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No.353:An autobiography.

 アサシンが依頼を請けてから、任務完了に至る迄の流れを簡単に説明しよう。

 まずは、クライアントとアサシンの仲介者との間で依頼についての説明や書類作成を行う。依頼は仲介者からアサシンへと引き継がれ、任務達成後、事後報告書を仲介者に提出し、クライアントと確認。報酬を受け取るといった流れである。

 店舗の委託業務という名目で設立された「(有)MEDIATION」。その実態はアサシンへの依頼を請け負う仲介業だ。代表を務めるウィリアム章大(しょうた)が自ら選出し育成されたアサシンが在籍している。どのアサシンも引けを取らず有能な人材だが、中でも群を抜いてその実績を誇るのが川崎だ。その世界でも一目置かれる存在……と言いたい所だが、アサシンという存在自体は世界に広く知れ渡り、恐れられてはいるものの、彼等自体の動向や素性は一切謎に包まれている。アサシン同士が接触する事もない為、その実績は社内のみの評価で決まる。

 僕は川崎の代理人として、彼への依頼をウィリアム章大から伝える役割をしている。人殺しの手助けと言えば気が引けるが、僕にも生活がかかっている。こうして彼等と共に業務にあたるのは、苦肉の策という訳だ。

 滅多に起こらない事とはいえ、雪でも降りそうな程に凍て付く風が吹く午後のオフィス街。空には、ここ数日厚い灰色の雲が翼を広げた様に留まっている。最近、地上を照り付ける太陽を見たのは、いつの事だっただろうか。

 僕は厚手のコートを纏い、吹き付ける冷えた風に身震いしながら、ウィリアム章大の待つビルへと向かっていた。もうすぐクリスマスだ。こんな不況にも屈せず、街は赤や緑、金色のきらびやかな装飾が施されている。いずれは家族や恋人との細(ささ)やかな幸せを胸に、人々は嬉々とした表情で行き交うのだろう。そんな世界的なイベントとは無縁の生活を送っている上に、これからあのむさ苦しさ極まりない男に会わねばならないと思うと、どうにも気分が上がらない。仕方無い事とはいえ、もう少し見映えや煙草の臭いを何とかしてはくれないかと切に願いながら、僕は事務所へと辿り着いた。

「失礼します」

「ひっ…!?」

 ドアを開け、室内に入ろうとした僕と、中央に鎮座するデスクの前に置かれた椅子に腰掛けていた先客との視線がぶつかった。酷く痩せ細った体躯に、怪しくギラギラとした眼光を放つ大きな目が印象的な、貧弱そうな男である。初対面の相手にはとても失礼だが、危険度の高い妙な雰囲気を醸し出している。

 男は幽霊でも見たかの様に目を剥き、顔を強張らせ、肩を竦めて怯えている。見覚えのある顔だが、さて何処で見ただろうか。僕は怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。

「早かったな。あ、ご安心下さい。彼はあるアサシンの代理の者です」

 男と対峙して革張りのチェアに座っていたウィリアム章大が、そう言って簡単に僕を紹介した。恐らく、クライアントなのだろう。こうしてクライアントと面と向かって会ったのは初めてだが、僕はそれよりウィリアム章大の姿に驚かされた。

 普段は四方に寝癖を散らせた無造作ヘアという名の一切手入れされていない髪が、今は全て後ろに撫で付けられ、皺だらけのYシャツとジーンズではなく、黒のスーツ姿に身を包んでいるのだ。いつも煙草の臭いが漂っている室内も、窓を開け、新鮮な空気を取り入れている。一応、来客のもてなし方は心得ている様だ。

「あぁ、そうでしたか…」

 ウィリアム章大の言葉に、男は度が過ぎる程に安堵の溜め息を吐き、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、途端に大きな瞳を輝かせ、怪しげな笑みを浮かべた。

「という事は、アサシンにより近しい存在、そういう事ですね?」

 何故か僕がアサシンの代理人という部分に食い付いたらしく、男は席を立ち、背中を丸め、膝を若干折り曲げた不自然な歩き方で、足早に此方へと近付いて来た。何なんだ、コイツは。僕はつい眉間に皺を寄せ、何をされるのかと身構えた。

「アサシンとは、具体的にどの様な人物なんですか?」

「は……」

「例えば見た目とか、名前、性別、生年月日、出身…何でも良いんです」

「ちょっと……」

「アサシンと接する機会はあるんですよね?人殺しといっては言葉が悪いですけど、まぁ、会う事に恐怖心とかはないんですか?」

「……」

「お願いします、教えて下さいよ、ねぇ」

 突然、矢継ぎ早に質問攻めを食らい呆気に取られた僕を余所(よそ)に、男は異常に興奮した様子で捲し立てて来る。鼻息も荒く、まるでAVを見ている思春期の少年の様だ。男にじわりじわりと詰め寄られ、あまりの不快感に、僕は疑心の眼差しで男を睨み付けた。

「篠田さん、依頼書の記載に不備が」

 あからさまに険悪な雰囲気を滲ませる僕を見兼ねてか、ウィリアム章大が仲裁に入ってくれた。眉尻を下げ、苦笑気味の表情には、心なしか楽しげなものも見え隠れしている。

「す、すみません。つい…」

 篠田と呼ばれたその男は、ハッと我に返り、申し訳なさそうに後頭部を掻きながら、及び腰で再度椅子に腰を下ろした。篠田?まさか……。

「…有り難う御座います。では、結果は此方から追ってご連絡致しますので」

「何卒(なにとぞ)…、宜しくお願いします」

 ウィリアム章大は一通り書類に目を通してから、落ち着き払った口調でそう言った。先刻の勢いは何処へやら、篠田は緊張しているのか妙に体を揺らしながら、何度か頭を下げてから立ち上がった。背後でふたりのやり取りを傍観していた僕へと向き直ると、ゾッとする程の不気味な微笑を浮かべて見せてから、その場を去って行った。後を引く様なその表情に、僕の背筋に悪寒が走る。

「篠田栄鬼、小説家だよ」

「…やっぱり」

 程無くして口を開いたウィリアム章大の一言に、僕は深々と溜め息を漏らした。

 篠田栄鬼と言えば、数々のベストセラーを世に送り出している有名なミステリー小説家だ。奇抜で斬新な文章力と、リアリティーに富んだ表現力の持ち主で、度々世間を賑わせている。創作者には奇人が多いと言われているが、あれ程の奇人はそうそう居ないであろう。

「まさか、今回の依頼は…」

「ご名答。はい、依頼書」

 話の流れから大体の予想はしていたが、ウィリアム章大は僕の問いに満面の笑みで頷き、依頼書を差し出して来た。何と無く、憂鬱な気分である。あの篠田の依頼という事も、彼のこの愉快げな顔も。僕は書類の内容を目で追った。ターゲットは早坂眞弓、出版社に務める若い女だ。

「篠田と男女間の付き合いがあった…なんて事はないよな」

 正直な感想だった。ターゲットの早坂眞弓は、利発そうで綺麗な顔立ちをした20代後半程の女である。それに反し、篠田は40代といった所だろうし、見た目もお世辞にも釣り合うとは思えない。出版社に務めるターゲットと、小説家のクライアントという事での接点はありそうだが。

「彼奴(あいつ)に請けるかどうか、訊いて来てくれよ」

 ウィリアム章大は窮屈そうにネクタイを緩めながら、口に咥えた煙草の先端に火を点けた。それ迄、外の凛とした清々しい空気に包まれていた室内に、苦手な臭いが紛れ込む。僕は手早く書類を鞄に収めると、彼に一礼してから、その場を立ち去った。

 僕はその足で、川崎が住処としているスラム街の地下通路へと向かった。ゴミ溜めの様なその場所を進み、かつてはカフェであった店舗跡地に入ると、L字のカウンターテーブルに据えてある椅子に腰掛け、暇を持て余している様子の彼が居た。

「依頼か」

 僕の存在に気が付くと、川崎は酒焼けしたかの様な低く掠れた声で呟いた。何気無い一言にも威圧感のあるこの声は、今でも慣れない。つい全身に緊張が走る。

 僕が此処に来るのは依頼があるから。それ以外に来る用事は特にないからだ。川崎とは親しい仲でもなく、業務以外の話をした事がないのである。

 僕は鞄から書類を取り出して川崎の眼前に翳(かざ)して見せた。が、彼はそれを受け取ろうとはせず、机上に肘を置き、頬杖をついて此方を見つめている。虫の居所でも悪いのだろうか。

「どうかしたのか?」

 そう声を掛けると、川崎は視線を外さずに、漸(ようや)く此方へと手を伸ばして来た。しかし、その手は書類ではなく、僕を指差した。一体、何を伝えたいのだろうか。不可思議な行動に疑問を抱き、首を傾げる僕に、彼は訊ねた。

「誰だ」

 川崎がそう言った途端、背後から走り去る足音が聞こえた。反射的に僕は慌ててそちらへと駆け寄り、足音のする方向へと視線を向けた。地下通路の入口目掛けて走るあの丸い背中と痩せ細った貧弱そうな体…。間違いない、篠田だ。

「待て!!」

 僕は篠田を追い掛けた。尾行されていたのだ。事務所で会った時、やけにアサシンに対して興味を示していたが、まさか後を着いて来る程の好奇心を抱いていただなんて。ひ弱な体躯とは裏腹に、篠田は逃げ足が速く、互いの距離は縮まらない。しかし、逃す訳にはいかない。クライアントであろうと他者に川崎が目撃されてしまったのだ。おまけに相手は小説家。ネタにでもされたらたまったもんじゃない。僕は強迫観念にも似た衝動に駆られながら、懸命に走った。

 篠田が階段を上り始めた所で、僕は背後から強い力で肩を掴まれ、足止めされた。振り返ると、川崎が涼しげな無表情で立っていた。一気に疲労感が込み上げ、荒い息を吐きながら、僕はその場に座り込んだ。

「あの男は」

「今回の案件のクライアントだ」

 川崎はその答えを予期していたかの様に、表情ひとつ変えずに小さく頷くと、此方に手を差し伸べて来た。

「……」

 立ち上がるのを助けてくれようとしているのだろう。僕は少々驚いた。僕の中での川崎のイメージは、ひとりで勝手に立てと目もくれないのだ。それが、こうも予想に反する態度をされると、あまりのギャップに頭が着いて来れず、暫くその細く綺麗な指先を眺めるしかなかった。

「場所を移そう」

「あ、あぁ…」

 しかし、初めて触れた川崎の手は、予想通りの冷たさであった。

 クラブミュージックが必要以上の大音量で流れ、重低音が床を揺らす地下通路の奥深く。決して広くはない空間は敢えて照明を減らし薄暗く、色とりどりのセロファンによって、妖しげな光が周囲を照らしている。此処はスラム街に住み着いた者達がクラブとして使っている場所だ。様々な年齢の男女が音楽に合わせて踊ったり、酒を酌み交わして語ったり、ドラッグでラリったり。そんな中、初めて川崎がやって来たものだから、誰もが不安に怯え、或いは無理に愉快さを取り繕い、楽しんでいるフリをして見せているのが容易に感じられる。この地下通路では、彼は何故か脅威として恐れられている。その禍々しい不穏なオーラを、皆が感じ取っているからかも知れない。

「篠田栄鬼なら俺も知ってる。あれだけ世間に取り沙汰されてる位だ、嫌でも情報は入って来る」

 川崎は壁に凭れ、書類を見ながら抑揚のない口調で言った。

 篠田栄鬼、本名は篠田耕輔。その名を轟かせる様になったのは、一昨年位からの事。それ迄は無名に近かった篠田は、その頃を境に突然ベストセラーを連発する様になった。作品はどれも発売当日に完売し、増刷が追い付かない事態が続いているとか。このご時世に小説が売れるというのは、異例の事である。名だたる地位のある小説家達も舌を巻く程だという。彼の作品を読んだ事がない僕には、全く判らないのだが。

 暫く書類と向き合っていた川崎を横目に、僕はふと、こうして彼とあのカフェの店舗跡地以外で肩を並べたのは初めてだと思っていた。普段は大した会話もなく顔を合わせるだけの、謂わば第二の事務所でもあるあの場所から離れ、不思議な感覚に捕われていた。まるで社員同士のプライベートの付き合いだ。

「川崎」

「何だ」

 思わず、声を掛けていた。彼は書類から目を離さずに返事をする。僕は間を取らずにこう提案した。

「良かったら、一杯どうだ?」

 此処には何処から仕入れたかも判然としない多種多様な酒が充実している。遠くのバーカウンターで酒を酌み交わして楽しげに話している人々を見て思い立ったのだが、何故敢えて川崎を誘ってしまったのか、それは自分にも判らなかった。

 川崎はゆっくりと此方に視線を移した。無表情からは胸中は見透かせない。何を考えているのだろうか。暫く無言のまま互いに見つめ合っていたが、やがて彼は目を伏せ、小さく溜め息を漏らし、承諾書を差し出して来た。

「代筆しておいてくれ」

 相変わらずの表情に声色。僕の提案はすっかり聞き流されてしまった様だ。まぁ、断られる事は十分承知の上で口にしたのだから、気落ちもしないが。僕が書類を受け取ると、川崎は一歩前に足を踏み出した。

「これが終わったら、な」

「え……」

 ゆっくりと歩き出した川崎の返事に、僕は間の抜けた声を上げた。まさか、了承してくれるだなんて思ってもみなかったのだ。

 「これが終わったら」というのは、「この任務が完了したら」と捉えて良いのだろうか。その場凌ぎの発言なのかも知れない。しかし、僕は妙に胸が熱くなった。どうして川崎を飲みに誘ったのかは判らない。あの時、手を差し伸べて来た川崎の、僕が知らない一面を見たい。そんな好奇心からなのだろうか。

 僕は川崎の背中を見送りながら、そんな事をぼんやりと考えていた。

 その後、僕は暫く経ってから承諾書を持って事務所へと戻った。篠田に尾行されていた事を伝えると、ウィリアム章大は渋い顔をしながら、咥内から紫煙を吐き出した。

「やけにアサシンに関心があるかと思えば…。厄介なクライアントだな」

 同感だ。ミステリー作家には興味深いネタではあるのだろうが、任務遂行の妨げにもなりかねない。最悪、それをネタにしてアサシンの存在が一般にも広く知れ渡る可能性だってあるのだ。

「彼奴は暫く、あの場所から離れる必要があるな」

 そう言って此方に向けられた彼の目には、何らかの期待が込められているのはすぐに解った。チェアの背凭れに深く身を沈め、腕を組み、困った様に眉尻を下げてはいるが、何処か楽しげな表情でもある。

「此処だと他のクライアントやアサシンが来るし、況してやお前の立場もなくなる。……俺の言いたい事、解るよな?」

 要は暫く川崎を僕の自宅で匿え、という事だ。僕は独身で一人暮らしだし、男ふたりでも狭くはないから断る理由もないのだが、どうも彼に良い様に遣われているという状況は好ましくない。

「川崎が良ければ、僕は構いませんが」

「そぉ?じゃあ彼奴に訊いてみてよ」

 まるでその答えを予期していたかの様に、ウィリアム章大は満面の笑みを浮かべ、僕の言葉の語尾に被せて返事して来た。全く、調子の良い男だ。

 しかし、アサシンの存在が明るみになれば僕だってただでは済まない。そうなれば、僕だけではない、彼女もまた、どうなる事か。そう考え、僕は川崎との同居を了承していた。彼も二つ返事で了承し、今夜、一度落ち合う事にした。

 公共施設街の中でも一際広い面積を持ち、医療設備も有能な医師も充実した総合病院。僕は最低でも週に一度はこの場所を訪れる。その目的は、ただひとつ。

「お兄ちゃん!」

 小児科病棟の一室に、愛らしく高い声が響いた。ベッドの上で元気そうに笑顔を浮かべている彼女は、僕の年の離れた妹だ。3ヶ月前迄は食事も喉を通らず、点滴と薬に頼っていた体はみるみる内に回復し、今や妹は何処にでも居る健康的な女の子になった。

 両親は妹が幼い頃に他界しており、身寄りのなかった僕達は互いが唯一の家族なのだ。

「あまり大きな声を出すと、看護師さんに怒られるぞ」

「だって、お兄ちゃんが来てくれたから」 差し入れの入った袋を手に、ベッドの脇に据えてあったパイプ椅子に腰を下ろしながら注意すると、妹は照れた様に屈託のない笑顔を見せた。肩を越す程度の黒髪が、体の動きに応じてサラサラと靡く。白く透き通った肌にふっくらとした赤い頬と唇、優しげな瞳。兄の欲目かも知れないが、まるで絵に描いた様な可愛らしいその顔と、元気そうな姿を見るだけで、肩に重く伸し掛かる嫌な思いがスッと溶けて消えていく様な気がする。

 妹は現代の医学をもってしても治す事の出来ない難病を患っているのだ。今はこんなに元気そうにしているが、いつまた3ヶ月前の様になるのかは、誰にも判らない。それでも、惜し気もなく払っている医療費のお蔭か、何とか持ち堪えている。僕がアサシンの代理人をやっているのは、この為なのだ。

「あ、そうだ」

 僕は差し入れを持って来たは良いが、飲み物を用意していなかった事に気付いた。妹が食べ物を喉に詰まらせてしまいかねない。僕は妹にそれを渡してから、まだ食べない様にと釘を刺し、ひとりで売店へと向かった。良かった、今日も妹は元気そうだ。

 エレベーターで一階へと下り、廊下を歩いていると、前からやって来た人物が目に止まった。思わず足を止め、その人物を注視する。この場所での予期せぬ出会いに、僕はきっと驚愕の表情を露にしていた事だろう。

「何をしている」 まるで黒装束を身に纏っているかの様に、全身黒ずくめの青年は、長い前髪から覗く切れ長の目を此方に向け、威圧的な声で訊ねて来た。見間違える筈(はず)もない。川崎だ。その場に立ち止まり、無表情で小首を傾げている。

「妹の見舞いに」

 特に疚(やま)しい事がある訳でもないのに、僕は妙によそよそしく答えていた。先程の予想外な展開に、まだ頭が追い付いていないのだろう。川崎は「あぁ」と納得した様に軽く数回頷くと、また何処かに向かうべく歩き出す。

「川崎は、何を?」

 擦れ違い様に訊くと、川崎は足を止め、此方を見た。彼は僕よりホンの少し背が低い為、必然的に上目遣いになるのだが、近くで見ても綺麗過ぎて怖くなる顔付きだ。彼が此処に居るという事は、彼もまた身内や友人の見舞いに来たのだろうか。或いは、彼自身が診察に……。

「仕事だ」

「……あ、そう」

 しかし、川崎は淡白な口調で僕の予想とは裏腹な答えをくれた。彼らしいと言えば、そうなのだが。僕は間の抜けた声で相槌してから、「用が済んだら、ロビーで待ってる」。

「あぁ」

 どうせ行く先は同じなのだ。一緒に帰宅すれば良い。川崎は低い声で返事してから、また歩き始め、僕も売店へと急いだ。

 妹と差し入れしたケーキを食べ、手短に話をしてから人を待たせていると言って早々に別れを告げた。

「お休みなさい」

 寂しげにそう言った妹の方が眠そうであった。

 ロビーに向かうと、既に川崎が正面玄関の前で待っていた。互いに言葉を交わす事もなくタクシーに乗り込み、住宅街へと向かう。川崎は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。何を思っているのか、その表情からは窺い知れない。僕は特に沈黙を苦とは思わないが、タクシーの運転手の気持ちを考えると、少し申し訳ない。頻(しき)りに此方へと話題を振ってはくれるものの、川崎は気のない返事だけで自滅しているその人を見ると、何ともいたたまれない気分になった。

 僕達は15分程で自宅の高層マンションへと辿り着いた。オートロック式のエントランスを抜け、エレベーターで上階に向かい、奥の角部屋へと歩く。2LDKの広々としたマンションの一室は、いずれは退院した妹と暮らす為に探した物件だ。その為、食器等の日用品は既にふたり分を用意しているのだが、一人暮らしで最近は食事もコンビニ弁当で済ませるせいで使用頻度は皆無に等しかった。

 先に川崎を通してから玄関のドアを施錠すると、僕は靴を脱いでクッションフロアを歩いてリビングへと向かった。途中スーパーで買い出しした食材の入った袋を手に、リビングの電気を点けた。煌々とした明かりが殺風景な室内を照らし出す。今日は徒歩での移動が多かった上に、篠田のせいでかなり疲れてしまった。僕は少し休憩するつもりで鞄と袋を床に置き、まずはソファに身を沈めた。しかし、これがまずかった。一気に疲労感が全身を駆け巡り、睡魔が襲い掛かって来た。来客が居るというのに、僕の体は意思に反して動く事を拒んでしまったのだ。

「おい、……」

 川崎が何か聞き慣れない単語を発していたが、僕は聞き返す気力もなく、そのまま深い眠りに落ちていた。

 目を覚ました時には、もう翌日の夕方であった。西陽がカーテン越しに室内を赤々と染め上げ、何処か遠くから時刻を報せる鐘の音が微かに聞こえる。随分と眠っていたな。着ていたYシャツが、ウィリアム章大の私服の様に皺だらけになってしまっている。

「……ん?」

 朦朧としていた意識が現実へと視点が戻っていくにつれて、僕は昨日の記憶を振り返り首を傾げた。

 僕は自室のベッドに横になっていた。確か昨日は帰宅して、そのままソファで眠ってしまった筈だが。まさか、川崎が運んでくれたのだろうか。スーツのジャケットはハンガーに吊るされ、壁のフックに掛けてあった。

 僕はベッドから起き上がり、リビングへと向かった。どうやら川崎は外出中の様だ。代わりに、ダイニングテーブルには昨日はなかった物が置かれていた。歪な形をした目玉焼きともスクランブルエッグとも見分けのつかない(有り得ない事だが、本当に判断に苦しむのだ)玉子料理に、所々焦げて如何にも固そうなベーコンの乗った皿。大小様々な具材の入った味噌汁と、明らかに水分量を間違えて粥の様になった米の入った椀が、ラップを掛けてあった。

「……」

 正直、見映えは酷く悪い。終(つい)ぞ料理なんてした事のない人間が作ったものだという事は一目瞭然である。しかし、不器用ながらもこれを川崎が作ってくれたという事実に僕は驚き、感激した。きっと、疲れて眠ってしまった僕の為に用意してくれたのだろう。彼にはこんな意外な優しい一面があったのだ。

 僕は素朴とも言い難い川崎の手料理に口を付けた。料理は見た目じゃないとは言うものの、これは一切味付けがされていなかった。味付けの仕方が判らなかったのか、或いは好きに味付けしてくれという意味合いなのかは判然としないが、やはり料理は見た目じゃない、気持ちだと言い聞かせ、それを平らげた。まぁ、見た目や味はどうあれ、腹は膨れるのには変わりない。

 すっかり目が覚めた所で、僕はルームウェアに着替え、顔を洗うと、昨日は出来なかった分、川崎をもてなす準備に取り掛かった。もてなしといっても、大した事ではないのだが。手料理を振る舞うなんて声を大にして言える程、腕に自信がある訳でもレパートリーが豊富な訳でもない。それでも、川崎よりはまだまともなものが作れるとは自負出来る(相手のレベルが低すぎるが)。僕は着々と家事をこなしてから、キッチンに立った。料理なんて、どの位やってなかったかな。況してや誰かの為に、料理を作るだなんて。

 ダイニングテーブルを埋め尽くす程の沢山の料理が出来上がった頃、川崎がタイミング良く帰って来た。リビングのドアを開けるや、この光景を目にして面食らっている様だ。

「お帰り」

 努めて平常心を保ちながら声を掛けると、川崎は居心地悪そうに爪で頬を軽く掻きながら視線を逸らし、着ていたコートを脱いだ。

「あ、有り難う。ベッドに運んでくれただろ?飯も用意してくれてたし」

「礼を言われる様な事はしてない」

 何ともぎこちない、まるで思春期の息子と父親の会話(飽く迄想像だが)に、その場の空気が次第に重くなる。川崎はソファの背凭れにコートを置くと、此方へと歩み寄り料理を一つ一つ眺めている。何とかその空気を払拭しようと、取り敢えずは食事を摂る事にした。

 ダイニングテーブルに向かい合って座り、川崎が作ってくれた料理を食べていた僕は軽く摘まむ程度で、彼の動向を見守っていた。食の好みが判らない為、取り敢えず和食を並べてみたのだが、彼は何一つ言わずに、手近な物から黙々と口に運んでいる。かなり腹を空かせていたのか、そのペースが早い。単に早食いなのかも知れないが、見る間に皿が空いていくのだ。肉じゃが、煮物、焼き魚、酢の物、味噌汁、白米……。念の為に多めに作っておいたのだが、それらはあるだけ川崎の胃袋に収められていった。その細い体の何処にそれだけのものが入るスペースがあるのかと疑問を抱く程だ。凄まじい程の食欲に呆気に取られ、僕は目を丸くし、口をポカンと半開きにして、その様を傍観していた。 そうして全ての料理を平らげると、(相変わらずの無表情だが)川崎は満足げに膨れた腹を擦り、溜め息を吐いた。そして、再び沈黙がふたりに訪れる。

 作った側としては面白くない。安いバイキングレストラン並みの「質より量」感覚で作った訳ではないのだ。川崎への感謝の気持ちを込めて、一心に作ったのに、彼は無表情で食べ尽くしたのだ。美味いのか不味いのか、全く判然としない。彼は質に拘(こだわ)らず、ただ胃袋に入れば良いという感覚の持ち主なのだろうか。何だか悲しい気分になって来た。

「久しくなかったな」

「え?」

 突然、川崎が感慨深そうな溜め息を漏らしながら呟いた。頓狂な声で返すと、彼は空になった皿を指差しながら、言葉を次いだ。

「手料理。ホントにアンタがこれを?」

「ま、まぁ…」

「前職はシェフか?」

 その質問だけで、どれだけ川崎の舌を唸らせる事が出来たのか、おおよその見当がついた。直接「美味い」と言っている訳ではないが、言葉のニュアンスからそう感じ取れる。不味ければ不味いと面と向かって言う相手でもなさそうだが、間接的な言い回しで評価してくれている様だ。それは素直に嬉しかった。

「否、料理は昔からやってたんだ。親が早くに死んでるから」

 その反動からか、僕は何の躊躇いもなく川崎に自身の素性を話して聞かせていた。妹が幼い頃に両親が他界してから、生まれながらに病弱な妹の看病をする傍ら、躍起になって仕事をしていた事。交通事故で入院し、以前勤めていた会社をクビにされた事。今の仕事のお蔭で妹の容体は快方に向かっている事。もう受け入れる他ない自身の過去だ。今更振り返ってみても、特別感情的になる事もない。まるで小説を読む様な、他人事の様な口振りで、僕はそれを打ち明けた。川崎はただ、目を伏せ、相槌を打つでもなく無言で聞いていた。

 全て話し終えた頃には、食後の珈琲が入った。熱い珈琲を啜りながら、ふたりを包む空気が以前とは違う様な気がしていた。重苦しいものが少しだけ軽減された様な感覚である。ひとつ殻を破り、一歩互いに近付いたのかも知れない。

 自身の事を話した以上、やはり川崎の素性が気になった。何処で生まれ、どんな環境で育ち、どういう経緯でアサシンになったのか。少し前の僕なら、そんな事は知りたくもなかった。人殺しの素性なんて、聞く気にもならなかった。業務以外での関わり合いは御免被(こうむ)りたかった。僕の気持ちを変えたのは、川崎の内に見え隠れする普通の人間らしさに他ならないのだ。

 川崎に期待の眼差しを注いでいると、彼は此方に視線を向け、僕の胸中を探っている様であった。彼と違い、僕の感情は手に取る様に見抜かれているのだろう。暫く互いに見つめ合っていたが、やがて川崎がパンツのポケットに手を突っ込み、中をまさぐり始めた。引き抜いた手には、パソコン用のメモリースティック。何を以てそれを取り出したのだろうか。僕は状況が読み込めず、眉を寄せ、首を傾げた。この中に、川崎に関する情報が詰め込まれているとでもいうのか。

 後片付けを済ませてから、僕達はソファに肩を並べて腰掛け、ローテーブルの上にノートパソコンを置いて起動させた後、メモリースティックを挿入した。中には大量のテキストファイルが保存されている。川崎はその中からひとつを選び、見せてくれた。

「これは…」

 僕はパソコンの画面を覗き込み、唖然とした。それは川崎ではなく、今回の依頼のターゲットである早坂眞弓に関する情報であった。

 早坂は富裕層の家庭に育ち、名門大学を卒業後、今の会社に就職。社交的で人当たりが良く真面目な性格から、彼女を慕う人も多い。仕事への意識が高く、入社して僅か3年で主任に昇格。一応、恋人は居ない様だ。

 彼女は一年程前から、篠田からしつこく交際を迫られているらしい。今や次々とベストセラーを生み出す彼の要求にハッキリと断る事も出来ず、何度か一緒に食事をする程度で、適度な距離感を保っていた。

 しかし、3ヶ月前、篠田に無理矢理押し倒されそうになった時に、キッパリと交際を拒否したという。以来、何事もなく平穏な日々を送っていると、その情報は締め括られている。もし仮にその事がきっかけで篠田が逆上して、早坂の殺害を依頼したとなれば、何とも筋違いな話である。他にも彼女の学歴や身内、友人関係といった情報が事細かに記載されている。

「こんな大量な情報、一体何処から…」

 これは僕の勝手なイメージだが、早坂はあまり自身の素性を周囲に話す様な性格ではなさそうだ。況してや篠田の話題に関しては特に職場関係や仕事面での影響を及ぼすのは必至。まさか、当人から直接訊いた訳があるまい。

「中にはチップを渡せば口を割る身近な人間も居る。基本的には足で情報を得るが、ターゲットは相当に秘密主義らしく、生い立ち程度しか得られなかった」

「じゃあ、どうやって…」

 僕がそう訊ねると、今度はインターネットに接続し、検索サイトを通じて紫で統一されたシンプルなブログを見せてくれた。

「これは?」

「ターゲットが管理してるブログだ」

「ホントに?」

「紫が好きな事はターゲットの同期から聞いた。記事を読めば、登場する人物や会社名は伏せていても、大体は判断出来る。その上…」 川崎はそのページ内のプロフィールにリンクした。ブログの管理人の情報が画面に映し出される。彼は続けた。

「ターゲットは東北出身、訛りや方言は未だに抜けてない。普段もそうだが、ブログでも方言が多く遣われてる」

 確かに、記事には東北地方の方言が随所で遣われているし、プロフィールの職業の欄にも、出版社の編集部所属と記されている。

 しかし、信憑性には少し欠ける。出版社に勤める東北出身の女はひとりとは限らない。好きな色だって、誰とも被らないのも不思議な位だ。これは川崎の憶測に過ぎないのだが、彼は確実視しているのだ。そういった意味では、川崎はかなりの自信家だと僕は思う。まぁ彼の場合、実績が物語る程の並外れた頭脳を持ち合わせているのだから、単なる勘で片付けられるものではない。

「アンタ、篠田の小説を読んだ事はあるか?」

「え…」

 唐突にそう訊かれ、僕は面食らった。実はというと、僕は作り話がどうも苦手で、ミステリーに限らず本当にフィクションの小説を読んだ事がないのだ。

「僕はエッセイやコラムが好きだから、それ以外は全く…」

何と無く悪い気がして肩を竦め、上目遣いで川崎を見つめて弁解した。彼は気にするでもなく、背凭れに深く身を沈め、肘掛けに肘を付いて空(くう)を見つめた。「篠田の最新作はネクロフィリア|(屍体愛)がテーマで、意中の女を殺し、己の私欲の為に腐る迄屍姦を繰り返す男の話だ」 粗筋を聞いただけでも、背筋に悪寒が走る。フィクションとはいえ、私欲の為に女を殺し、強姦するだなんて。現にそんな男が居たら(実際居るからそういう者達を総称する単語が生まれたのは言う迄もないのだが)、重大な精神異常者だ。流石に僕は友達になれそうもない。

「良くそんな本を読む気になったな」

 僕は少々川崎の神経を非難し、皮肉を込めてそう言った。何かと突っ慳貪な態度で返して来るかと思ったが、彼は考え込む様に目を伏せ、暫く黙り込んでしまった。僕は焦った。もしかしたら単なる好奇心ではなく、任務遂行の為の情報収集の一環として篠田の作品を読んだだけかも知れないのだ。それを無神経にも咎め立てた事で、ショックを受けたのだろうか。はたまた、彼にも人には到底理解に苦しむ性癖でもあるのだろうか。僕はあらゆる不安に駆られ、いても立ってもいられない感覚に囚われた。

「中々、表現力に富んだ文を書くと思った」

 やがて、川崎は自ら作り上げた沈黙を裂いて呟いた。僕の不安を余所に、そんな真面目に小説の感想を述べられてもと呆れてしまいそうになったが、どうやらそうではないらしい。彼は力強い眼差しを此方に向け、薄く唇を開いた。

「読めば解る。本当に素晴らしい表現力だ。あたかも、自らの体験談を綴っているかの様に、だ」

「……何が言いたい?」

 川崎の意味深な発言に、僕は戦慄を覚えた。聞き返さずにはいられなかった。言いたい事は解る。しかし、それを受け入れるだけの許容は、僕にはなかった。もし仮に、僕の推測が正しければ、それはあまりにも恐ろしいのだ。彼の口から聞きたかった。彼の予想する展開を、彼の言葉で。

 怪訝な表情を浮かべ、懇願する僕に、川崎は澄ました様な顔で、こう返して来た。

「エッセイが好きなら、読むと良い」

 早坂のブログを最初から読み返してみると、確かに記事には彼女の生い立ちや現状と合致された点が多く見受けられた。名は伏せているものの、篠田から告白された事や襲われそうになった事も取り上げられ、沈痛な胸の内が綴られていた。周囲に弱音を吐く事のなかった彼女にとって、このブログは自身の心の捌け口として利用しているのだろう。まぁ、正直な所、僕が女でも篠田に告白されたら、ノーと即答してしまうだろうな。職業柄、小説のネタになりそうな物事に於ける好奇心の強さは仕事意識の強さとして評価してやりたい所ではある。しかし、そういった時の彼は、他人に対する配慮に欠ける。僕と初めて顔を合わせた時がそうだ。その一面しか見ていない僕としては、そういった対象としてではなく、人間的な面に於いても信頼出来ないのだ。

 早坂のブログの記事に一通り目を通してから、僕はある一点に着目した。辞職する社員の多さだ。2年の間に26人もの社員が辞職しているのだ。早坂の勤めている出版社はその業界ではトップクラスの有名な会社らしく、それなりに社員数も多いのだろうが、2年の間でこんなに社員が辞職する会社も珍しいのではなかろうか。この不況で就職難に苦しむ人々が増加する一方で、辞めたにしても行く宛てなど何処にあろうか。規則の厳しさや労基法を裕に無視した業務内容、或いは一身上の都合とはいえ、このご時世に就職出来た事だけでも有り難く思うべきではないのだろうか。その疑問が特に意味を持ったものではないにしろ、何と無く気になっていたのだ。


「へぇ〜、あの川崎がねぇ」

 ウィリアム章大は、我が子の成長に感慨無量といった様子で、微笑ましげに頷いて見せた。説明せずともお分かりだろうが、我が子といっても彼と川崎が親子関係にある訳ではない。自らアサシンの育成にも力を注いでいる彼にとっては我が子同然の見解なのだろう。

 僕にはもうひとつ、気になる事があった。川崎が自ら任務にあたる迄の手口を教えてくれた事だ。今迄は、たったひとりで任務をこなし、その術(すべ)は謎であった。僕はてっきり依頼を請けたら、ターゲットを殺害するタイミングを見計らい、ただそうするものだと思っていた。しかし実際は、それに至る迄にターゲットの情報を集め、それを基に綿密な作戦を立て、事に及んでいたのだ。思えば突発的な行動だけで、手際の良いやり方は出来ないだろうな。

 しかし、何故今となってそんな事をしてくれたのか、僕には解らなかった。秘密主義というイメージの強い川崎だけに、いくら代理人の僕であっても今迄は大した会話も交わさなかった仲なのに。ウィリアム章大の感激した様子からして、昨夜の川崎の行動はまさに異例なのだろう事は窺えた。

 昨夜は結局、川崎の素性を訊ける雰囲気ではなくなり、互いにそのまま就寝した。今朝目覚めた時には、既に彼の姿は何処にも見当たらなかった。どういう訳か焦燥感にも似た不可解な感覚に囚われた僕は、こうしてあの嫌な煙草の臭いを我慢し、ウィリアム章大の元を訪ねたのであった。

「お前はこっちの人間だから、知ってても良いんだけどな。全く、彼奴は何を考えてるのやら、未だに掴めないな」

 デスクに腰掛け、ウィリアム章大は困った様に眉尻を下げ、苦笑いしながら、咥内から紫煙を吐き出した。彼に解らないのなら、僕には尚更解らない事だ。仮に互いに距離が縮まった、と考えてはおきたいのだが。

 その時、室外からドアをノックする音が数回聞こえた。来客だろうか。僕が窓際のソファに身を沈めたのを確認してから、ウィリアム章大はドアの向こうの人物に入室を促す。すると、開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは、怪しげな眼光を放ち、陰湿な笑みを浮かべる貧弱そうな体躯をした、篠田であった。

「どうも…。その、依頼の進行状況は如何なものかと思いましてね」

 篠田は後ろ手にドアを閉めると、背中を丸め、膝をやや折り曲げた格好でウィリアム章大の方へと歩み寄る。一昨日は来客をもてなすに相応しい身形(みなり)に空間であったが、今回は普段通りのむさ苦しい姿に煙草の臭いが充満した室内。しかし、篠田はそんな事はお構い無しといった様子で、背筋を凍らせる程の憎々しげな笑みを見せている。

「結果は此方からご連絡を差し上げると申した筈ですが」

 対応するウィリアム章大は人当たりの良い柔和な表情と口調でそう返しはしたが、その目は川崎とも引けを取らない脅威的なものを感じさせる。彼を疎ましく思っているであろう事は、それを見れば一目瞭然だ。「そ、そうですよね。否、あのぅ……。あ!」

 ウィリアム章大の眼差しに腰が引けたのか、明らかに怯えた様子で居心地悪そうに次ぐ言葉を探しながら視線を泳がせていた篠田は、僕の存在に気が付くと、目を剥き、大きく口を開け、驚愕した表情を浮かべた。僕は一昨日の彼の悪態を思い浮かべ、顔をしかめ、その様を見据えた。

「いや〜、あの時はどうも、とんだ無礼を」

 篠田は途端に顔中に皺を深く刻み、媚びる様な笑みを浮かべた。両の掌を擦り合わせ、何度か頭を軽く下げながら、此方に近付いて来る。彼に尾行をした事に対する謝意は見受けられなかった。ウィリアム章大とのやり取りに逃げ場を見つけ、安堵している様である。僕としては迷惑極まりない。

「何か?」

 僕はあからさまに敵意を示しながら素っ気なく訊ねると、篠田はショルダーバッグからメモ帳とボールペンを取り出し、僕の眼前へと立ちはだかった。前述の通り、人の表情や雰囲気を感じ取り身を引く様な配慮が全くない。

「実は、次回作はアサシンを題材に小説を書こうと思ってましてね。少しばかりご協力願いたいのですが…」

 何て傲慢な奴だ。僕に憎悪の念を抱かせ、尾行し、そしてこの期に及んで自分の手掛ける作品に協力を求めるだなんて。見掛けによらず、中々に図太い神経の持ち主である。先刻迄ウィリアム章大の脅威的な眼差しに臆していたにも関わらず、今は僕達から注がれる白眼視にも怯む様子もない。単にあまりにも鈍感で、気付いていないだけか。

「一昨日、一緒に地下通路に居た方がアサシンなんですよね?ちょっと顔の方がうろ覚えでして…。ほら、何せ彼処は薄暗いでしょう?宜しければ詳しく教えて頂けませんか?」

 篠田の目が、好奇心により一層大きくなり、怪しい光を放つ。妙に馴れ馴れしく間延びした口調が、此方の神経を逆撫でする。

 無論、答えるつもりはない。アサシンの存在を世に知らしめる訳にもいかないし、況してやこんな危険度の高い非常識な奴に、川崎の料理の下手さだって教えたくもない。下手(したて)に出た所で、潔く引き下がる相手ではないのだ。

「話す事はない。用が済んだら帰れ」

 僕は険悪な雰囲気を滲ませ、感情のままに冷淡な口調で返しながら、篠田を睨み付けた。しかし、そんな事ですぐに退く様な男ではない。

「そこを何とか!フィクションって事にしておきますし、他言は一切しません。ですから、ね?お願いしますよ」

 篠田は声を上げ、自身の胸元でパシンッと小気味良い音を立てて両手を合わせ、尚も食い下がって来る。悪びれた様子は微塵も感じられない。その態度に、僕は込み上げる怒りを遂に爆発させる寸前だった。

「篠田さん、憶えてますか?」

 そこへ僕達の動向を傍観していたウィリアム章大が、漸く口を開いた。その目は冷然と篠田を捉え、口許の笑みはなく、僕でさえゾッと鳥肌の立つ様な戦慄を覚える顔付きであった。しかし、篠田はそんな彼の表情から窺える胸中にも気付かずに、陰湿な笑みのまま「え?」と訊き返した。

 ウィリアム章大はデスクの引き出しから一枚の書類を抜き取ると、静かに机上に置きながら続けた。

「先日、サインを頂いた合意書です。此処に弊社及び当案件に関する一切の情報の漏洩を禁ずるとあり、それに同意されましたよね」

「えっ……」

 篠田は慌てた素振りを見せてウィリアム章大の方へと駆け寄り、書類を手に取って合意書の内容を目で追った。再確認する迄もなく、それがクライアントとして最低限は厳守すべき事と判らないのだろうか。困惑した表情を浮かべ、僕達の顔色を交互に眺めながら、篠田は何か言いたげに何度も口を開閉させている。しかし、弁解の余地もない様である。居るんだよな、内容を確認しないで適当にサインして、後から聞いてないなんて文句を言い出す奴。彼は寧ろ言葉も浮かばない様子だ。

「万一、貴方が出した作品によって弊社やアサシンの存在が明るみになり、公的措置が取られてしまえば…、貴方が弊社に殺害を依頼した事も公になってしまう恐れだってある。最悪、自分で自分の首を絞める事になりかねませんよ?」

 尤(もっと)もらしいウィリアム章大の言い分に、篠田の顔が見る間に青褪めていく。額には脂汗が滲み、眼球が零れ落ちそうな程に目を剥き、歯をガタガタと鳴らし、全身を震わせ、今にも失神してしまいそうである。流石にそれは危惧してしまった。何せあんな貧弱そうな体付きなのだ。

 アサシンや仲介業の存在が明るみになる、イコール、クライアントの素性も明るみになるという事だ。金で物を言わせて罪を軽く出来ても、篠田のファンや世間からの信頼や人気は、金ではどうする事も出来ない。彼はそういう点に迄は頭が回らなかったのだろう。

「勿論、依頼は遂行させます。しかし、これ以上の介入はご遠慮願いたい。解りますね?貴方の進退にも大きな影響を及ぼす羽目になりますよ」

 有無を言わせぬ厳然とした口調に、篠田はすっかり憔悴しきった表情を浮かべ、逃げる様にその場を立ち去って行った。嵐の去った室内には、少しの沈黙が訪れる。

 全く、厄介なクライアントだ。もう少し目先よりも後先に視野を広げて行動して貰いたいものだ。まぁ、篠田もウィリアム章大の忠告を重く受け止め、これ以上は下手な真似はして来ないものと願いたい。僕は窓を開け、怒りで熱くなった体に、新鮮な外の空気を当てた。室内にこもっていた煙草の不快な臭いも徐々に外へと飛び出していく。

「川崎には、今回の案件を是が非でも早急(さっきゅう)に片付けて欲しいもんだな」

 ウィリアム章大はチェアの背凭れに深く体を沈めながら、大袈裟に溜め息を吐いて見せる。川崎やターゲットには悪いが、その意見には同感だ。

 彼が机上の煙草を持ち上げ、一本を口に咥えたその時、再びドアを叩く音がした。先程よりも弱々しく感じたその音に、また性懲りもなく篠田が戻って来たのではないかと、僕はそちらを注視した。

「…どうぞ」

 ウィリアム章大も同じ考えの様で、気乗りしないといった間延びした口調で一声掛けると、ドアが控えめに開いた。あの憎々しい顔を再び拝む事になるのかと、内心ウンザリしていたが、それは違った。姿を現したのは女である。しかも、その顔には見覚えがあった。

白いストライプ柄が入った黒のリクルートスーツに身を包んだ、ショートヘアの利発そうな若い女であった。面と向かって会うのは初めてである。ターゲットの、早坂眞弓だ。彼女は静かにドアを閉めると、緊張した様子で姿勢を正し、此方に会釈して見せた。ウィリアム章大に促され、デスクの前にある椅子に腰を下ろすも、落ち着かない様子だ。此方に向けられる視線には、警戒心が見て取れる。

「どうなさいました?」

 まるで診察する医師の様な言い回しをするウィリアム章大も、突然の事態に僅かながらも動揺している様である。胸中を探る様な目付きで早坂を見つめている。

「あの……」

 何とも弱々しい声である。早坂の容姿から想像するものと違うそれに、よそよそしさが窺える。

「先程、此方に篠田栄鬼が伺ったかと思いますが…」

 その言葉に、僕とウィリアム章大は驚きを隠せずに目を見合わせた。

「恐れ入りますが、此処が如何なる場であるかはご存知ですか?」

 彼が訝しげに、しかし紳士的な物腰の柔らかさで問い掛けると、早坂は困った様に眉尻を下げ、目を伏せた。

「篠田が伺ったとなれば……、アサシンに殺害の依頼を請け負う場かと」

 僕は驚愕した。早坂は、篠田が此処を訪れ、依頼をした事を知っていたのだ。何故?まさかクライアント自らターゲットに直々に告げたとでも言うのだろうか。そして、依頼の取り下げを…?考えられなくもない話ではあるが、だとしたら彼女ひとりではどうする事も出来ない事態である。

「アサシンという存在は何度か耳にしてましたけど、この場の所在が判らず、篠田の後を追って辿り着きました」

 早坂は一句一句を噛み締める様に、丁寧な口調で言った。気品のある柔らかな声だが、緊張からか少し上擦っている。ウィリアム章大は何かを察したかの様に眼前の彼女を見つめている。

「…ご用件を、お伺いします」

 早坂が依頼についてどの辺迄を把握しているかは判然としないだけに、此方から下手に話を進める訳にはいかない。ウィリアム章大に発言を促され、早坂は暫くスカートの裾を握り締め、押し黙っていたが、やがて意を決した様に顔を上げ、真剣な眼差しで、唇を開いた。

「篠田の殺害依頼?」

 自宅のリビングのソファにゆったりと身を沈め、淹れ立ての熱い珈琲を一口啜ってから、川崎は対峙して床に腰を下ろした僕の言葉に動揺するでもなく問い返した。僕はその話を聞いて思わず腰を抜かしかけたというのに、彼の落ち着き払った様子に、混乱していた頭も、徐々に冷静さを取り戻す。

「あぁ、これがその案件の書類だ」

 鞄から数枚の書類を取り出して川崎に差し出すと、彼は空いている方の手を伸ばしてそれを受け取り、無表情で内容を目で追い始めた。

 早坂が事務所を訪れた理由、それは篠田の殺害依頼であった。


「篠田栄鬼の、殺害を依頼に…参りました」

 緊張感に声を震わせながらも、早坂は力強い口調でそう言った。異例の事態だ。ターゲットがクライアントの殺害依頼を出すなんて、前例にない。僕は驚いて彼女を凝視した。ウィリアム章大は眉間に皺を寄せ、身を乗り出した。

「篠田栄鬼というと、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで人気急上昇中の有名なミステリー作家ですよね」

「えぇ。彼の作品は全て私の勤める出版社から出してます」

「彼の様な素晴らしい功績を讃える逸材の喪失は、貴社にとってマイナスを生む事になりかねないかと思うのですが」

 ウィリアム章大は単純にクライアントからの依頼を請け負う訳ではない。どういった経緯で考えるに至ったのか、それにより今後生じ得る事態を想定し、本当にそれを実行しても良いのか。クライアントの話を聞き、そういった部分にも視野を当てていく。他の仲介業にはこういった事が殆どなく、どんな理由であれさっさと依頼を請ける場合が多いという。その点では感心する。後は駄目だが。

「確かに、弊社としては得ではありません。ですが、私はもうこれ以上の犠牲を払って迄、彼の名声も、会社の存続も守りたくない…!」

 早坂は感情的になり、声を上げた。胸につかえていた怒りや憤りが言葉と共に吐き出された様だ。眉間に縦皺を刻み、唇を噛み締め、スカートの裾を握っていた手には更なる力が加わっている。

 犠牲を払って?一体、どういう事なのだろう。ウィリアム章大も同じ疑問を抱いたらしく、

「と、言いますと?」

と、質問を投げ掛けてみた。

 昂る感情を抑えようと、胸元に手を当て、呼吸を整えてから、早坂は重々しく口を開いた。

「篠田の作品は、よりリアリティーのある表現力を求め、内容とほぼ同じ行動を取って文章を書き上げていきました」

「……、まさか…」

 ハッとして僕は声をあげると、早坂は顔を強張らせ、小さく頷いた。

「彼の作品は、謂わばノンフィクションなんです」

「何て事だ…」

 まるで川崎が昨夜言っていた事と同じだ。篠田がネクロフィリアをテーマに手掛けた最新作も、現実に起きてしまった事だったのだ。僕の背筋に冷たいものが走った。早坂は一度間を置いてから、話を続けた。

「篠田の作品が売れ出す前、弊社は経営危機に陥り、存続が危ぶまれておりました。今、弊社が危機を脱し急成長を遂げたのには、篠田のある計画があります。私達は…、会社ぐるみで彼の罪を黙認して来たんです」

 流石にウィリアム章大も口を半開きにして呆気に取られ早坂の話を聞いていた。掛けてやる言葉も浮かばないといった様子である。狂気の創作意欲で殺人を繰り返し、作品を作り出して来た篠田。その様を見て見ぬフリでいた会社。信じ難い事実ではあるが、彼女が嘘を言っている風でもない。目には涙を溜め、苦悶の表情を浮かべる姿に、今迄誰に打ち明ける事も出来ず、独り罪悪感を抱えて来たのだろう。一度言葉を切ると、ついに溜めていた涙が頬を伝う。

「篠田は弊社の社員から手を掛けていきました。元々、人件費を削減する為にリストラを考えていた所にその話を上の者に持ち掛け、以来…弊社は実質、篠田が権力を握る事になりました」

 苦肉の策、とでも言うのか。僕は早坂のブログを読んで気になっていた辞職する社員の多さが、こんな形で解明するだなんて思ってもいなかった。晴れて恐るべき会社から出られた者も居れば、会社の存続の為に犠牲になった者も居るのだろう。早坂の涙には、そういった者への償い切れぬ自責の念も含まれていたに違いない。

「もう、これで最後にしたい」

「…最後?」

 すかさず僕が訊ねると、早坂は此方に視線を移し、悲しげに微笑んだ。

「篠田は、私の殺害を依頼している筈です。本人から聞いてます」

「…!!」

 知っていたのか。しかも、直接クライアントから。だとしたら、逆に何故ターゲットが此処へとやって来たのか。自身の殺害を依頼された腹いせとでも言うのだろうか。寧ろ、何処かに身を潜めていた方が良さそうなものだが、きっと川崎を相手に無謀ではあるか。

「篠田は、次回作にアサシンをテーマに持ち掛けて来ました。それを聞いて私、これで終わらせなければと、自ら名乗り出たんです」

 早坂は胸ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭った。胸が締め付けられる思いだった。己の身を犠牲にして、篠田と会社の罪をこれ以上重ねまいと、たった独りで決意したのだろう。その意志の強さが瞳に宿っている。

「しかし、クライアントから依頼の取り下げがない以上、此方も依頼を遂行せざるを得ません」

「解ってます。覚悟は出来てます。篠田が依頼を取り下げるとは考えられませんし、私も…生きて償える罪だとは思ってませんから」

 沈痛な面持ちで確認の為に告げたウィリアム章大を見つめ、早坂は此方が驚く程に敢然とした態度で、そう断言した。

 

 手短に事の経緯を聞いた川崎は、書類を手にしたまま細く長い溜め息を吐いた。何を思ったか、その無表情からは窺い知れない。彼と僕との感情の激しい温度差に、予測すら出来ずに、僕は正面から彼をただ見つめていた。

「請けるだろう?これ…」

 重苦しい沈黙に耐え兼ね、僕は口火を切った。加えて、川崎が一度も依頼を断った事がないから、訊く迄もないとは思っていた。彼は暫く瞼を閉じ黙考していたが、やがて僕達の前に鎮座するローテーブルに承諾書を乗せると、此方に掌を上に腕を伸ばして来た。

「…何」

「ペン」

「……」

 それ位、自分で取れよ。僕は召し使いじゃないんだぞ。

 内心そう毒付きながらも、声に出すのは怖い為、僕は素直にボールペンを手渡した。が、すぐにはサインせず、僕の顔を覗き込んで来た。

「篠田には、俺達へのこれ以上の関与を禁じたんだな」

「あぁ。恐らく、もう接触しては来ないだろうな」

 唐突な質問に、僕は面食らいながらもそう答えた。川崎も小さく頷いて見せる。

「奴が次回作のテーマをアサシンとしている。毎回テーマに沿って殺人を繰り返して来たとなれば、奴も此方の動向を追求したい訳だ」

 確かに、篠田はリアリティーに富んだ文章が売りだし、それを構成する為に数々の人をその手に掛けて来たのだ。彼が此方から釘を刺してやったとはいえ、テーマを変更しない限りそれが叶わない。まぁ、当人だって川崎によって殺される訳だから、そんな心配をするだけ無駄というものだが。川崎は承諾書にサインを終えてから、空を見つめ呟いた。

「今回は、アンタにも協力して貰おうか」

「え?」

 間の抜けた声で返すと、川崎はいつになく真剣な眼差しで僕を捉えた。

 3日後、僕は早坂と共に篠田の自宅を訪ねる事となった。かの有名な作家とあって、どんな贅沢な暮らしをしているのかと思えば、やって来たのは郊外にある築年数も相当に古い平屋の前であった。僕は彼女の背後からそれを愕然と眺めていた。てっきり高級住宅街のマンションの一室、或いは持ち家なんかで、セキュリティもかなり厳しい優雅な生活を送っているものかと…。否、とても失礼だが、あの篠田にはこっちの方が断然似合っているのだが。一応、何かの間違いではないかと早坂に訊いてはみるも、此処ですと断言されてしまった。

「あの…」

 早坂は此方を振り返り、鞄の中から茶封筒を取り出し、僕に差し出した。

「弊社の告発文です。事が済んだら、お願い出来ますか?」

 そう言う早坂の目には、大きな決意を胸に毅然とした力強さが窺えた。これが、死を覚悟した人間の目付きなのだろうか。僕には全く理解出来ない。ただ、彼女の意志を決して無駄にはしたくない。僕は封筒を受け取り力強く頷いて見せると、彼女はぎこちない笑みを浮かべた。

 アサシンの業務を書類の受け渡し以外に手伝うのは今回が初めての事であった。今迄味わった事のない緊張感が全身を駆け巡る。手順を誤れば、任務遂行に悪影響を及ぼしかねない、重大な役目だ。僕は深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。大丈夫、言われた通りの事をすれば良いのだ。

 僕は意を決し、家のインターホンを押した。暫くして、立て付けの悪い引き戸がガタガタと音を立てながら開き、隙間から篠田の嬉々とした顔が現れた。

「お待ちしておりました!どうぞ中へ!」

 予想以上に興奮した様子で篠田は僕達を招き入れる。僕は面食らいながらも、促されるがままに、玄関へと足を踏み入れた。

「汚い所ですが、さぁどうぞ」

「……」

 篠田の言葉通り、中はお世辞にもそれが謙遜とは言えぬ有り様だった。床には様々な種類の本が所狭しと積まれてあった。サイズもジャンルも多様な小説や辞書、参考資料と思われる人体や動物、刃物、ピストル等の写真集なんかもある。それらが通路の半分を埋め尽くし、人ひとりが辛うじて通るスペースしかない。ゴミの入った袋も玄関の隅に置かれ、中には腐敗した悪臭がするものもある。これが来客をもてなす態度だろうか。ウィリアム章大よりも質(たち)が悪い。僕達は不快な顔を隠す事なく表しながら、篠田の後に続いた。

 通されたのは、居間と隣接する、篠田が仕事部屋に使っている狭い空間だった。弾力の「だ」の字もない絨毯が畳の上に敷かれ、磨り硝子の嵌め込まれた窓から射し込む陽射しはカーテンで遮られている。室内には中央に卓袱台があり、机上には最新式のノートパソコンが置かれている。仕事で使っているのだろう。他にも本や書類、CD-R、メモリースティックが散乱している。僕達はそれらを手足で退かし、座れるスペースを確保し、其処に腰を下ろした。

 篠田はリビングに通じる襖を開け、茶の入った湯飲みを乗せた盆を手にやって来た。丁寧にコースター迄敷いて用意してはくれたが、気持ち的には口を付ける気になれず、一応礼は言っておいた。

「それで、お話の方なんですが……」

「まずは貴方の方を先にお聞きしたい」

 僕達と卓袱台を挟んで座り、爛々と瞳を輝かせ、憎々しい笑みで両手を揉む篠田の言葉を遮り、僕は言った。いつもと変わらぬ調子で言えただろうか。不安ではあったが、彼は過剰に頭を上下に振りながら、

「えぇ、えぇ。世はギブアンドテイク、包み隠さずお教え致します!」

と、張り切って返すものだから、不審がってはいないのだろう。寧ろすっかり信じ切っている。僕は内心ほくそ笑んでいた。

 川崎から頼まれたのは、篠田の次回作の制作に協力し、アサシンに関する内部事情を極秘で教える代わりに、彼の制作方法を聞け、というものだった。念の為、今回篠田の依頼を引き受けたアサシンが彼のファンであるという名目付きである。そんな事を聞いて何になるのだろうか。川崎の胸の内は判然としないが、僕はつい承諾してしまった。僕も早坂が言っていた篠田の行動が事実なのか、当人から確証を得たかったのだ。

「私はね、リアリティーに富んだ文章力が売りでして……」

 篠田は咳払いをひとつしてから、得意気に語り始めた。事に及んだのは、彼にとって4作目からだという。まずはその作品のテーマを決める。大体は性的なもので、例えば最新作ではネクロフィリア、以前にはDV、近親相姦、同性愛…。テーマを決めると次に早坂の勤める出版社の社員から題材となる人物を選ぶ。最初はリストラの対象だった者からであったが、次第に彼の好みだったり、思い描く登場人物の理想像からだったりと指向を変えていったらしい。そして、テーマや内容の展開に沿って題材を拘束したり、強姦したりして、最終的には殺害に至るという。最新作は題材を猿轡で口を封じ、緊縛し、肉体的にも精神的にも苦痛を与え続けた。そして、絞殺しながら尚も強姦を繰り返し、腐敗が始まると、裏の庭に穴を掘って埋めた。

 一連の出来事は文や写真で記録していた。ノートパソコンにはそれらが作品ごとに保存されていた。篠田は最新作の題材となった女性社員の写真を何枚か見せてくれた。というよりは、自慢気に見せ付けて来た。恐怖や拒絶、深い絶望にうちひしがれ、顔を歪め変わり果てて逝くその姿に、僕は戦慄した。早坂の言った通りだ。篠田は恍惚とした表情を浮かべて、事細かにその時の状況を熱弁している。

 吐き気がした。異常だ。狂ってる。僕は平静を装いながらも、胸の内では篠田への憎悪の念が胃液と共にじわじわと込み上げて来ていた。こんな惨事を繰り返し、奴は罪の意識なんて微塵も感じてはいないのだ。

「…さて、次はそちらの番ですよ。詳しく、お聞かせ願えますか?」

 話を終え、陶酔した様子で溜め息を漏らしながら、篠田は此方に陰湿な笑みを向けた。その手は既に僕の話を記録しようとパソコンのキーボードに添えてある。僕は顔を伏せ、瞼を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。感じる。気配を殺していても、その存在は襖越しに伝わっている。川崎、居るんだな。

 僕はその視界に篠田を捉え、口を開いた。

「口で説明するよりも、手っ取り早くその目で確認したいと思わないか?」

 その言葉を合図に、通路側の襖が開いた。篠田は視線を上げ、声も出せずに驚愕の表情を浮かべて絶句している。普通の人間とは思えぬ、禍々しく不穏なオーラに包まれた川崎が、冷酷な目付きで此方を見下ろしているのだ。それがアサシンだとはすぐに判断出来ずとも、何やら脅威的な存在ではある事位、誰でも見当はつくだろう。

「どの道、アサシンをテーマに作品を作るつもりならターゲットから情報を得てその一部始終を覗き見でもするつもりだったんだろう?」

 僕は立ち上がり、一歩後退りながらそう言うと、図星と言わんばかりにハッとした顔で口許を手で覆って見せたが、すぐにこれ幸いといった満面の笑みを浮かべた。「なんてサービス精神旺盛な!そういう事なら早く仰って下さいよ!」

 篠田は慌てて机上のデジタルカメラを手に腰を上げた。彼の頭はこれから早坂をターゲットとし、川崎によって依頼を遂行される殺人劇を思い描いているのだろう。すっかり舞い上がっている。カメラにそれを収めたかったのだろうが、それは叶わなかった。

「……っ!?」

 篠田がカメラを眼前に翳した時には、其処にもう川崎の姿はなかった。頓狂な表情を浮かべて顔を上げた口は、布が巻かれ塞がれていた。彼がカメラの操作に手こずっている間に、川崎は素早く背後に回り、猿轡をしていたのだ。そのまま川崎は間髪を入れず、脇の下から両手を伸ばし、篠田の腕を後方へと引き寄せ、ロープで固く結ばれた。その拍子に篠田の手からカメラが音を立て、床へと落ちていった。この間に費やした時間は、僅か10秒未満である。突然の事で状況が把握出来ない様子の篠田は、慌てて川崎から離れようとしたが、足が縺れ、自ら俯せに倒れ込んでしまった。そこに、川崎が馬乗りになる。

「サービス精神旺盛?アンタの為なんかじゃない。刻一刻と迫る死の恐怖に怯えながらも、たったひとりでアンタが作り上げた負のループを断ち切ろうとする、彼女への責めてもの冥土の土産だ」 威圧的な凄味のある低い声で川崎はそう言い放つ。僕は早坂を部屋の隅に移動させると、鞄からICレコーダーと一枚の紙を篠田に見せた。

「…んぐぅ!!」

 それを見るや、篠田は目を見開き、脂汗を滲ませた。自身をターゲットとする依頼書と、先程の彼が語った一部始終が録音されたレコーダーだ。すっかり興奮状態に陥った彼は鋭い目付きで早坂を睨み付け、何やら叫び始めた。彼女に対して暴言を吐いている様だ。何とも筋違いな話である。

 癇(かん)に障ったのか、川崎はパンツのポケットに忍ばせていた折り畳み式のナイフを取り出し、余っていた方の手で篠田の前髪を掴み上げた。苦悶の声が情けなく漏れる。「アンタの犯した罪は、到底許される事ではない。……が、交渉次第では何とかしてやらない事も、ない」

「んぅ…?」

 川崎の発言にその場に居る全員が呆気に取られ、彼に視線を送っている。一体、何を言い出すのか。本気で言っているのか?この期に及んで交渉次第で篠田を救済しようだなんて。

 僕達の疑念を余所に、川崎は篠田の口に巻いた布を解いた。一番驚いているであろう篠田は、その交渉の内容が何なのか、不安な表情で川崎を見上げている。

「アンタが出した依頼を取り消せ」

「何…!?」

「ちょっ…!!」

「っ……!」

 予想外の提案に、皆一様に驚愕した。特に僕には信じられなかった。それが何を意味するのか、篠田と早坂には解るまい。任務達成率100%を誇るアサシンが、自ら依頼を取り消そうとするなんて。自身の誇りを捨てる程に、彼もまた、早坂の強い意志に感銘を受けたのだろうか。この冷静沈着で、他人に関心のなさそうな男がだ。

「どうだ、考える気はないか?」

 手に持ったナイフを篠田の首筋へと寄せながら、川崎は至って普段と変わらぬ口調で催促を求める。篠田は暫く視線を床へと落とし、押し黙っていたが、やがて微かに恐怖心を覗かせながらも、不気味な微笑を浮かべて低く笑った。

「貴方は、私を私利私欲の為に罪を犯した冷酷非道な殺人鬼だと思ってらっしゃる」

 愉快げに細めた目には、悪意に満ちた光が宿っている。何か目論んでいる様子である。その顔に、僕は粟(あわ)立った。同時に、今にも飛び掛かり、その口を再び塞がなければいけない様な焦燥感に駆られていた。何故そんな気持ちになったのだろう。それは篠田の次ぐ言葉を、何処かで予期していたからかも知れない。

「貴方だって、同じでしょう?」

 尾を引く様な、不快な声色で発された言葉に、僕はハッと目を見開いた。頭の先から爪先へと、冷たいものが走り、心臓が鷲掴みされた様な感覚に囚われる。

「貴方も其処の代理人も、ご自身の名誉やプライド、生活の為に依頼があれば人を殺すんでしょう?同罪じゃないですか!」 狂気に満ちた笑みを浮かべ、篠田は声を上げた。こんな奴に、同類扱いされるなんて、と、僕は拳を震わせたが、返す言葉はなかった。

 篠田の言う通りだ。どんな理由であれ、結局は人を殺す事には変わりない。僕だってそう、自身の為に、代理人としての任務をこなして来たのだ。私利私欲の為に。

「確かに罪は罪。でもね、私は決して利己的な理由だけで今迄やって来た訳じゃない。ひとつの会社の経営危機を救ったんですよ?こんな事で私を殺そうだなんて…。会社の奴等だって共犯なんですよ?ねぇ!?何なら、社員全員の依頼書でも出しましょうか!?金ならいくらでも……」

「その必要はないわ」

 唾液を周囲に巻き散らしながら、自身がさも正しいとでも言いたげに、僕達への皮肉を込めて嘲笑する篠田の言葉を遮ったのは、早坂であった。それ迄、隅で小さくなって口を噤(つぐ)んでいた彼女が、毅然とした様子で立ち上がり、篠田を見下ろす。

「お前だって同罪だ。私の殺害を依頼した所で、私は自分が出した依頼を棄却する気はない」

「解ってる。でも本当は、このまま貴方の作家としての人生を、誰よりも全うさせたかった。昔からの夢だったよね、篠田先生」

「……何だと?」

 早坂の言葉に、篠田は眉間の皺を濃くし、疑心の眼差しを向けた。何処か遠慮がちな声には、早坂に対する他者とは違う特別な思いが含まれている様な気がした。

「憶えてないでしょうね。私は、貴方が教師だった時の、教え子のひとりに過ぎなかったのだから」

「……!」

 優艶さを滲ませる早坂の笑みに、篠田は驚いた表情を浮かべた。僕も予想外の展開に耳を疑った。川崎は、終始相変わらず無表情でふたりを交互に見つめている。

「いつも何処か自信なさそうに俯いて歩いてて、頼りなくて、少し怖いイメージだったけど…。私が放課後、ひとりで教室に残ってた時に、先生が作家になりたいって、熱く語ってくれた笑顔が素敵で。……偶然、先生が契約してる出版社に就職してから見掛けた時も、すぐに解った。あの時の目の輝きは、何一つ変わってなかったから」

 瞼を閉じ、子供に本を読み聞かせる母親の様な、穏和な口調に、僕はその情景を頭に思い浮かべた。西陽の射す教室に、期待に胸を膨らませ、子供の様に熱弁を振るう篠田。それを嬉しそうに傍らで聞いている早坂。ドラマにありそうな青春のひとコマである。

「当初の先生は、念願の作家として夢と希望に満ち溢れて、生き生きとしてた。でも、会社から売れる作品を作れとプレッシャーをかけられ、長いスランプに陥り、その姿も失い、昔の面影は消えた。そして…、あんな事を」

 早坂は声を震わせ、目に涙を浮かべた。会社からかけられた圧力、それをどうする事も出来なかったという、自責の念なのだろう。篠田も困惑した様子で早坂を見つめていたが、顔を伏せた途端、悔し涙を床に零した。

「君は……、私が唯一作家になりたいと話した子だった。どうして…今迄忘れていたんだ……」

 嗚咽しながら、苦し気に絞り出した声はすっかり憔悴しきっていた。彼自身、長年夢見て来た作家としての人生を貫く為の、苦肉の策であったのだろう。川崎は篠田の前髪を掴んでいた手を離し、静かに息を吐いた。人間の心理は、こうも読めないものなのか。

 早坂はゆっくりと篠田の前へと近寄り、その場に膝を付いた。言葉を交わさずとも、ふたりの思いは今やっと通い合ったのだ。

「……アサシンさん」

 早坂の呼び掛けに、川崎はナイフを引っ込めながら、彼女の顔を見つめた。彼女の表情からは、己の死を受け入れ、覚悟を決めた清々しさが窺える。

「人には、どんな手を使ってでも、守りたいものがある。それは貴方がたも同じ。彼も、私も」

 その言葉で、どれだけ救われた事だろう。僕は目頭が熱くなり、唇を噛み締めた。篠田の表情も、あの頃の夢と希望に満ち溢れ、早坂同様、その身を以て罪滅ぼしをしようという決意が滲んでいる。川崎、君はどうだろう。

「アンタは出てろ。後の始末は、ひとりでやる」

 それでも、川崎は相変わらず冷淡な口調で僕に言った。こんな時でさえ、彼は無感情で早坂の言葉に何の重きも感じていないのだ。僕は沸き上がる怒気に、彼を睨み付けた。が、その気もすぐに失せた。其処には、僕の知る彼の姿はなかった。これが、任務達成率1000%を誇るアサシンが見せる顔なのか。

 僕は込み上げるものを抑え切れず、踵を返し玄関へと駆け出していた。まともに靴も履けない状態で家を飛び出し、脇目も振らず、目的もなく、その場から逃げたくて、ただがむしゃらに走った。

 視界が滲み、真っ直ぐ走る事は、出来なかった。

 「突然ですが、これが最後のブログになります。『最後』というよか、『最期』と変換すべきでしょうか。理由は、訊かないで下さい。いずれ解りますから。私は、私の犯した罪を償う為に、この地を離れ、暫く皆様を遠くから見上げる事にします。怖くはないです。ただ、申し訳ない事をしたという罪悪感で胸がいっぱいです。こんな事で償える罪ではない事は解ってる。だけど、これは私なりの決断でもあります。これ迄、私を支えて下さった全ての方々に、直接は言えないけど、心から感謝しています。機会があれば、また来世でお逢いしましょう。有り難う、サヨナラ。」


 僕はパソコンの画面を前に深々と溜め息を吐いた。早坂が僕と篠田の自宅に向かう直前に更新されていた、彼女のブログの記事である。遺書と呼ぶに相応しいその内容を読みながら、全身が深い悲しみに包まれていく気がした。

 あの後の事は、正直憶えていない。気付けば自宅のマンションのベッドで眠っていた。起き上がってリビングに行くと、川崎が何も言わずに、淹れ立ての珈琲を差し出してくれた。

 その当人は今、ローテーブルに置かれた事後報告書の記入欄を、相変わらずの無表情で埋めている。僕はその横で、ぼんやりとテレビで何度となく流れるニュース速報を眺めるでもなく眺めていた。有名作家と、出版社に勤める女性社員が、遺体で発見されたという内容である。ふたりの間は何等かのトラブルがあり、揉み合っている内に、女性社員は自宅にあった包丁で刺され死亡。後に作家も自殺を図ったのではないかと、警察は捜査しているらしい。

 その後、警察に送られて来た出版社の告発文によって、会社は明日にも家宅捜査が行われる方針だとも。

「出来たぞ」

 川崎は事後報告書を手に取り、僕の眼前に翳した。それを受け取りながら、僕は彼の顔を見つめた。その無表情の裏に隠された素顔が、今でも瞼の裏に焼き付いている。それ迄、彼は人間としての感情を持ち合わせていないのではとさえ思っていたが、それは大きな間違いであった。彼の体内にも、人の血が通っているのだ。ただそれを、見た事がなかっただけに過ぎない。

 あの時、早坂の言葉に悲哀と罪悪感に満ちた顔を浮かべ、頬に一筋の涙を流した川崎の姿。それが、僕が初めて見た彼の素顔であった。そう思いたい。







―続―

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