第十話_狂犬・猪助
「…こいつぁ面白ぇぜ。」
雪がしんしんと降り始めた冬の夜。
伊田陀鬼屋の二階、行灯の火が揺れる部屋で半蔵が不敵に笑った。
指先につままれているのは、奉行所から流出した人相書きの端切れだ。
「何が面白いんです?」
窓の外、白く染まりゆく江戸の町を眺めていた清十郎が、いつも通りの柔和な笑みで問い返す。
傍らでは凛が寒そうに肩をすくめ、暇つぶしに小刀の手入れをしていた。
「こいつだ。」
半蔵が弾いた紙切れは空中で舞い、凛の指先に収まった。
「ええと…『池平 猪助』。通称、狂犬。理由なき辻斬りを繰り返し、手にかけた数は四十を超える…。げっ、似顔絵からして正気じゃないわねこれ。」
「イカれた野郎にゃ、イカれた商売が似合うと思わねぇか?」
半蔵はそう言うと、ずっしりと重みのある巾着を机に放り出した。
二十両の金貨が鈍い音を立てる。
「清十郎、こいつを連れてこい。生かしたまま、伊田陀鬼屋の番犬に仕立て上げる。」
「わかりました。」
清十郎は迷いなく腰を上げ、笑顔のまま巾着を懐に収めた。
「私も行くわ。清君一人じゃ道草食いそうだもん。」
凛が冗談めかして続く。
「それは凛さんじゃないですか?」と言う清十郎の言葉は完全にスルーだ。
そんな二人を後ろで見送りながら、半蔵は徳利を傾けながら背中でつぶやく。
「殺すなよ。そいつの命は俺が使い潰す。」
◇◇◇
「う〜、寒いわね…。こんなに雪が積もるなんて聞いてないわよ。」
江戸の外れ、雑木林へと続く寂れた道。
凛は薄手の着物を必死に合わせて震えていた。
「帰ってもいいんですよ凛さん。僕一人でも交渉はできますから。」
「いいのよ。この後のおしるこ代がかかってるんだから。」
「おしるこ代?」と言う清十郎の言葉を軽くいなしてイタズラっぽい笑顔を向けた凛だったが、少し進んだところで表情を変えた。
先ほどまでとはうって変わり、透き通った冷たい瞳で周辺を警戒する。
奉行所ですら匙を投げた「狂犬」のテリトリー。
空気には、雪の匂いに混じって、わずかに鉄錆のような血の香りが混じっていた。
その時、前方の闇から「ギギッ……」と、竹が軋むような異音が聞こえてきた。
編み笠を深く被った、異様に細長い男が立っている。
男の腰には二振りの打刀。
そして、その口には三日月のように湾曲した大鎌が咥えられていた。
「女ぁ…その美味そうな喉笛、俺の『牙』で剥いてやろうかぁ?」
編み笠の奥から、充血した瞳がギラリと光る。
猪助だ。
「三本刀って聞いたけど一本は鎌じゃない。趣味が悪いわね。」
凛が嫌悪感を露わにすると、猪助は首を異様な角度に捻り、咥えた鎌の刃を月光に反射させた。
「こんにちは猪助さん。貴方を迎えに来ました。僕たちと一緒に来ませんか?」
清十郎がいつもの調子で一歩踏み出す。
「小僧ぉ!お前の内臓を雪の上にぶちまけて、綺麗な花を咲かせてやるよぉ!」
交渉決裂。
猪助の体が、雪の上を滑るように加速した。
二本の刀が左右から清十郎を挟み撃ちにし、同時に首を鋭く振って口の鎌で喉元を刈り取る三点同時攻撃。
「きょおぉぉ!」
激しい金属音が響く。
清十郎は抜刀せず、鞘のまま二本の刀を受け流し、首をわずか数センチ後ろに引いて鎌の切っ先をかわした。
「いきなり危ないじゃないですか。」
「なんで死んでないんだぁぁ!?」
猪助の攻撃は止まらない。
狂ったように首を振り回し、口の鎌で円を描くような斬撃を繰り出す。
それはまるで、巨大な顎を持つ獣のようだった。
「アンタの動き、無駄が多いのよ。」
凛が横から割り込み、懐の小刀で猪助の側頭部を狙う。
猪助は即座に右手の刀でそれを受け止めると、左手の刀で凛の足を薙ぎ払いに来た。
「死ねぇ!泣けぇ!絶望の顔を見せろぉぉぉ!!」
猪助の剣筋は、技術ではなく「殺意の質量」で押してくる。
雪を巻き上げ、二人の刺客を相手に殺陣を演じるその姿はまさに狂犬そのものである。
「ここに二十両あります。これで手を打ちませんか?」
攻撃を避けながら巾着を見せる清十郎。
だが、猪介は攻撃を止めない。
「殺す!殺して奪う!全部俺の芸術の材料だぁぁぁ!!」
よだれを撒き散らし、猪助は完全に我を忘れて突っ込んでくる。
「…言っても無駄、ですか。」
清十郎の目が、初めて温度を失った。
雪が猪助の姿を一瞬隠した刹那、清十郎の指が鯉口を切る。
だが、彼が踏み込むより早く、猪助の背後にピンク色の残像が舞った。
「――おやすみなさい、おバカなワンちゃん。」
凛だった。
猪助が鎌を振り回す一瞬の死角。
彼女は雪を蹴り、猪助の懐へ潜り込んでいた。
小刀の柄を逆手に持ち、猪助の延髄へ向けて振り抜く。
ドゴッ!と鈍い衝撃音と共に、猪助の口から鎌が零れ落ち、雪の中に突き刺さった。
白目を剥いた狂犬が、糸の切れた人形のように地面に沈む。
「清君、殺しちゃダメだって言われたでしょ?」
「いやだな凛さん。ちゃんと峰打ちにするつもりでしたよ。」
おしるこの話をしていた時のようなイタズラっぽい笑顔で言う凛に対し、清十郎は苦笑いしながら刀を収めた。
「私…、コイツを仲間になんかしたくないんだけど…。」
雪に顔を埋めた猪助を見下ろし、凛が吐き捨てる。
「人の話も聞けない残念な方ですからね。でも半蔵さんに会わせるだけ会わせてみましょう。」
泥のように眠る狂犬を担ぎ上げる清十郎。
少し重そうだが、凛は猪介に触りたくもないのか手伝うそぶりは見せない。
代わりに、傍に転がった三本の武器に足で雪を被せていく。
「これは後で石田さんに言って回収してもらうわ。コイツが咥えてたモノなんて触りたくもないし。」
白い息を吐きながら「にしても」と続ける。
「その汚いのを担いだまま、おしるこを食べに行くのは…無理そうね。」
そう言って小さく溜息をつく凛。
本当に残念そうな彼女を見て、清十郎は続けた。
「思ったよりも早くカタがつきましたから、猪助さんを届けたら食べに行きましょう。」
「賛成♪」
弾けるような笑顔でそう言う凛に、清十郎も笑い返す。
しんしんと積もる雪が、まるで何事もなかったかのように先ほどの戦いの痕跡を塗りつぶしていく。
その夜から、江戸を恐怖に陥れた狂犬の噂を聞くことはなくなった。
◆◆◆
「で、半蔵さんに会わせたんですが。やっぱり暴れて手がつけられず…今はこうして、地下牢に閉じ込めているわけです。」
松明の火が細く燃える地下廊下。
突き当たりの、一段と頑強な鉄格子をはめ込んだ牢の前で、清十郎の話は終わった。
「なるほどねぇ♪それが、この『狂犬』ってわけね…。」
暗い牢屋の奥。
両手足を太い鎖で繋がれ、それでもなお壁を噛み砕かんばかりの殺気を放つ男が、ゆっくりと顔を上げた。
濁った瞳の奥には、まだあの雪夜の狂気が煮え滾っている。




