第八話_恋の奪還作戦
「ひぃぃぃぃ!」
数分前、タコ殴りにされて意識のシャッターを下ろしていたシンジだったが、再起動した瞬間に目に飛び込んできた光景に、本日何度目かの悲鳴を上げた。
近い。
松乃信の顔が、物理的な限界を超えて近い。
「あんら?起きちゃったのねん…。今ちょうど、アタシの愛情たっぷりな人工呼吸をかましてあげようと思ってたところなのにん♪」
ニタリと笑う松乃信の口元からは、獲物を狙う獣のような吐息が漏れている。
「テ、テメェ何者だぁ!?そんな化け物みてェなツラして、」
「あぁん…?」
言いかけたシンジの喉元に、氷のような冷徹な一言が突き刺さった。
松乃信の眼光が、一瞬で「女」から「修羅」へと変貌する。
「…すいません。許してください。」
シンジは即座に畳へ額を擦り付けた。
流石はチンピラ、弱肉強食の理を理解するのが異常に早い。
今の一睨みで、目の前の怪物が自分より何階級も上の「食物連鎖の頂点」にいることを悟ったのだ。
「おほっ!おほほほ!分かればいいのよボウヤ♪」
鼓膜を震わせる不快な笑い声を上げ、松乃信は艶かしく腰をくねらせた。
「自己紹介がまだだったわね。アタシは松乃信。この江戸の火消し隊『め組』を束ねる、美しきクイーンよん♪」
添えられたウインクが、シンジの三半規管にダイレクトなダメージを与える。
シンジは逆流しそうになる胃液を、不退転の決意で飲み込んだ。
「川をどんぶらこ流れてた死体一歩手前のボウヤを、アタシ等が拾ってあげたのよ?」
せっかく保っていたソーシャルディスタンスを無視し、松乃信が再び距離を詰める。
「ま、松乃信の旦那!それ以上近寄らねぇでくだせェ!網膜が焼けるッス!」
迫り来る白粉の壁を前に、シンジの心はすっかり折れ、幼児のように怯えきっていた。
「あんら、『おまつ』でいいのよん?」
松乃信が、辛うじてシンジの「嘔吐射程圏内」のギリギリ手前で静止した。
「おまつの旦那…、助けてくれたのは感謝しやす!ですが、ワシにぁやる事があるんで、そろそろお暇させてもらってよろしいでございやすか?」
その瞬間、シンジの視界から畳が消えた。
「ぶぎゃぁっ!!」
口と鼻から、もはやトレードマークとなった鮮血を吹き出し、シンジは天井近くまでカチ上げられる。
「お・ま・つ、でいいって言ってんだろ!?『旦那』なんて野太い言葉をアタシに向けるんじゃねぇよ、ボウズ!」
松乃信の、地獄の底から響くようなドスの効いた怒声と共にシンジは床へ叩きつけられた。
癒えかけていた傷口から、景気よく血が噴き出す。
「ぎゃああああ!イテェ、全身がイテェよぉぉ!!」
悶絶するシンジを冷ややかに見下ろしながら、松乃信は「あら失礼」とばかりに拳を拭う。
「救ったからには、最後まで救ってあげるのがアタシの美学よ♪」
そう微笑む松乃信の笑顔は眩しかった。
太陽というよりは、爆発する火山のような禍々しい眩しさだった。
◇◆◇
「ほぅ…、それで? そのアニキさんは、今頃どうなってるのよ?」
しばらくして意識を取り戻したシンジは、「め組」の組員たちに事の一部始終を語っていた。
「アニキは…、アニキはワシの仇を取るために一人で奉行所へ殴り込みに…。」
シンジが涙ながらに語ると、なぜか「め組」一同の目に異様な光が宿った。
「ボウズ!そのアニキさんは、たった一人であの奉行所に特攻したってのか!?」
「ヘイ…。止める間もなかったッス…。」
組員の問いにシンジが答えた瞬間、広間の空気が沸騰した。
「イカす…!イカすぜ、その男ぉぉ!!」
「狂ってやがる! 最高の江戸っ子(?)じゃねぇか!!」
普通の人間が聞けば「ただの無謀なバカ」と一蹴する話だが、火事と喧嘩に命を懸ける「め組」の連中にとって、ユウジの暴挙は「究極のロマン」として受け入れられたらしい。
残念ながら、ここには常識人は一人もいなかった。
シンジが呆然と周囲を見回していると、中央に鎮座する松乃信に異変が起きていた。
「…んぐっ、んんっ…!」
小刻みに巨躯を震わせ、松乃信が下を向いて号泣していたのである。
「惚れたぁぁ!アタシ、その熱い漢に惚れたわぁ!!」
松乃信の恋のゴングが鳴り響いた。
顔を上げたそのツラは、涙と鼻水で白粉がドロドロに溶け出し、もはやシュールレアリスムの絵画のごとき惨状である。
「お前たち!武器をお持ちぃ!!」
松乃信の咆哮に、組員たちが弾かれたように四散する。
そして数分後、彼らが手にしていたのは、火消し道具ですらない、殺意に満ちた「生活用品」の数々だった。
「頭ぁ!!準備できやした!!」
錆びた鎌、巨大な漬物石、果ては重すぎる鉄鍋まで、多彩な凶器が並ぶ。
「『め組』、恋の奪還作戦、出撃じゃい!!」
松乃信の図太い号令が夜空を突き抜ける。
「ボウズ!アニキ救出へGOだぜぇ!!」
組員の一人に肩を叩かれ、シンジの瞳にも希望の灯が宿った。
「おまつさん…、そして『め組』の旦那たち…。」
シンジは溢れる涙を袖で拭い、立ち上がる。
「町奉行の首、この『め組』がもらったぁぁぁ!」
江戸の治安を預かる奉行所に対し、ただの火消し隊が宣戦布告。
こうして「め組」による奉行所進攻が開始された。
そして…。
勢いよく奉行所の門を突き破った一行は全員仲良く捕まった。




