第7話 触れないという選択
その日、賢者エドガーは、私を呼ばなかった。
夜になっても。
扉は、叩かれない。
(……来ない)
最初は、偶然だと思った。
何か急ぎの仕事があるのかもしれない。
魔法の研究に没頭しているだけかもしれない。
けれど。
(……昨日も、来なかった)
それに気づいた時、胸の奥に、言葉にできない違和感が生まれた。
*
昼間。
廊下で、彼とすれ違う。
以前なら、自然に手を取られていた距離。
でも今は。
「……」
「……」
視線が合い、軽く頷くだけ。
(触れない)
その事実が、こんなにも重いなんて思わなかった。
私は、無意識に指先を握りしめていた。
*
書庫での作業も、同じだった。
彼は、私の隣に立つ。
けれど、手は伸びてこない。
「……それ、終わったら持ってきてくれ」
声は、穏やかだ。
(普通だ……)
以前のような命令口調ではない。
けれど、その“普通”が、妙に胸に刺さる。
(私は……)
何を期待しているのだろう。
*
夕方、庭で一人、草花の手入れをしていると、彼が現れた。
「……手、冷たいな」
ぽつりと、そう言われた。
思わず、彼を見上げる。
(……触る?)
一瞬、そう思った自分に驚く。
けれど、彼はそれ以上、何もしなかった。
「……風邪を引くな」
それだけ言って、去っていく。
(……それだけ)
私は、取り残されたように立ち尽くした。
*
夜。
ベッドに横になっても、眠れない。
手を、胸の上に置く。
(前は……)
思い出すのは、夜の静けさ。
規則正しい呼吸。
離さない手。
(……安心、してたんだ)
それに気づいた瞬間、胸が締めつけられた。
触れられることが、
命令でも、業務でもなくなっていたことに、今さら気づく。
(失ってから、分かるなんて)
*
翌朝。
食堂で、向かい合って座る。
距離はあるのに、空気は静かだ。
彼が、ふいに言った。
「……無理は、しなくていい」
私は、首を振った。
「……大丈夫です」
同じ言葉。
でも、以前とは違う意味で。
彼は、少しだけ視線を落とした。
「……そうか」
*
その日の夜も、彼は来なかった。
私は、扉を見つめながら、苦笑した。
(触れない時間が、増えただけ)
(それだけのはずなのに)
胸の奥が、妙に静かで、
そして、痛い。
私は今日、
触れられないことが、拒絶ではなく“配慮”なのだと気づいてしまった。
――だからこそ。
この距離が、怖い。
元に戻ることも、
進むこともできないまま。
ただ、静かな時間だけが、積み重なっていく。




