第4話 人前で手を離さない賢者
その朝、私は確信していた。
(……今日は、何か起きる)
理由はない。
ただ、賢者エドガーの様子が、朝からおかしかった。
近い。
いつも以上に、近い。
「……外に出る」
朝食後、彼は唐突にそう言った。
「買い出しでしょうか?」
「……必要なものがある」
具体性は、ない。
私は外出用の準備を整え、玄関で待っていた。
「……行く」
その瞬間、手首を掴まれる。
「……?」
「……離れるな」
――来た。
(朝からそれ!?)
(屋敷の中限定じゃなかったの!?)
私は必死に平静を装った。
*
王都の市場は、朝から賑わっていた。
人の声。
馬車の音。
屋敷とは正反対の世界だ。
だからこそ。
目立つ。
賢者が、私の手を離さないことが。
指と指が絡まる、完全な恋人繋ぎ。
(いやいやいや!)
(せめて手首にして!)
(なんで指絡めるの!?)
私は心の中で叫び続けていた。
「……視界にいろ」
「視界どころか、注目の的です」
「……問題ない」
問題しかない。
通りすがりの人々が、ちらちらとこちらを見る。
ひそひそ声も、確実に聞こえる。
「あれ、賢者様じゃない?」
「隣の女性は……?」
(メイドです!)
(身分差あります!)
(誤解が広がる音がする!)
けれど、彼は一切気にしていない。
むしろ、少しでも距離が空くと、指に力が入る。
「……離れるな」
「離れてません」
「……近くにいろ」
(これ以上近づいたら、埋まります)
*
露店で野菜を選んでいる時も、手は繋がれたままだった。
「……これ」
彼は片手で指示し、もう片方で私を離さない。
(両手使えない賢者様)
(完全に片手塞がってますけど)
(それでも離さないの!?)
商人の視線が、にこやかにこちらを見る。
「仲がよろしいですね」
にっこり。
「……ああ」
即答。
(否定しない!?)
(そこは誤解ですって言うところでは!?)
私は笑顔を貼り付けたまま、内心で悲鳴を上げていた。
(やめて……)
(私、目立ちたくない……)
王城での記憶が、脳裏をよぎる。
(もう、見られるのは、嫌なのに)
ぎゅっ。
その瞬間、手を握る力が、わずかに強くなった。
「……?」
「……人が多い」
低い声。
「……離れるな」
(ああ、原因、そこ?)
*
布屋でも、薬屋でも、状況は変わらなかった。
離そうとするたび、自然な動作で引き寄せられる。
(自然すぎるのが一番怖い)
(慣れてる動きなのが怖い)
ついに、私は耐えきれず、小声で抗議した。
「賢者様……人前では、少し……」
彼は一瞬、こちらを見てから、
「……だめだ」
即却下。
「……落ち着かない」
ああ、出た。
魔法の言葉。
(それ言われたら、何も言えないんですけど!)
*
市場を一周し、ようやく人通りが少ない路地に入った。
私は、そこで小さく息を吐いた。
「……少し、離れても?」
「……もうすぐ屋敷だ」
答えになっていない。
それでも、通りに出た瞬間、ようやく手が離された。
私は、反射的に手をさすった。
(……疲れた)
その様子を、彼はじっと見ていた。
「……嫌か」
不意に、そう聞かれる。
一瞬、言葉に詰まった。
嫌か、と聞かれれば、嫌だ。
恥ずかしいし、怖いし、誤解される。
でも。
「……業務に支障はありません」
私は、そう答えた。
彼は、少しだけ黙り、
「……そうか」
それだけ言った。
*
屋敷に戻ると、私は自室に駆け込んだ。
扉を閉めた瞬間、全身の力が抜ける。
(無理無理無理無理)
(昼間の手つなぎは聞いてない)
(なんで外でも距離ゼロなのよ!)
ベッドに倒れ込み、枕を抱えた。
(ヤバい、これ)
(完全に、賢者の情緒安定剤扱い)
そして、最後に一つ。
(……でも)
手を繋いでいる間、
人混みの中で、彼が一度も私を離さなかったことを思い出す。
(……守ってるつもり、なのかな)
すぐに首を振った。
(違う違う)
(そういうのに、期待しちゃダメ)
賢者の屋敷での四日目。
私は今日も、
距離が縮みすぎている現実から、目を逸らし続けている。




