第十一話_百獣の王
「ヒィィィ!」
江戸の街角。
道をゆく若者は、その「顔」を見た瞬間に脱兎のごとく全速力で逃げ出した。
その表情が、この世の終わりを目撃したかのような恐怖に満ちていたのは言うまでもない。
「あんら? 失礼なガキだことん♪」
本田松乃信、三十八歳。
め組を束ねるクイーンである。
「次に会ったら調教してあげなきゃね。おほっ!」
不快指数MAXの笑い声を上げると、松乃信はふと心ここにあらずといった体で秋の空を見上げた。
いつもなら逃げる若者の襟首を掴んで八つ裂きにする彼女(?)が、次回予告で済ませるほどの「上の空」っぷりである。
「頭ぁ…、どうしちゃったんスか?さっきから溜息ばかり吐いて。」
「もしかして、あのシンジってボウズの事、心配なんですかい?」
組員たちが声を掛けるが、松乃信は優雅に首を振った。
「シンジ…、誰だっけそれ?アタシが今、魂を削って悩んでるのは、今日の献立だけよん。」
深く溜息を吐き、彼女は続ける。
「カツ丼にしようかしら…それとも、うな丼にしようかしらん。ああっ、究極の選択だわっ!」
「頭…、誰それって…。」
組員たちは唖然とするしかなかった。
◇◇◇
「あううう…、イテェよぉぉぉ。」
地下牢では、牢番の「教育(タコ殴り)」によって意識を飛ばしていたシンジとユウジが、ようやく現世へと戻って来ようとしていた。
まず起き上がったのは、やはり打たれ強いシンジだ。
例のごとく見てくれだけは立派なユウジは、一発で白目を剥いてピクリとも動かない。
「アニキ…大丈夫でしたかい!?」
シンジがユウジを抱き起こしたとき、彼は気づいた。
ユウジの瞳に、大粒の涙が溜まっていることに。
「アニキ…?」
不思議そうに問いかけるシンジに、ユウジは鼻をすすりながら叫んだ。
「シンジ!さっきはテンパっちまって、お前を霊だと勘違いしたワシを許してくれぃ…!生きとったんやなシンジ…。」
「ア、アニキィィィィィ!!」
二人は鉄格子の前で固く抱き合い号泣した。
まさに、地獄の底で咲いた泥まみれの「感動の再会」である。
男たちの咆哮は、十数分にわたって地下牢に虚しく響き渡った。
◇◇◇
「フヘヘ…、シンジ。お前もなかなかの悪よのぉ?」
数分後、二人は牢の隅で肩を寄せ合い、ヒソヒソと怪しい相談を始めていた。
「アニキにぁ一生勝てませんぜぇ!」
ニタニタと笑い、時折爆笑を炸裂させる二人。
あまりに騒がしいので牢番が飛んできたが、「ただ笑っているだけ」という無害かつ不気味な光景に、軽く注意して立ち去るしかなかった。
「いいかシンジ。ここがどこか、お前のその子ウサギ並にちぃ~ちゃな脳みそで考えてみるんや。」
ユウジが、ひび割れた地面を指差す。
「地下牢ッス、アニキ!」
「おぅおぅ、お利口さんじゃのう!んじゃ、この地下牢の上には、一体何があるんじゃ?」
「ユートピアッス!ワシ等の夢の国があるッス!!」
「そうだシンジ!自由の都、憧れの街・ニューヨークや!!」
正確には、この上は奉行所の執務室だ。
「つまりじゃシンジ。この天井をブチ抜いていけば、脱走可能ってわけじゃい!!」
自信満々に豪語するユウジに、シンジは瞳をキラキラと輝かせた。
「もう辛抱たまんねぇッス!でもアニキ、どうやってこの岩みたいな天井を掘るんスか!?」
シンジの脳が、奇跡的に一瞬だけ論理的な思考を働かせた。
問いを聞いたユウジは、おもむろに節くれ立った両手を突き出した。
「素手じゃい!ワイ等の拳は、ダイヤモンドをも砕く最強の重機じゃい!!」
「間違いねぇ!ワシ等の拳はハンパねぇ最強じゃあ!!」
シンジのIQは、再びゼロへと収束した。
「よぉし、作戦開始だ!オレを肩車しろシンジ!ぶち抜くぞ!!」
「でもアニキ、ワシの方が軽いからワシが上になった方が効率いいんじゃねぇスか?」
もっともな正論。
だが次の瞬間、シンジの視界は天井に向かって飛んだ。
「ぶべらっ!」
鼻と口から鮮血を吹き出し、地面にめり込むシンジ。
「愛じゃあ!愛の拳じゃい!!」
「な、なぜにWHY!?」
混乱し、不自然に英語を混ぜて問うシンジに、ユウジは熱く語りかけた。
「現実は厳しいんや!楽な方へ逃げる奴に自由を語る資格はねぇ!!」
「肩車の下は確かに厳しい。だがワイはあえて心を鬼にするんや!ライオンや、百獣の王ライオンになるんやぁ!!」
「アニキ…アニキこそが江戸のライオン、百獣の王じゃぁぁ!」
シンジは涙を流して感動した。
その背後で、再び見回りに来た牢番が「こいつら何を言ってんだ?」という顔で通り過ぎていく。
◇◇◇
「ア、アニキィ…。重いッス!足がガクガクするッス!!」
シンジは必死に踏ん張っていた。
一方、ユウジの方も、彼なりにフルパワーで天井を殴りつけていた。
「オラァ!自由じゃい!オラァ!!」
連呼しながら天井を拳で叩く。
天井が崩れる気配はないが、叩きすぎて土がカチカチに固まり、強度が上がっている気さえする。
「ア、アニキィィ!出口はまだッスか!?」
「あと五発や!ワイの鉄拳五発で間違いなくユートピアが顔を出すぜぇ!!」
根拠ゼロの予言を信じ、シンジは空想に耽る。
「自由じゃあ!ワシぁ鳥になるんじゃ!鳥になって空から金をがっぽり拾うんじゃい!!」
「飛ぶでっ!?ワイ等はどこまでも飛んで自由になるんや!!」
「鳥になって金を稼ぐ」という、生物学的にも経済学的にも不可能な夢を膨らませる二人。
その時、またも牢の扉が「バンッ!」と開かれた。
「…何やってんだお前ら?」
肩車をしたままフリーズする二人を、牢番が氷のような眼差しで見上げる。
「な、何って、ただの健康のための肩車ッスよ旦那ぁ…。」
引きつった笑顔で答えるシンジ。
「そうや。ワイ等は、こうして二人羽織の練習をして遊んでるんじゃい!ナメたらあかんぜよ!」
「…で、その肩車で、天井に向かって何をやろうとしてたんだ?」
牢番が、手にした六角棒をゆっくりと回し始める。
「な…何言ってんスか!?悪い事なんてこれっぽっちも考えてねぇッスよ!」
額から滝のような汗を流すシンジ。
だが、隣の「ライオン」は違った。
「その通りよ愚民。ワイ等がこうして肩車をして、天井を素手でブチ抜いて脱出しようなんて、そんなクリエイティブな計画を考えてるわけねぇだろ!!」
ライオンは、相手を愚民呼ばわりした上で、計画の全てをこれ以上ないほど丁寧に白状した。
「ほれ、分かったらさっさと巣に帰らんかい、このヒヨコが!鶏糞のにおいが鼻につくんじゃボケェ!!」
なぜか勝ち誇った態度のユウジに、牢番の額の血管が「プチッ」という乾いた音を立てて弾け飛んだ。
そして…。
二人はそのまま「お白洲」へと引きずり出されていった。
お白洲:時代劇でお馴染みの、罪人が裁きを受ける運命のステージ




