第6話 笑えなくなる距離
最近、気づいてしまったことがある。
――賢者エドガーは、以前ほど命令口調ではなくなっていた。
「……手」
相変わらず短い言葉ではあるけれど、
以前のような、切り捨てるような冷たさはない。
(……言い方、変わった?)
私がそう思うようになったのは、ここ数日のことだ。
*
その日、私は書庫で帳簿を整理していた。
屋敷の中は静かで、紙をめくる音だけが響く。
背後に、気配。
「……ここにいたのか」
振り返ると、エドガーが立っていた。
以前なら、気づいた瞬間に手首を掴まれていたはずだ。
でも今日は、違う。
「……少し、いいか」
“少し、いいか”。
(今、「命令」じゃなかった……)
私は思わず顔を上げた。
「はい」
彼は一拍置いてから、私の手を取った。
強引ではない。
けれど、離さない。
(距離は近いままなのに……)
なぜか、胸がざわついた。
*
昼食の後、庭を歩く。
いつもなら、私は心の中でツッコミを入れていたはずだ。
(また手つなぎ)
(人目あるんですけど)
でも、この日は違った。
彼の歩調は、私に合わせられていた。
手を引っ張ることもない。
(……気遣われてる?)
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
気遣いを向けられる立場では、ないはずなのに。
「……最近」
不意に、彼が口を開いた。
「……無理は、してないか」
私は立ち止まった。
(今まで、そんなこと聞いたことなかったのに)
「……大丈夫です」
反射的に、そう答える。
彼は、私を見た。
じっと、観察するように。
「……ならいい」
それだけ。
(……信じて、くれた?)
*
夜。
いつものように、彼の寝室で、私はベッドの端に腰掛けていた。
手を握る。
それも、もう“作業”ではなくなっていることに気づく。
(慣れって、怖い)
彼は横になり、目を閉じていた。
少しして、低い声が落ちてくる。
「……前は」
唐突に。
「……誰でも、よかった」
私は、息を止めた。
「……触れていれば、落ち着いた」
静かな声。
「……でも今は」
言葉が、途切れる。
私は、続きを待ってしまった。
けれど、彼はそれ以上何も言わなかった。
*
しばらくして、彼の呼吸が深くなる。
寝たのだろうか、と手を離そうとすると、
ぎゅっ。
握り返される。
「……離すな」
でも、その声は、弱かった。
(……いつもと、違う)
以前なら、私は心の中で叫んでいたはずだ。
(セクハラ!)
(怖い!)
(イケメン甘えん坊!)
でも今は、何も出てこない。
ただ、胸が苦しい。
(……これ、笑えない)
*
部屋を出る時、私は立ち止まった。
(この距離は、何なんだろう)
命令でもない。
業務でもない。
でも、恋人でもない。
(……一番、曖昧で)
(……一番、逃げにくい)
私は今日、
笑って誤魔化していた距離が、誤魔化せなくなった。
コメディは、終わっていない。
けれど。
もう、同じ温度では、笑えない。
そのことに気づいてしまった夜だった。




