第8話 言葉にされてしまったもの
イリスが屋敷を訪れたのは、午後の遅い時間だった。
前回ほど改まった様子ではない。
馬車も小さく、護衛もいない。
――私用なのだと、すぐに分かった。
*
応接間に通すと、イリスは軽く微笑んだ。
「久しぶりね、リリアーナ」
「はい……」
あの時と同じ挨拶。
けれど、胸の奥の感覚は違っていた。
エドガーは、少し離れた位置に立っている。
――触れない。
その距離が、はっきりと意識される。
(……やっぱり)
イリスも、それに気づいたのだろう。
視線が、一瞬、二人の間を行き来した。
けれど、何も言わない。
*
紅茶を飲みながら、当たり障害のない会話が続く。
王都の近況。
王子の結婚準備。
形式的な言葉。
私は、相槌を打ちながら、どこか上の空だった。
ふいに、イリスが私を見た。
「……最近、眠れてる?」
唐突な質問。
私は、少しだけ間を置いて答えた。
「……はい」
嘘ではない。
ただ、深く眠れていないだけだ。
イリスは、それ以上追及しなかった。
*
エドガーが席を外したのは、ほんの数分だった。
その瞬間を、彼女は逃さなかった。
「……エドガー、触れなくなったでしょう」
静かな声。
断定だった。
私は、言葉を失った。
(気づいて、いた)
喉が、ひくりと鳴る。
「……はい」
ようやく、それだけ答える。
イリスは、カップを置いた。
「彼なりに、考えたのよ」
「……考えた?」
「ええ」
視線が、まっすぐ私を射抜く。
「あなたが“慣れてしまった”ことに」
その言葉が、胸に突き刺さった。
(……慣れて)
違う、と言いたかった。
でも、否定できなかった。
*
「エドガーはね」
イリスは、淡々と続ける。
「誰かに触れていないと、壊れる人だった」
過去形。
「でも同時に」
一拍、置いて。
「触れることで、相手を縛ってしまうことも、知ってる」
私は、息を呑んだ。
「だから今は、触れない」
静かな結論。
「あなたを、縛らないために」
(縛られて、いた……?)
その問いが、胸の奥で反響する。
*
「……でも」
私は、絞り出すように言った。
「私は、命令されて……」
「ええ」
イリスは、否定しなかった。
「最初はね」
そして、微かに笑った。
「でも、途中からは違ったでしょう」
その一言で、全てが終わった。
夜の静けさ。
離さない手。
安心してしまった自分。
(……あ)
逃げ場が、消えた。
*
イリスは、立ち上がった。
「あなたが悪いわけじゃない」
「……でも」
「選ばなかっただけ」
優しくも、残酷な言葉。
「まだ、ね」
扉の前で、振り返る。
「でも、気づいてしまった以上」
視線が、私を捉える。
「戻れないわ」
*
イリスが去った後、応接間には沈黙が残った。
戻ってきたエドガーは、何も聞かなかった。
ただ、私を見て、
「……大丈夫か」
その問いに、私は答えられなかった。
*
夜。
自室で、一人、手を見つめる。
もう、誰も握っていない手。
(慣れてしまった)
(触れられることに)
(……心まで)
私は今日、
誰にも言われずに済ませていた感情を、言葉にされてしまった。
それは、責めでも、否定でもない。
ただの、事実。
だからこそ。
こんなにも、痛い。




