第9話 触れてはいけない理由
その日、私は初めて、賢者の研究室に足を踏み入れた。
扉の前に立った時、自然と呼吸が浅くなる。
――ここは、立ち入ってはいけない場所だ。
理由は分からない。
けれど、そう感じさせる空気があった。
「……入るか」
エドガーの声は、以前よりもはっきりしていた。
「はい」
返事をすると、彼は短く頷き、扉を開けた。
*
室内は、思ったよりも整理されていた。
古い書物。
魔法陣の描かれた羊皮紙。
そして、数え切れないほどの記録。
(……研究、というより)
(人生、全部)
そんな印象を受ける。
エドガーは、棚の一つから分厚い書を取り出した。
「……呪いについて」
低い声。
「……少し、話す」
――少し。
その言葉が、逆に重く響いた。
*
「……賢者は」
彼は、書物を開かずに言った。
「……長く、生きる」
当たり前の事実。
けれど、彼の口から語られると、意味が違う。
「……時間が、止まらない」
私は、黙って聞いていた。
「……人は、老いる」
「……死ぬ」
淡々とした言葉。
「……だから、関わらない方がいい」
その一言に、胸が痛んだ。
*
「……それでも」
彼は続ける。
「……触れた」
過去形。
「……誰かと、深く関わった」
私は、息を呑んだ。
「……結果」
言葉が、少しだけ詰まる。
「……失った」
それ以上は、語られなかった。
けれど、十分だった。
*
「……呪い、というより」
彼は、少し考えてから言った。
「……制約だ」
制約。
「……破ると、壊れる」
「……自分が?」
問いかけると、彼は一瞬、目を伏せた。
「……相手が」
その答えが、重く落ちた。
(……だから)
(触れない)
(離れる)
(……私を、守るつもりで)
*
私は、勇気を振り絞って聞いた。
「……では、なぜ」
声が、震える。
「なぜ、私には、触れていたのですか」
沈黙。
長い、長い沈黙。
彼は、しばらくしてから、低く言った。
「……知らなかった」
「……何を?」
「……自分が、欲しているものを」
その声は、驚くほど静かだった。
*
「……触れると」
彼は続ける。
「……落ち着いた」
「……何も、考えなくてよかった」
つまり。
私の手は、
呪いを忘れるための、逃げ道だった。
(……それでも)
胸が、締めつけられる。
*
「……だから」
彼は、はっきりと言った。
「……やめた」
「……君が、慣れたから」
イリスの言葉が、蘇る。
――慣れてしまった。
それは、優しさではなく、危険だった。
*
研究室を出る前、私は立ち止まった。
「……賢者様」
「……エドガーでいい」
その言葉に、息が止まる。
(……名前で、呼ばせた)
今まで、そんなことはなかった。
「……では、エドガー」
私は、まっすぐ彼を見た。
「触れることが、呪いに関わるのなら」
言葉を選ぶ。
「……心は、どうなのですか」
彼は、答えなかった。
答えられなかった。
*
その夜、彼は私を呼ばなかった。
でも、それはこの前のの「来ない」とは、違った。
(……理由を、知ってしまった)
触れない時間は、
もう、ただの空白ではない。
私は今日、
呪いが“愛”を禁じるものだという輪郭に、触れてしまった。
まだ、全ては分からない。
けれど。
触れない理由は、
もう、笑って流せるものではなかった。




