第十話_皆殺しの清十郎(2)
「清十郎の帰りが遅いですね…。」
石田は襖を隔て、奥に潜む半蔵へ静かに語りかけた。
夕焼けが障子をどろりと赤く染め、その隙間から漏れた朱色の光が石田の横顔を照らしている。
「心配か?」
襖の向こうから、愉悦を含んだ低い声が返ってきた。
「いやまさか…しかし、義彦や義吉のこともあります。万が一ということも…。」
「安心しろ。あの清十郎が遅れを取るはずがねぇ。」
「し、しかし…!」
思わず声を荒らげた石田を、半蔵の言葉が遮る。
「奴は生まれながらの『殺しの天才』。この俺ですら、あいつと戦えば無傷では済まねぇよ…。」
襖の向こうから、喉を鳴らすような笑い声が漏れる。
石田は言葉を失った。
あの狂気の塊である半蔵にそこまで言わせる少年、清十郎。
「もし、ユウジがあの居合いを見切れるとしたら…それは最高に面白い見世物になるぜ。」
風が吹き抜け、茜色の障子がカタカタと不気味な音を立てた。
◇◇◇
川辺の砂がジャリ、と微かな音を立てる。
そして一瞬、ユウジの首筋を柔らかな風が吹き抜けた。
「あぁん?」
間抜けな声を漏らす。
ユウジの首筋に届くか届かないかのところで清十郎の刀が止まっていた。
いや、止められていた。
彼の後方からいつの間にか伸びていた松乃信の指先が清十郎の斬撃を止めたのだ。
「!?」
驚愕し目を見開く清十郎に対して、ユウジは一切表情を変えていない。
先ほど同様に腕を組んだ状態のまま不敵な笑みを浮かべている。
今まさに胴と首が永遠の別れをするところだったことも、それを松乃信の超身体能力で阻止してくれたことも、本人は一切気付いていないのだ。
(止められ!?いや、それよりもこの男…こうなることを知っていた!?)
そんな清十郎の心を鷲掴みにするように、ユウジがニヤリと口角を上げる。
本能的に刀を離して半歩後方へ跳びのく清十郎。
「ダメじゃない清ちゃん♪急にユウジさんにオイタしようだなんて。」
ユウジの後方からぬるりと、流れるような動きで清十郎の前に姿を表す松乃信。
恐ろしい握力で切先を掴んでいた刀を彼に放って渡す。
(なんだこの二人は…。)
刀を受け取りながら、彼は目の前の恐るべき怪物二人から目が離せないでいた。
実際の怪物は(見た目の意味でも)一人だけで、もう一人はただのバカなのだが、あまりの衝撃で冷静に判断できない。
「なんやボウズ。ワイに用があるんちゃうんか?ん?」
(コイツ…今まさに殺そうとした相手にこの余裕?いや、こちらの攻撃なんて『なかった』のと同じということか?)
深読みが過ぎる。
「フフ…凄いですねユウジさん、おまつさん。」
自然と笑いが溢れた。
長くこの仕事をしているが、これほど自分が小さく感じたのは初めてだ。
「ユウジさんとやりたいなら、まずはアタシを倒さなきゃダメよ?」
いつもの嬌声ではない、落ち着いた低い声が松乃信の唇から零れる。
その瞳は、悲しげに清十郎を見つめていた。
「僕は、女の人には手を出さない主義なんですが…。」
清十郎はそう答えると、吸い込まれるような動作で刀を鞘へと納めた。
松乃信を「女」とカウントすべきかは極めて微妙な問題だが、それは清十郎なりの敬意だった。
「でも…僕の邪魔をするのなら、次は止めませんよ?」
清十郎の瞳から光が消え、松乃信同様、深い哀しみが漂う。
「ウフ♪ 今の、止めてくれたのね?」
清十郎を睨みつけるその顔は、もはや乙女ではなく一人の「修羅」であった。
白粉の下にある素顔は、驚くほど端整で凛々しい。
「…今日は本当に楽しかったです。でも、おまつさんとはこれでお別れですね。」
一瞬だけ微笑み、清十郎は右手を鯉口にかけた。
松乃信は彼から軽く目を離し、背後のユウジに微笑む。
「ユウジさんはこれでもお食べになりながら、その辺で見ていてくださいな。」
その顔は、いつもと違って少しもキモくなく優しさに満ちている。
残った焼き鳥の袋を受け取り、「おぅ気が効くやんけ?」と何の危機感も感じず遠ざかるユウジ。
ここまでくると、流石としか言えない。
「おまつさん、敵から目を離すなんて自殺行為ですよ?」
「おほ♪ そんな野暮、しないの知ってるわよ。」
再び清十郎へ顔を向けた松乃信は大きく腕を広げる。
その姿は神々しささえ感じられた。
「さあ、かかってきなさい。心に迷いがあっては、アタシは斬れないわよ?」
「強い…ですね…。」
清十郎が静かに笑った。
「女ってのはね、惚れた男の為ならどこまででも強くなれるのよ。」
格好いい台詞だが、松乃信は男である。
そしてその強さは、惚れた腫れたの次元をとうに超えていた。
「…その想い、僕が打ち砕いてみせます。」
構え直した清十郎の目は、先ほどよりも鋭く、そして澄んでいた。
何かが吹っ切れた、真の剣客の目だ。
「そう簡単にいくかしら?」
茜色の空が闇に溶け始め、沈みゆく太陽の残光が橋の下の二人を冷たく照らし出す。




