第5話 変わらない二人と、混乱する一人
その日は、朝から空気が違っていた。
屋敷の使用人たちが、どこかそわそわしている。
理由を尋ねるまでもなく、すぐに分かった。
「……来る」
賢者エドガーが、いつもより早い時間にそう言ったからだ。
「お客様でしょうか?」
「……イリスだ」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
(イリス……)
(元恋人で、王子と縁のある、あの……)
詳しい事情は知らない。
けれど、この屋敷でその名が特別であることは、空気で分かる。
*
昼過ぎ、馬車が屋敷の前に止まった。
扉が開き、現れたのは――
落ち着いた雰囲気の女性だった。
柔らかな微笑み。
けれど、その目はどこか冷静で、現実的だ。
(……この人が)
次の瞬間。
「……イリス」
エドガーが、迷いなく歩み寄った。
そして――
ぎゅっ。
抱きしめた。
(えっ)
(ちょ、ちょっと待って)
(初手ハグ!?)
私の思考が追いつく前に、イリスは軽く肩を叩いた。
「はいはい、エドガー。久しぶり」
落ち着いた声。
「……変わらないわね」
完全に、動じていない。
(え、慣れてる!?)
(これ、慣れてる人の対応じゃない!?)
エドガーは満足したように、しばらくそのままだった。
「……安心する」
「そう」
短い肯定。
(会話が成立してる……)
*
ようやくハグが解かれ、応接間へ案内する。
――その途中。
いつものように、エドガーは私の手を取った。
恋人繋ぎ。
(来た)
(今日も来た)
(でも今はやめて!?)
ちらりとイリスを見ると、彼女は一瞬こちらを見て、ふっと笑った。
「あら」
それだけ。
(あら、じゃない)
(普通はもっと反応あるでしょう!?)
*
応接間に落ち着くと、イリスは本題を切り出した。
「報告があって来たの」
紅茶を一口飲み、
「私、王子ルーカスと結婚することになったわ」
その言葉は、あまりにも静かで、淡々としていた。
私の中で、何かが音を立てて揺れた。
(……そう、なんだ)
エドガーは、私の手を握ったまま、
「……決まったのか」
「ええ」
それだけ。
(え、終わり?)
(もっと何か言う流れじゃない?)
イリスは、私の方を見た。
「あなたが、リリアーナね」
「は、はい」
「話は聞いてるわ」
(どこからどこまで!?)
「……大変だったでしょう」
その声に、嘘はなかった。
私は、曖昧に微笑んだ。
「……お察しします」
*
話が進む間も、エドガーの手は離れない。
イリスは、それをちらりと見てから、何でもないように言った。
「相変わらず、落ち着かないと人に触るのね」
「……うん」
(うん、じゃない!)
(認めた!)
イリスは肩をすくめた。
「昔からよ」
さらっと。
(昔から!?)
(この距離感、デフォルト!?)
「……離すと、集中できない」
「はいはい」
完全に、あしらわれている。
(え、なにこの関係)
(熟練度が違いすぎる)
*
話の合間、イリスは私に小声で聞いた。
「嫌じゃない?」
その質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
「……驚きは、します」
「でしょうね」
苦笑。
「でも、エドガーは昔からこうなの」
少し間を置いて、
「人に触れていないと、不安定になるのよ」
私の手を見て、続けた。
「今は、あなたがいるから大丈夫そうね」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられた。
*
帰り際。
イリスは、もう一度エドガーに抱きしめられた。
やはり、抵抗はない。
「結婚しても、たまには顔出すわ」
「……来い」
「ええ」
軽い約束。
馬車が見えなくなってから、私はようやく口を開いた。
「……あの方、冷静ですね」
「……イリスだから」
(理由になってない)
私は、思わず心の中で叫んだ。
(キャラ違ってるじゃん!)
(私の時だけ無言命令系なの!?)
(昔から知ってる人相手だと普通じゃない!?)
エドガーは、少し考えてから言った。
「……慣れてる相手には、説明が要らない」
(私、説明省略されすぎでは?)
*
その夜。
いつものように、彼は私の部屋を訪れた。
「……手」
私は差し出しながら、心の中でぼやく。
(今日一日で確信した)
(この人、無自覚で距離を壊すタイプだ)
そして、もう一つ。
(イリスさん……すごい人だ)
私は今日、
この関係が特別ではなく、例外でもないことを知ってしまった。
――だからこそ。
なぜ、私だけが、こんなに意識してしまうのか。
その理由を、まだ、考えないことにした。




