第十一話_誘惑殺の凛(1)
「いったぁ~…。」
腰を押さえて倒れたのは、紫と白の着物を鮮やかに着こなした美女。
上を見上げた彼女の視界には誰もいない。
不思議に思って倒れた自分と同じ高さまで視線を下げると、そこには虫の息になっている大男がいた。
「…え?」
予想外のことで一瞬戸惑った女性だったが、相手が自分よりもダメージを負ってしまったことを理解して我にかえる。
着物に着いた砂をサッと払うと、肩で息をしながら起き上がれていない男に近寄る。
「あの…大丈夫ですか?」
覗き込むと、男の血走った目が勢いよく開かれた。
「このクソカスがぁ!前見て歩かんかぃ!!」
唾を飛ばして逆上する男。
「なっ、何よ!アンタだって前見てなかったじゃない!」
被害者の女性も負けてはいない。
十七、八歳ほどの、キリッとした大人の美しさを漂わせた娘だ。
「あんだとテメェ?ペタペタにされっぞ!?」
「ぺ、ペタペタ?意味分かんないわよ!」
ユウジがのそのそとは立ち上がり、二人は大通りの通行人が物珍しそうに見守る中で睨み合った。
「こっちは着物だって汚れちゃったのよ?お気に入りだったのに、どうしてくれるのよ!?」
ユウジを睨み付ける女性。
…だが、そこで彼女の声が止まった。
「って…アナタ!?」
(ユウジ…!?)
似顔絵を思い出す女性――伊田陀鬼屋の途崎凛。
「なんや?ワイの顔に何かついとるんかい?!」
驚きで固まった凛に、ユウジがさらにキツイ睨みで近づいて行く。
瞬間、凛は咄嗟に両手の裾を上げて顔を隠した。
「あはっ、あはは!ごめんなさい!私が悪かったわ!」
袖に隠れたまま、いきなり態度を豹変させる凛。
あからさまに怪しいが、ユウジさんが気にするはずもない。
謝られて気分を良くしたのか、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ほぅ…、意外と物分かりがええようやな?本来なら慰謝料を請求するところやが、今回は許してやってもええで?」
偉そうに笑うユウジ。
その豹変ぶりも大概である。
言い返したい所だが、これ以上事を荒立てたくない凛が黙っていると、ユウジがさらに続ける。
「ホレ、死ぬほど優しいユウジさんに『ありがとうございます』はどうしたんや?ん?」
あまりの理不尽さに、顔を隠した凛が引き攣った笑い声を上げる。
「はは…ははは…。」
「ん?なんや恥ずかしいんか?『ユウジさん許して下さってありがとうございます』じゃねぇのか?」
見下した笑みのユウジさん。
常人ならプッツンきている所だが、凛は必死で耐えた。
「あ、ありが…とうございました…。」
怒りで震える声を絞り出す凛。
「くるしゅうないっ!くるしゅうない!ワイはのぉ、びっっくりするくらい心が広いからのぉ!!」
ガハハハと大爆笑するユウジの横で、凛の怒りは沸点に達していた。
「これに懲りたら、もう悪さすんじゃねぇぞ女? あ~はっはっはっはっは!」
ユウジは凛の頭をポンと叩き、鼻高々と去っていった。
「…。」
ユウジが去っても凛はしばらく動かなかった、いやあまりの怒りに動けなかったのだ。
袖の下で肩を小刻みに震わせ、ようやく顔を上げた時には、般若のような笑顔を浮かべている。
「ユウジ…殺してやるわ…!」
懐の似顔絵を強引に破り捨て、憎しみを込めて呟く。
◇◇◇
「さて…どうやってユウジに近づこうかしら…。」
着物を黄色と白の物に着替え、凛はユウジの後をつけていた。
ユウジは相変わらず子供を見つけては逃げられ、悔しがっている。
「次に見つけたガキは、後ろから忍び寄ってぶっ殺してやんよぉぉ!!!」
物騒な独り言を吐くユウジ。
凛には彼が何をしたいのかさっぱりだが、とりあえず行動に出た。
「スタンダードにいってみますか♪」
河原の近くで先回りした凛が、ユウジの目の前で鮮やかに転んでみせる。
「キャッ!」
「!?」
足は止めたが、心配の色は微塵もない。
「あっ、あの!! 足を捻っちゃったみたいで……」
瞳を潤ませる凛。
この美貌でそんな目で見つめられれば、並の男ならイチコロなのだが…。
「チッ!何もないところで転げるとは。これだから学のない貧民は好かん。退けぃ!ユウジ様の通り道やっ!!」
こともあろうか、ユウジはそんな凛を足蹴にすると、何事もなかったように通り過ぎていった。
助ける気ゼロ、というか人としての常識を疑う行為。
「な、なんなのアイツ…。」
ユウジの予想外の行動に怒りを通り越して驚いている。
事前情報では奉行所から派遣され、義吉を実力で退けたうでに、義彦を知略で罠に嵌めた凄腕…。
これまでの行動を見るからにその片鱗は皆無である。




