖然とした。いつもは抑揚のない低い声だというのに、人が変わったかの様に明るい営業トークの様なそれに早変わりしたのだ。まるで腹話術でもされているのかと思ってしまいかねない口調に、咎め立てする気力が一瞬にして消えてしまった。
「申し訳御座いません、今のは新人なもので。失礼ですが、松平佳澄様の携帯電話で宜しかったでしょうか?」
『……そうですが』
まだ彼女の携帯電話かも定かではなかったにも関わらず、川崎の問いに、男はそれを肯定した。その声は僕の耳にも届いている。彼がハンズフリーに切り替えてくれたのだ。
『…失礼、彼女が人目を避ける様にして電話してたのを見て、ついそちらに掛けてしまったんです』
男は溜め息混じりにそう言った。それが気になって彼女の携帯電話を勝手に弄るという事は、恋人なのだろうか。浮気相手かと思われたのかも知れない。随分な濡れ衣である。
「そうでしたか。とんでもないです。もしご面倒でなければ、本日お届けに伺った着払いのお荷物、お留守の様でしたので、お時間がある時に掛け直して頂きたいとお伝え願えますか?」
この川崎の口調、笑わずにすんなりと聞けている自分が不思議で仕方無い。相変わらずの無表情でその通販番組の社長の様なそれのギャップに、普段なら腹が捩れる程に爆笑していたのだろうが、流石にそんな状況ではない。絶対、後々思い出し笑いするに違いない。
『解りました。此方の番号で良いんですか?』
「はい、これは社用なので退勤する時は会社に置いて行きますから、ご安心下さい」
『えぇ、伝えておきます』
「あ、失礼ですけど、そちらのお名前をお聞きしても宜しいですか?」
『西島です』
川崎の助言にすっかり本物の宅配便だと信じた男は、苦笑しながらアッサリと名前を教えてくれた。西島…。水城透子の所属する芸能プロダクションの社長であり、松平泉美と交際関係にあったと噂された、あの西島淳也なのか。僕は簡単に挨拶を済ませ、電話を切った川崎の顔を、神妙な面持ちで見つめていた。彼は至って平然と携帯電話を返して来る。
何故、西島が松平佳澄の携帯電話を勝手に使っていたのだろうか。此方から掛けたのであれば、彼女が頼んで掛け直したというならば話は解る。しかし、逆なのだ。いくら自分の会社の社員だからといって他人の私物を勝手に使うというのは、非常識ではないだろうか。まさか、本当にふたりは恋人同士なのか。否、とはいえジャイアニズムを正当化する理由にはならない。
全く解らない事だらけだ。僕は混乱する頭を抱えながら、携帯電話をスーツの胸ポケットに戻した。ひとまず、松平佳澄に直接訊いた方が早いだろう。
随分思い詰めた顔付きでもしていたのか、ふと気付くと、川崎は何やら神妙な面持ちで此方を正視していた。相変わらず、感情の読み取れない無表情に、先程の似つかわしくない声色が脳裏を過り、つい口許がにやけてしまう。
「…もっと後先を見据えて行動した方が良い。突発的な行動が最悪な状況を招く事もある」
予想外の叱責に、緩んでいた口許が引き締まる。確かに、川崎があの時、咄嗟に配達員を装ってくれていなければ、西島に疑念を抱かれ、松平佳澄がすっかり問い詰められてしまいかねない状況に陥る所であった。
「……悪かった」
僕は顔を伏せ、素直に謝罪した。川崎は視線を逸らし、細く長い溜め息を吐いて見せると、ゆっくりと何処かに向かい、歩き出そうとする。
「もし、また電話が掛かって来たら、俺が出る」
「え…」
「その方が、西島からまた掛かって来た時にも対応し易い」
「…あぁ」
確かにそうだ。相手には荷物の配達員の社用電話として、この番号を伝えているのだ。松平佳澄本人であれば、僕が教えたものだから瞬時に事態を把握してくれるであろう。また西島が掛けて来た場合にも、川崎が出てくれた方がスムーズに会話が進む。
「アンタが何のつもりでクライアントの素性を明かしたいかは知らないが、協力位はする」
此方を振り返らずに、川崎は譫言の様にそう言った。
デパートの地下で食材を買い足した後、僕達はタクシーで帰宅した。リビングに辿り着き、荷物を床に置いたその時、胸ポケットに入っていた携帯電話が振動し、同時に単調な電子音が鳴り響いた。慌ててそれを取りだし、待受画面を見てみると、先程の番号から着信がある。すぐに川崎が事態を察したらしく、背後から携帯電話を奪い取り、それを耳に当てる。
「はい、田中です。……」
またもや偽名を使い、応対した川崎だったが、何やら相手側の声にピクリと眉尻を微動させた後、僕へと携帯電話を返して来た。どうやら西島ではない様だ。僕はそれを受け取り、電話を変わった。
「もしもし」
『あ…、松平です』
「松平さん…」
声の主は、松平佳澄本人であった。つい安堵の溜め息が漏れる。僕はすぐに電話に出られなかった事を詫びてから、「先程、西島という男が貴女の番号から電話を掛けて来た」
『西島が…?』
それを聞いた松平佳澄は、心底驚いた口調で声を上げた。が、まだ近くに人気(ひとけ)があるのか、すぐに声量をぐっと下げ、謝罪して来た。
『すみません、携帯電話を手離していたもので。ご迷惑をお掛けしました』
「否、良いんだ。その様子だと、本人からはまだ何も聞いてない様だな」
『えぇ、私は…』
「そうか。電話をくれたという事は、何か言いたい事でも?」
『……』
僕はそう訊ねると、彼女は言い澱んでいるのか、人目を避けているのか、押し黙ってしまった。用もなしに顔見知りでしかない僕に、電話を掛けて来る訳がない。番号を教えた所で、社交辞令として挨拶程度の電話をくれる様な間柄でもないのだから。僕は彼女の返事を待ちながら、率先して食材を冷蔵庫に収めている川崎の背中を眺めていた。
『もうすぐ仕事が終わるので、直接お会い出来ませんか?電話では…お話し出来ないので』
遠慮がちな口調でそう言う彼女の願いを断る謂われはなかった。もしかしたら、水城透子や西島を殺害したい理由が聞けるかも知れないのだ。僕は生唾を飲み込んでから、電話越しにも関わらず、頷いてしまっていた。
「解った。じゃあ…場所は」
待ち合わせの約束を決めると、僕は落ち着きなく電話を切った。川崎は意外にも丁寧に食材を並べていく。電話の内容について、一切追及はしなかった。
「川崎、クライアントと話をして来るよ」
食材を冷蔵庫にすべて収め終え、扉を閉めた川崎に、僕はそう声を掛けた。彼はゆっくりと此方を振り返った。心無しか、非難めいた表情にも見て取れる。確かに、クライアントやターゲットの個人情報や素性を知ろうとする事は、アサシン業務に携わる人間としては避けねばならぬ事である。それらのものに感化され、感情が左右され、私情を挟みでもすれば、業務に支障を来しかねないからだ。とはいえ、正直な所、僕はアサシンではない為、松平佳澄の心中を察したとはいえ、最悪な事態を招く事はない様に思えてしまった。寧ろ、僕が何を言っても任務達成率100%を誇るアサシンが、まさか依頼を棄権する訳もなければ、松平佳澄の意思を尊重し、ウィリアム章大が依頼を請けるかも判然としていない状況なのだ。無論、僕なんかよりも仲介者の方がよっぽど私情を挟んでいる事は間違いない。
「アンタの言動を咎め立てる謂われはないが……」
そうは言っても、川崎の口調は何処か呆れている様だ。しかし、止めても無駄だと思っているのか、そう前置きをしたのだろう。現に、僕は川崎に何を言われても松平佳澄に話を聞きに行く心積もりであった。
「さっきの電話を考えてみろ。ターゲットとなり得る人物が、クライアントの動向を警戒してる。気を付けろ」
その然り気無い温かみを含んだ助言に、僕は緊張しながらも、感謝していた。万一、西島が松平佳澄の動向を警戒し、何か仕掛けて来るかも知れない。その事は念頭に入れておこう。
僕を乗せたタクシーは、夜の街を颯爽と駆け抜ける。オフィス街には疎(まば)らながらも人通りがあり、会社や自宅に向かって歩く姿が見受けられる。車道は帰宅ラッシュを過ぎた頃で、特にストレスを感じる事なく目的地へと進む。
松平佳澄が勤める芸能プロダクションのオフィスは、中心部に程近く、一際目を引く自社ビルであった。煌々と明かりが漏れる正面入口に佇む彼女を見つけると、僕は窓を開けて呼び掛けた。
「松平さん」
彼女は此方の姿を捉えると、小走りで近付き、促されるままタクシーに乗り込んだ。周囲に視線を巡らせてみたが、追っ手は居ない様だ。僕達は人目を避け、オフィス街から出たイタリアンレストランで降りる事にした。
店内は広々としていて、白いクロスの掛かった長方形のテーブルが整然と並んでいた。照明は少なく、机上の小さな燭台の蝋燭の火が微かに揺れている。イタリアの工芸品らしき物が所々に配され、メニュー表にはヒエログリフが描かれた拘りのある内装である。僕は壁に掛けられた模写されたヴィーナスの誕生を眺めながら、ウェイターに通されたテラス越しの席に腰を据えた。
突然、異国へとタイムスリップした様な気分になり、互いに気圧されたのか、僕達は食事というよりは話をメインにエスプレッソをオーダーした。
「お呼び立てしてすみません」 開口一番、松平佳澄は心底申し訳なさそうに頭を下げた。あの赤いピーコートを羽織り、ダークブラウンのロングヘアを頭上高く結い上げたその姿は、仕事を終えて少々疲弊している様にも見える。
「否、僕は特に何か用があった訳でもないし、こうして連絡を貰えて良かった」
妙にかしこまっている彼女を宥める様にそう返すと、僕はふたり分のエスプレッソが届いたのを見計らい、早速話を始めた。
「西島が、貴女を自分の恋人だと言ってたが、それは事実なのか?」
「とんでもないです。西島はただの会社の上司に過ぎません」
やけに語頭を強めて否定する彼女は、暫時口を噤んだ後、自ら口火を切る。
「西島は、私が透子に何等かのアクションを起こすのではと警戒してます」
「貴女が水城透子の声となり歌わされてる事への不満があって?」
「いいえ」
裏事情をズバリ言い当てた事で、驚かせてしまうかとも思ったが、意外にも彼女は冷静にそれを否定した。僕はそれが最大の要因であると見当していただけに、面食らって彼女を注視した。カップに入った薄茶色の液体を眺め、彼女は沈痛な顔付きを見せた。
「透子の声としてでも、私は多くの人に歌を聴いて貰える機会があるだけ幸運だと思ってるので」
それが本心かどうかは、現時点での彼女の様子からは窺い知れなかった。その表情から見え透いた嘘とも捉えられるが、その話題とはもっと別の部分を思い起こし、気分が沈んでしまったのかも知れないとも言いかねない。
「そりゃ正直、自分の手柄を人に取られたという気持ちもありますけど、何も今回が初めてではないんです」
「松平泉美…?」
その名を挙げた途端、彼女は水を打った様に顔を上げ、此方を凝視した。が、すぐに何かを理解したかの様に、悲しげに眉尻を下げる。
「ご存知でしたか」
「偶然だけど。その松平泉美というのは、貴女の……」
「姉です、双子の。といっても、二卵性ですけど」
それから彼女は、自身の素性をポツリポツリと語り始めた。
松平姉妹はごく普通の家庭に産まれたが、ふたりの容姿の違いから、妹はクラスメイトから酷い嫌がらせを受けていた。
「ブス」
「本当に双子?」
「橋の下で拾われたんじゃないか」
謂われのない嫌がらせを受ける度に、助けてくれたのは姉だった。幼い頃から誰もがハッと息を飲む様な可愛らしさで、妹思いの姉は周囲からの人気も高かった。
「見た目なんてさした問題じゃない。佳澄はお姉ちゃんの大切な妹だよ。何があっても、お姉ちゃんが側に居るからね」
嫌がらせを受けて泣いている妹に、姉はいつもそう言って慰めていた。
大学を卒業し、妹は現在の芸能プロダクションへの就職が決まったが、姉は進路を決めかねていた。聞けば彼女は歌手になりたいとの事だったが、妹は困惑した。容姿は文句なしに売れそうだし、国立大学に通う優秀さでスポーツも万能。だが、姉には唯一の欠点があった。どうにも音痴が直らない事である。昔から歌手になりたいと漏らしてはいたものの、その歌声は聞くに耐えないものであったそうだ。それは大学に入学してからバイトで稼いだ金でボイストレーニングに通っても改善されず、トレーナーも匙を投げた程である。それでも、胸に抱く幼い頃からの夢を捨てきれないでいたのだ。
ふたりでひとりの歌手として勝負してみようと決めたのは、妹であった。彼女は自身の歌声が唯一他者に自慢出来るものであり、それは姉も認めていた。
「最初はお姉ちゃんの歌声としてレコード会社にデモを送るの。もし、相手の目に止まったら、素直に明かしてみる。メディアには当然内緒」
「そんな事、出来るのかな」
「漫画家にもひとりの名前で、兄弟やグループで活動してる人達が居るんだもの。口パク歌手って言ったら聞こえは悪いけど、きっとそんな人、結構居ると思う」
いつも自身を助けてくれた姉への、責めてもの恩返しのつもりであった。もし、姉の長年の夢をこの声で叶える事が出来れば。そして、この声がどんな形であれ、人の耳に届く手段があれば。妹もまた、容姿を理由に歌手の道を諦めようと思っていた時であった。
妹の作戦は見事に成功した。姉の履歴書と妹の歌声を吹き込んだデモを、まず職場である芸能プロダクションの西島に渡した所、上手い事食い付いて来たのだ。自身等の方針を話すと、何と二つ返事で了承されたのである。突然、ふたりの前に歌手としての道が切り開かれ、手を取り合い喜んだそうだ。これが現在に尾を引く憎悪と悲愴を生む事となろうとは、その時の彼女達には想像も及ばなかった。
デビュー曲の発売に向けて、作業は順調に進んでいった。妹はボイストレーニングにレコーディング、姉はジャケットの撮影やプロモーション活動にと躍起になっていた。プロデューサーでもあった西島は盛大に姉妹を売り出すべく、自ら楽曲作りに勤しんだ。そして何もかもが順調に運び、冬にはCDが発売され、本当の意味で歌手としての道を歩み始めたふたり。しかし、事態は急変した。
姉妹はそれぞれレコーディングとジャケット撮影を終え、満を持してCDは発売された。盛大なプロモーション活動と西島の力でそれは飛ぶ様に売れ、リスナーからの反響や様々なメディアからのオファーが殺到した。新人歌手としては好調な滑り出しであった。その日の翌日には、初となる音楽番組の収録が待ち構えいた。無論、出演するのは姉だけで、歌はアテレコとなるが、妹は姉のメディアでの活躍を大いに期待していた。多くの人々に囲まれ、名だたる有名人を前に、スポットを浴びるその姿を、この目に焼き付けたかったのだ。逸る気持ちを胸に、西島が用意してくれた姉と住む高級住宅街の高層マンションへと帰宅した。この高まる感情を姉とふたりで分かち合いたかった。しかし、それが叶わないという妙な空気を彼女は瞬時に察知した。間接照明が煌々と点いた薄暗いリビングのソファに凭れ、項垂れた姉。慣れない忙殺の日々に疲弊し、自室のベッドに辿り着く前に眠ってしまったのかとも思えたが、違った。妹は何かに導かれる様に姉の側へと歩み寄り、テーブルの上に置かれている物へと視線を落とした。其処には聞き覚えのない名前の大量の薬の箱と、空のコップがあった。その箱のひとつを手に取って見ると、それは単なる鎮痛剤であった。恐らく市販の物だろうが、珍しい名前の薬である。姉がここ最近、何処かが痛むなどと言っていた記憶はない。痛むにしても、こんな珍しい名前の薬を選ぶだろうか。しかも、こんなに大量に。
念の為、中身を確認してみた。中には錠剤を収めたアルミのシートが入っていたが、それに薬はひとつもなかった。他のもそうだ。空っぽの薬の箱が大量に積まれていたのだ。
妹の脳裏に嫌な予感が走り、慌てて姉の方へと向き直り、名前を呼んだ。返事はない。肩を掴んで揺さぶってみたが、駄目だ。妹は全身から血の気が引いた。最早狂った様に強く体を揺らし、何度も呼び掛けたが、姉が一度たりとも返事をする事はなかった。姉は死んでいたのだ。
解剖の結果、姉はあの薬の多量摂取による自殺と診断された。あの薬に含まれる或る成分により、中枢神経が抑制され、意識を失い、そのまま死んだそうだ。
内々で営まれる予定であった葬儀には多くの人々が参列した。親族は勿論、プロダクションの関係者やファン、様々なメディアの記者が押し寄せ、姉の突然の死を悼み、報道された。若すぎる新人歌手の死に、深い悲しみが周囲を覆い尽くす中、記者に囲まれた西島がカメラを前にこう言っていた。「彼女はとても真面目で利発で、どんな時でも周囲への気遣いを忘れない優しい女性でした。今でも信じられません。何故、こんな事になってしまったのか…。とても居た堪れない残念な気持ちでいっぱいです」
沈痛な表情を浮かべ、心底苦悶の声でコメントする西島を見つめる妹の目には、憎悪と怨恨の念が宿っていた。
メディアには公表せず、内々にしか知らされる事はなかったが、姉は妊娠して22週目を過ぎていたのだ。悪阻(つわり)は軽く、元々細身でタイトな服装を好まなかった為か、妹は全く気付かなかった。姉は必死にその事実を隠していたのだろう。誰との間に出来た子であったのか、それは妹だけが知っていた。否、正確にはふたり。彼女と西島であった。
姉は妹宛てに遺書を遺していた。其処にはデビューが決まって間も無く西島と交際を始めた事、妊娠が発覚すると堕ろす様に迫られ、彼との事を他言すれば契約を打ち切ると脅された事、それでも中絶を拒み続け、悩んだ末に死を選んだ事。そして、自身のせいで折角の妹の厚意を無下にはしたくない、だから西島の事は公言しなかった。ふたりの夢を、自身のせいで潰えさせてしまう事への謝罪の気持ちが、震えた文字で綴られていた。
こうして人前であたかも第三者を気取り、平然と振る舞う西島のせいで、姉は死んだのだ。歌手としての道を踏み外さざるを得なくなったのだ。姉を、ふたりの長年の夢を壊したのは、あの男なのだ。こうして妹の胸中で、西島への復讐心が芽生えたのであった。
「西島は舞い込んで来た上質な商品を手離すまいと姉を誑かしていたと思います」
苦味の強いエスプレッソはすっかり温んで来ていた。松平佳澄は、話の終わりを示すかの様にそれを喉に流し込む。イタリアの風習に倣ってか、砂糖を多量に溶かしたものである。今迄独りで抱えて来た重荷を漸く下ろしたといった様子で、彼女は深々と息を吐く。
「復讐、というのなら、何故水城透子をターゲットに?彼女もお姉さんの件に関与してるのか?」
「あの仲介者という方の手前、言えませんでしたが…」
松平佳澄はそう前置きしてから、「西島と透子が恋人同士なんです」
「あぁ、だからあの仲介者の前では言えなかった訳だ」
それを聞いて妙に納得してしまった。あの熱狂的な信者に教祖の恋愛事情を暴露すれば面倒な事態になりかねない。彼女の配慮には恐れ入る。僕から後で当人を咎めておかねば。
「私はたったひとりの、大切な姉を…自らの意思とはいえ、あの男に奪われたんです。だからこそ、あの男から最も大切なものを奪いたい」
西島の思惑にもゾッとさせられたが、彼女のその言葉にも、僕は戦慄した。敢えて本人ではなく、その人の大切な者の命を奪う事で、彼女の味わった痛みを知らしめようという事なのだろう。全く、人間というものは時に何とも酷く恐ろしい考えに及ぶ残忍な生き物だ。
「何と言うか、貴女の意見も一理あるが、もし本当にアサシンに依頼をしたいのなら、水城透子よりは西島をターゲットにした方が、あの仲介者も……言い方は悪いが、容易に依頼を請けてくれたと思う」
「そうです、ね……。もう少し、考えてみます」
人に自身の素性を明かした事で心に余裕が生まれたのか、松平佳澄はそう頷いた。
出来れば殺害の依頼なんて願い出て欲しくはない。相手がどんな冷酷非道な人物であっても、だ。その場の感情に身を任せ、此方に依頼を持ち掛け、いざそれを遂行された後に、自身が殺害を教唆した事への罪悪感に苛まれ、気が狂ってしまうクライアントも少なくないと聞く。その情景を想像するだけで、胸が苦しくなる。願わくば、彼女が考え直し、依頼を棄却してくれればと僕は心底思った。
僕達は珈琲を飲み干すと、簡単に挨拶を交わし、それぞれ帰宅の途に着いた。
「そうか……。透子ちゃんが……」
昨夜の松平佳澄の話を聞かせてやると、ウィリアム章大はすっかり意気消沈し、机上に突っ伏してしまった。万一彼女が考えた末にそれでも依頼をしたいという場合の為に、話を通しておこうと思ったのだが、予想以上にショックを受けた様だ。30分程、煙草も吸わずに譫言を漏らしている。本当にこの男は信者の模範だ。
「という事なので、万一の時に備えて考えておいて下さい」
このまま此処に居ても仕方無い。別段これ以上の用はないのだ。僕は帰ろうと席を立った。
「……失礼します」
一応声を掛けてみたが、彼は未だに唸っている。一体、いつになったら復活するのやら。僕が事務所のドアを開けた音で、彼は突然顔を上げた。
「でもさ!」
「はいっ?」
唐突にそう言われ、僕は驚いて室内へと視線を向けた。先程はこの世の終わりとでも言いたげな声だったのに対し、急に何やら嬉々としたものへと変わっていた。瞳を輝かせ、口許には笑みを浮かべている。
「あの透子ちゃんが西島ってのと付き合ってるんだぜ?俺よりも年上のオッサンとだぜ?それって、俺にもチャンスがあるって事だよな!」
「……頑張って下さい」
僕は声を発するのも億劫になる程の彼のポジティブな思考に、気のない返事をして、ドアを閉めた。
以後、松平佳澄から依頼を請ける事はなかった。否、正確には請ける術がなかった。それから2日後、彼女は死んだ。自宅のマンションから飛び降り、即死。遺書等は見つかっていないらしい。室内にはビールの空き缶が散乱し、彼女は携帯電話を手に身を投げている事から、警察は酔っ払って誤ってベランダから落ちたものとの見方もしている様だ。
僕はテレビの画面を愕然と見つめていた。自然と全身が震え、言い知れぬ焦燥感に襲われた。携帯電話は落ちた拍子で壊れてしまった為、データの復元は不可能と言われているが、着信履歴は調べれば残っているだろう。もしかしたら僕にも連絡が来るかも知れない。そうなれば、何て言い訳をしようか。アサシンの存在が明るみに出る事のない様に、細心の注意を払わねば。
「軽率な行動が、時に自身を窮地に立たせ、自らを滅ぼす事もある」
ダイニングテーブルに据えた椅子に腰掛けていた川崎が、ポツリと呟いた。僕は彼の方へと視線を移した。彼は無表情で此方を見据えている。僕の行動を非難しているのか、哀れんでいるのか、その表情からは窺い知れない。川崎の言う通りだ。僕は視線を戻し、顔を伏せて両手で覆った。自責の念が胸中を渦巻く。
「代表が通信会社に手を回してくれてるだろう。着信履歴は抹消されてる」
「……」
この時ばかりは、生理的に好まないウィリアム章大に心底感謝した。こうしてアサシンの存亡の危機は日々回避されているのだろう。
しかし、僕にはそれとはまた違った思いが胸を締め付けていた。もしかしたら松平佳澄は自殺したのかも知れない。最後に会った彼女は、とても自ら命を絶つ様には見受けられなかった。だが、その胸の内にこの結果を見据えていたのかも知れない。もし僕の何気無い言動が、それを助長していたとするなら…。そうではなく、もっと前から自殺を考えていたとしても、気付いてやれなかった事を悔いた。
不意に僕はすぐ近くに人の気配を感じて両手を顔から離し、顔を上げた。川崎が此方へと歩み寄り、僕の隣に腰を下ろした所であった。灰色の瞳に僕の姿が写る。僕は言葉も出ずに見つめ返すしかなかった。非難されても、罵倒されても仕方無い。それだけの事をしてしまったかも知れないのだから。いくらウィリアム章大があらゆる業界に太いパイプを巡らせているとはいえ、世界中のアサシンを脅かす最悪な事態を招きかねない行動を起こしてしまった事は、彼としても赦してはおけないだろう。言葉の槍は勿論、殴られても文句の言えない立場なのだ。
「悪かった……」
許しを乞うつもりではないが、謝罪の気持ちは伝えたかった。僕はそう言って頭を下げ、覚悟を決めて歯を食いしばった。拳が飛んで来る事は間違いない。そう思っていた。
「アンタは、きっと悪くない」
しかし、頭上から聞こえて来たのは拍子抜けする程に温かみのある声であった。普段の川崎からは想像も及ばないそれに顔を上げたその時、彼は突然、僕に抱き着いて来たのである。
「えっ、ちょっ……」
僕は慌てて引き離そうとした。今迄は全く気付かなかったが、川崎はまさか、そういう性癖の持ち主なのか?否、それ以前にこの状況で?僕の意に反し、彼は抱き着いたまま離れようとはしない。その内に僕も何故か、本当にどういう訳か、悪い気がしなくなって来た。そして、何故か急激な睡魔が襲い掛かって来たのだ。先程迄は全く眠気もしなかったのに、どうして急に。考える余地はなかった。体が次第に重くなり、思考回路が停止する。僕は川崎に身を委ねる様にして、深い眠りへと落ちていった。
一度眠ったせいか次に目覚めた時には、胸中を渦巻いていた自責の念はいくらか和らいでいた。あの急激な睡魔は何だったのか、川崎は何を以て抱き着いて来たのか。その理由は判然としないまま、僕は電話越しに松平佳澄が別の仲介業のアサシンによって命を狙われていた事を、ウィリアム章大から聞いた。クライアントは、彼女の動向を警戒し、自身や恋人である水城透子の身を案じていた西島だという事も……。