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prologue

※この小説には、殺傷行為、薬物使用、性的行為といった過激な描写がある為、15歳未満の方の閲覧はご遠慮願います。


※この小説に登場する人物や会社名はフィクションです。

 ひんやりとした爽やかな空気が漂う秋晴れの昼下がり。人々が何処かよそよそしく、何かに追われる様に足早に行き交うオフィス街の一画に、そのビルはある。寂れた雑居ビルの2階、磨り硝子が嵌められたドアには、「(有)MEDIATION」と印字されたプラスチックの看板が張られている。

 特別気負う場所でもないが、風で乱れた髪を手梳で簡単に整え、咳払いひとつ。そして、ノブを回してドアを開けた。

「失礼します……」

 開けたドアの隙間から、鼻を刺激する強烈な煙草の臭いが飛び出し、開口一番「うっ」と呻きそうになる。何度となく此処を訪ねてはいるが、この臭いにはどうにも慣れない。室内は壁に隙間なく書類を収めた棚が敷き詰められ、窓側には来客を迎える為の革張りのソファと大理石が嵌められた背の低いテーブル、その横には最新のコーヒーメーカーが備わっている。中央に鎮座する木目調のデスクに、座り心地の良さそうなチェア、そのどれもがそれなりに値を張る代物であろう事は素人目にも判断出来る。しかし、その高級感はこの煙草の臭いで台無しである。

「おう、来たか」

 その男はチェアに深く腰を沈め、此方に柔和な笑みを浮かべて口を開いた。彼の名はウィリアム章大、推定30代半ばだろうか。太く凛々しい眉と鋭い目付き、彫りが深く高い鼻が印象的な男である。恐らくは女好きしそうな顔立ちなのだろうが、輪郭を覆う無精髭と、伸びっぱなしの猫毛が何ともむさ苦しい。他人の目とファッションに全くといって良い程関心がなく、いつも皺だらけのYシャツとジーンズを着ている。彼がこの室内に漂う強烈な臭いを放つ原因である煙草は、聞いた事のない銘柄である。彼と煙草はイコールで結ばれる程のチェーンスモーカーなのだ。

 こんなに彼の粗探ししてしまう位、僕は彼を嫌っている。これといって決定的な理由はないのだが、人間的に受け付けない存在ではある。出来れば生涯で関わりたくはないのだが、僕も生きる為には彼を頼る他ない。

「何度も言うようだが、態々(わざわざ)そうビシッとスーツなんて着て来なくても良いんだぞ?もっとラフな格好でもしたらどうだ」

 背も高くその顔立ちからして、欧米人とのハーフなのかも知れない彼は、巧みに日本語を話す。見知らぬ人が彼に道を尋ねようとすれば、恐らく最初は英語を使うのであろう。僕ならどんなに困っても、彼の様な人物には声を掛けないが。

「一応、仕事なので」

 もっと自分の見映えを気にしてくれと、内心毒付きながら、僕は素っ気なく返した。彼は「そうか。」と、苦笑混じりに呟く。

「これが今回の案件だ」

 デスクを隔て、パイプ椅子に腰掛けた僕に、彼は煙草を左手の指に挟み、その手で机上の書類を差し出して来た。僕はそれを無言で受け取り、内容を目で追った。

 書類はクライアントとターゲットの個人情報、合意書、請負人の承諾書の4点。一応、細部に迄目を通す。

「ターゲットは女、か。不倫関係の縺れかな」

「俺達が知るべき事ではない」

 僕の独り言に、彼は間髪入れずにトゲを刺して来た。いつもの調子とは違い、体を貫く様な鋭い口調だ。僕は、威圧的な無表情で此方を見下ろす彼と視線を合わせた。この道3ヶ月、まだまだ駆け出しの身ではあるが、その位の事は十分承知している。クライアントとターゲットの個人情報、案件の内容、及び業務内容やそれに関わる人物の情報は一切他言無用。加えて案件に対する詮索も固く禁じられている。これは業務の初歩的な必須項目である。単なる独り言に対して、そんなにムキにならなくても良かろうものだが。僕は言い返す気にもなれず、視線を書類へと戻し、更に読み進めた。案件の期日は設けられていない。つまり、任務達成の為なら期日は求めないという意味であろう。注意事項はどれも当たり前の事しか記載されていない為、態々読みはしない。大抵は“極秘”、“被害の拡大の防止に努める事”なんて所だろうか。

 書類を隅々迄読んではみたものの、それ程重要な任務ではない様に思えた。しかし、クライアントの名前と多額な報酬に、それがどれ程世間を揺るがす重大な事なのかが容易に理解出来る。

「だから川崎に……」

 僕は納得して数回頷いて見せると、脇に置いていた鞄に書類を収め、それを手に立ち上がった。

「吉報を期待してるぜ」

 彼は怪しげな光をその目に宿し、不敵な笑みを浮かべて煙草の先端を灰皿の底に押し付けた。僕は不本意ながらも、その場で軽く一礼してから、其処を後にした。外界の空気が、一段と澄んで感じた。


 ビルから歩いて約20分、オフィス街に隣接するスラム街の入口には、地下通路に続く階段がある。と言っても、其処は10年程前に爆弾テロがあって以来、一帯は地下鉄の機能を停止し、今やホームレスや家出した若者、ジャンキーの巣窟と化している。確かその頃から此処は地下鉄の経路から除外され、立地も相俟って復旧工事がされなかった。異様な臭気が漂い、暴力沙汰や犯罪も日常茶飯事といったこんな危険な場所への立ち入りは、当初心底嫌であった。それが今や僕もこの辺では名の知れた存在。擦れ違う人の殆どが顔見知りだ。

 政府から見放されたこの地区には、規則や条例なんて通用しない。力のある者が権力を握り、いつ死人が出ても不思議はない様な場所である。実際、行き交う人間はジャンキー特有の目付きをしていたり、常に凶器を身に付けていたり、何処か危なっかしく、それでいて虚勢を張っているだけの挙動の不審さが目立つ。死と隣り合わせの生活に疲弊している様が見て取れる。そんな場所に危険を顧みず、僕がこうして足を運べるのには理由がある。いつしかこの地下通路の住人と化したある青年が居るからだ。その青年は、何故かこの一帯では脅威と恐れられており、誰も逆らおうとはしない。僕は虎の威を借る狐、という訳だ。

 階段を下り、割れた硝子の代わりに段ボールを張って防寒対策のされたドアを潜ると、左右に広々とした通路が伸びている。何処からか電気は通っていて、天井の照明が辛うじて周囲を照らしている。コンビニ弁当やファーストフードのゴミが散乱する通路を右に少し歩く。出会った目の血走った体格の良い大男も、僕を前に背筋を曲げ、軽く頭を下げながら、すごすごと立ち去って行くのだ。

 やがて、かつてはカフェだったとされる小さな店舗跡地に辿り着いた。通路や他の跡地と違い、此処だけはその場所に相応しくない程に掃除が行き届いている。L字のカウンターテーブルに、整然と並べられた椅子がかつての面影を唯一表している。店舗の奥には正方形のテーブルが隙間なく並べられ、薄汚れた厚手の布が敷かれ、簡素なベッドの役割を果たしていた。其処に青年は壁に凭れ、膝を立て、頭(こうべ)を垂れた姿で踞っていた。

「川崎」

 僕の呼び掛けに、青年は微動だにしない。眠っているのだろうか、辛うじて肩が呼吸に応じて動いているのだけは遠目にも確認出来た。

「川崎、仕事だ」

「聞こえてる」

 声のボリュームを上げ、再び声を掛けると、今度は間髪入れずに返事があった。酒焼けでもしたかの様な、低く掠れた声には、何気無い一言にも威圧感がある。聞いているだけで物怖じしてしまいそうな程だ。

 青年はゆっくりと膝に当てていた額を離し、顔を上げた。長い睫毛で縁取られた灰色の瞳に、薄く血色の悪い唇、整った細い眉と、モデルでもやっていそうな化粧映えする程の中性的な顔立ちである。青みがかったミディアムショートの黒髪で、鼻先を越す長い前髪から覗く力強い眼光は、見る者を圧巻させる凄まじさを秘めている。細身のVネックシャツとパンツは黒で統一され、彼の内から滲み出される禍々しい不穏なオーラを引き立たせている。

 青年の名は川崎。下の名は知らないが、それでも不憫はない。

 僕は鞄から先程ウィリアム章大から受け取った書類を、川崎に手渡した。それを手に取ると、彼は顔色ひとつ変えずに黙読し始めた。

 僕は川崎の無表情しか見た事がない。何にも動じない冷静沈着な性分とでもいうのだろうか。表現力に乏しいというよりは、感情そのものを持ち合わせていないのだろうかとさえ思わせる。過去に何か苦労したり、苦境に立たされ、辛苦を味わったのであろう事は、その様子から窺えるが、直接問い質した事はない。何せ業務以外の話をした事がないのだ。人付き合いが好きではなく、干渉される事を好しとしないのは、その雰囲気からも感じ取れる。

「愚問かと思うが、この案件、請けても良いか?」

 僕はスーツの胸ポケットに挿してあるボールペンを抜き取りながら訊ねた。敢えて「愚問」と前置きしたのは、川崎が依頼を断った事が一度もないからである。彼は書類に視線を落としたまま、小さく、しかし確実に頷いて見せた。その目には、既に任務達成にかける強い意志が感じられる。流石(さすが)は任務達成率100%を誇る、当社随一の逸材だ。的確で俊敏に、そつなく任務をこなす。あらゆるイレギュラーにも臨機応変に対応出来る柔軟性、冷静な判断力と分析力、並外れた身体能力を持ち合わせ、主に最重要任務を任されるのが川崎である。

 川崎は立ち上がり、此方へと近付いて来た。僕がボールペンを渡すと、請負人の承諾書をカウンターテーブルに置き、サインをしてからそれを僕に返した。そして、椅子の背凭れに掛けてあったグレーのジャケットを羽織ると、高らかに靴音を鳴らし、外へと向かう。線の細い体躯からみなぎる異様な雰囲気に、またも任務達成の期待と後ろめたさが込み上げ、僕は顔をしかめた。

 青年の名は川崎。今や世界を脅かすアサシンである。


 近未来は世界的な不況と治安の悪化により、貧富の差はより激しく、失業者や犯罪率は増加傾向。様々な国や地域、場所が秩序のない無法地帯と化した。

 生きる為には金が居る。失業者や低所得者の中には、犯罪に手を染める者が後を絶たず、彼等を手玉に取り、金や物資を交換条件に犯罪を誘発する富豪も少なくなかった。

 「アサシン」はそんな現状から生まれたとされる。依頼を請け、ターゲットを殺害し、報酬を得る。業務内容は他言無用。請け負ったアサシンもターゲットが何故命を狙われるのかが判らないのだから、当人は尚の事、何も知らぬ間に殺されるのだ。

 ウィリアム章大が代表を務める「(有)MEDIATION」は、表向きは一般的な経営委託業務となっているが、実際はアサシンへの依頼を請け負う仲介業である。依頼は彼の元へとやって来て、その内容に応じて適切なアサシンへと引き継がれる。実は彼、直々にアサシンの育成も行っている裏ではかなり名の知れた凄腕なのだそうだ。

 川崎に任される依頼は、僕を通じてやって来る。アサシンの中には、仲介者との間に僕の様な代理人を挟んで任務を請け負う者も居て、必要最低限の他者との接触を避けるパターンもある。

 僕がアサシンの代理人を始めたのは3ヶ月前の事。交通事故に遭い、暫く入院していたお蔭で勤めていた会社から首を切られ、貯金も底を尽き掛けていた頃だ。就職先を求めて躍起になっていた僕に手を差し伸べて来たのがウィリアム章大だった。アサシンの代理人としての業務。間接的にも人殺しの手助けをするという内容に、当初は新手の詐欺かと疑った。或(ある)いはアサシンという存在に腰が引けて、怖じ気付いた。しかし、川崎が任務を達成すれば報酬の10%が支払われる。10%といっても、莫大な額だ。書類を受け取り、川崎に渡し、任務を終えたら事後報告書を提出して終わる何とも単純な流れで、その莫大な報酬が手に入る。恐ろしくも後ろめたさもあったが、僕は酷く悩んだ末、ウィリアム章大の手を掴んだのである。


 一週間後の新聞に、見覚えのある名前を見つけた。小さく取り上げられた記事には、30代の女性が自宅のベランダから転落死したと書かれている。以前、川崎が請けた依頼のターゲットだ。

「『事件性はなく、警察は自殺と見て捜査を進めている。』…か」

 川崎らしい、と僕は思った。加害者が居るという見解をさせず、自殺か事故に見せ掛け、任務をこなすのは川崎の得意な手口だ。一体、どんな手を回せばそんなに上手く事が進むのかは判然としないが、アサシンの中でも群を抜いて手際が良いとウィリアム章大が絶賛していた。

「お高くとまったあの浮気性の政治家も、さぞ安心してるだろうな」

 僕はテレビで見た事のあるクライアントの顔を思い浮かべながら、温(ぬる)くなった珈琲を喉に流し込んだ。

 これは近未来の話。全てが闇に覆われたアサシンが潜む世界。次の依頼が、貴方の殺害ではない様、日々の行いにご注意を。

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