第十四話_誘惑殺の結末(Side-B)
「おほ!! 今日はやけに下々の者が多いわねん?」
———数時間前。
江戸火消し『め組』の休暇。
本田松乃信は、その巨体を揺らして町へと繰り出していた。
いかなる時もレディの嗜みを忘れない彼は、今日も紫色のド派手な着物をはち切れんばかりに着こなし、頭には金の簪、そして顔面には地割れしそうなほど白粉をぶちまけている。
すれ違う町人たちが、例外なく「ヒッ」と短い悲鳴を上げて道を開ける。
それを松乃信は「アタシの美貌への感嘆」とポジティブに変換し、ご機嫌な様子で闊歩していた。
「あんら?チョー可愛いわね、コレ?」
ファンシーショップの出店で、松乃信の熊のような豪腕が小さなぬいぐるみを摘み上げた。
店員は、目の前に現れた「白粉の壁」に、すでに失神寸前である。
「ねぇ店員さん? アタシにこれ、似合うと思わな~い?」
松乃信は、ブッチブチに白粉がこびりついた頬にクマのぬいぐるみを擦り付け、極太の血管が浮き出た瞼でウインクを放った。
「は……はい。もう、この世のものとは思えません(地獄の化け物だ!)」
店員は込み上げてくる胃酸を必死に飲み込み、正直な(しかし絶望的な)感想を絞り出す。
「おほ!おほほほ!口が上手いわねん♪照れるじゃない♪」
松乃信は上機嫌で金を置き、クマを帯に突き刺して去っていった。
…その後、店員が公衆便所に駆け込み、「二度と白粉は見たかねぇ」と号泣しながら胃袋が空になるまで吐き続けたのは言うまでもない。
◇◇◇
「アタシみたいな絶世の美女には、クマちゃんも映えるわねぇ♪」
鼻歌を歌いながら徘徊を続ける松乃信の足元に、何やら黒い塊が落ちていた。
「あら、財布じゃない。誰か落としたのかしらん?」
拾い上げてみれば、それは中身がパンパンに詰まった財布だった。
…そう、ユウジが紛失した「凛から奪った財布」である。
「しかたないわねん♪後で奉行所に届けてあげましょう。」
財布をクマの隣にねじ込んだその時。
松乃信の「乙女レーダー」が激しく反応した。
大衆食堂ののれん越しに見える、汚らしく鮭を食らう男の背中。
「…ユ、ユウジ様!?」
松乃信のフィルターを通すと、そのボロを纏った不審者の周りには、バラの花と後光がキラキラと降り注いでいた。
「シンちゃんがいないみたいだけど…いいわ♪今こそ、アタシの圧倒的ヒロイン力をアピールする絶好のチャンスよん!」
松乃信が「ニヤリ(自称:可憐な微笑み)」と笑い、店へ一歩踏み出そうとした。
…が、その瞬間、一人の女が松乃信の横をすり抜け、風のように店へと入っていった。
赤と白の派手な着物に、眩いばかりの美貌。
のれんをくぐった松乃信が見たのは、江戸中の男たちがその美しさに目を奪われている光景だった。
…そしてその泥棒猫が、松乃信のダーリンであるユウジに潤んだ瞳でこう囁いたのである。
『一目見た時から惚れてしまったの……。私とこれから、いい事しない?』
…カチリ。
松乃信の中で、何かが物理的に外れる。
瞬間、店内から松乃信の姿が消滅した。
背を屈め、獲物を狙う猛獣のごとき姿勢から繰り出された超速の踏み込み。
鍛え抜かれた丸太のような右腕が、凛の細い首根っこを鷲掴みにする。
この間、わずか0.2秒。
ユウジも、店主も、客の誰も、松乃信が「そこを通過した」ことすら認識できなかった。
松乃信は凛を掴んだまま、最短距離で店外へ脱出するために「店の壁を体当たりで粉砕」。
そのまま一秒足らずで人気のない路地裏へと到達し、不要なゴミを捨てるように凛を地面へ叩きつけた。
「あれ…?」
意識が混濁する中、凛が震える声で目の前の存在を見上げた。
「あんら?起きたようね?」
松乃信は、地獄の窯の蓋が開いたような不気味な笑みを浮かべていた。
白粉がボロボロと剥がれ落ち、その下から真紫の血管が怒張して脈打っている。
「か…怪物!?」
「おほ!おほほほ!失礼なガキねん?」
その一言が導火線となった。
「アタシのユウジ様に色目を使った罪、その汚い顔ごとクチャクチャに揉みしだいて消去してあげるわよぉぉぉん!」
かくして、凛の悲鳴は江戸の闇へと消えたのであった。




