第2話 業務内容に含まれない距離
賢者の屋敷で迎えた最初の朝は、異様なほど静かだった。
鳥の声もしない。
風が吹いているはずなのに、木々のざわめきも聞こえない。
目を覚ました瞬間、私は自分がどこにいるのかを思い出し、胸の奥がひやりとした。
――そうだ。
私はもう、クロイツ家の令嬢ではない。
賢者の屋敷で働く、強制メイドだ。
身支度を整え、指定された作業着に着替える。
質素だが清潔な服だった。
少なくとも、粗末に扱われているという印象はない。
(……それが、逆に怖いのだけれど)
部屋を出ると、廊下の先に人影があった。
――近い。
気配を感じた次の瞬間には、もうそこにいる。
「……起きたか」
低い声。
賢者エドガーだった。
「おはようございます」
挨拶をすると、彼は一瞬だけ私を見下ろし、
「……問題なさそうだ」
それだけ言った。
何を確認されたのか分からない。
顔色か、逃げる気配か。
「……来い」
また命令形だ。
私は黙って後をついていく。
*
朝の業務は掃除から始まった。
屋敷は広いが、驚くほど物が少ない。
無駄な装飾も、生活感もほとんどない。
(……住んでいる、というより、置かれている感じ)
そう思っていると、背後から視線を感じた。
振り返ると、エドガーが立っている。
……また、近い。
「賢者様、何か?」
「……ちゃんとやってるか」
「掃除のことでしたら、問題なく」
「……そうじゃない」
では何なのか。
問い返す前に、彼は視線を逸らし、
「……離れるな」
昨日と同じ言葉だった。
「業務中は、屋敷内を移動しますが」
「……視界にいろ」
それは命令として、あまりにも曖昧だ。
(……監視、でしょうか)
王家の管理下にある身だ。
疑われている可能性は十分にある。
「承知しました」
私はそう答え、掃除を続けた。
けれど。
廊下を移動しても、部屋を変えても、
彼は必ず、視界の端にいた。
何も指示は出さない。
ただ、そこにいる。
(……落ち着かないのは、こちらです)
*
昼前、洗濯物を運んでいた時のことだった。
曲がり角で、足音が重なる。
――ぶつかる。
そう思った瞬間、腕を掴まれた。
昨日と同じ感触。
引かれ、体勢を崩し、気づけば胸元に顔が近づく。
「……動くな」
低い声。
「賢者様、これは――」
言いかけた言葉が、喉で止まる。
彼の腕が、私の背に回っている。
完全に、抱き留める形だ。
「……」
数秒、沈黙。
いや、数秒以上。
「……もう、大丈夫です」
恐る恐る言うと、
「……まだだ」
何が、まだなのか。
「……落ち着くまで」
ぽつりと、そう言った。
私は、完全に言葉を失った。
「……離していただけますか」
「……動くな」
命令が、重なる。
「それは……セクハラに近い行為では」
一瞬、彼の動きが止まった。
そして、
「……必要だ」
それだけ。
(必要……?)
数拍後、彼はようやく腕を離した。
「……行け」
何事もなかったかのように。
私は一歩下がり、深く息を吸った。
(……業務内容に、含まれていません)
*
昼食の準備をしている間も、視線は消えなかった。
食堂の入口。
廊下の角。
いつも、少し離れた場所。
「……味は、問題ない」
食事を出すと、彼はそう言った。
「ありがとうございます」
すると、
「……座れ」
と、空いている椅子を指す。
「私は給仕ですので」
「……命令だ」
仕方なく、席につく。
距離が、近い。
机を挟んでいるのに、圧がある。
「……逃げないな」
不意に、そう言われた。
「……?」
「……前の者たちは、すぐ消えた」
前のメイド。
昨日、聞くべきではなかった言葉だ。
「私は……命じられた仕事をしているだけです」
そう答えると、彼はしばらく黙り、
「……それでいい」
小さく、そう言った。
*
自室に戻った瞬間、私は扉に背を預けた。
「…………はぁ」
思わず、深く息を吐く。
(今まで我慢してたけど、もう何なのよ)
廊下での抱き留め事故を思い出し、頭を抱えた。
(距離が近い! 近すぎる!)
(というか、抱く必要ありました!?)
両手で顔を覆う。
(ヤバい、怖すぎる……)
(しかも無言で命令形……)
そして、最悪なことに。
(……顔が、いい)
そこが一番、質が悪い。
(これ、普通の顔だったら即逃げ出してる)
(イケメンの甘えん坊とか、需要が限定的すぎるでしょ)
私はベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。
(逃げ出したい……)
(でも、逃げた先、ないんだった)
そう思い出した瞬間、現実が重くのしかかる。
(……今日も、来るんだろうな)
案の定、その夜、扉は叩かれた。
*
夜。
私は部屋で日誌をつけていた。
何が起きたか、何を言われたか。
忘れないために。
――コンコン。
また、扉が叩かれる。
「……来た」
賢者だった。
「何かございましたか」
「……眠れない」
昨日と同じ。
「……手」
短く。
「……握れ」
私は、ため息をつきそうになるのを必死でこらえた。
「確認ですが、これは業務ですか?」
「……治療だ」
即答だった。
「どういう治療でしょうか」
「……落ち着く」
それ以上の説明はない。
私は椅子を引き、手を差し出した。
指先に、彼の手が触れる。
昨日より、震えは少ない。
けれど、ゼロではない。
「……離すな」
小さな声。
その命令が、昨日よりも弱く聞こえたのは、気のせいだろうか。
(……この人は)
怖い。
面倒。
そして、どこか壊れている。
それでも。
王子の冷たい笑みよりは、
この沈黙の方が、まだ耐えられる。
そう思ってしまった自分に、私は小さく驚いた。
賢者の屋敷での二日目は、
こうして、静かに、奇妙に、終わった。




