第1話 没落令嬢と、距離の近い賢者
完結まで毎日更新予定です。
本作は、
「選ばれて傷ついた女性」と
「選ぶことを恐れ続けた男性」が、
それでも互いを選び合うまでの物語です。
最後までお楽しみいただけましたら幸いです。
王子ルーカス・アルヴァインが、私を見て言った。
「――遊びだった」
その一言で、私の人生は終わった。
*
爵令嬢リリアーナ・クロイツ。
それが、つい昨日までの私の名前だった。
アルヴァイン王国第一王子の婚約者として名を連ね、王城に出入りし、王妃教育を受ける日々。
誰もが当然のように、私を「次代の王妃候補」と呼んでいた。
――その未来が、ある朝、音もなく断ち切られた。
理由の説明はなかった。
前触れもなかった。
王城へ呼び出されたその日、謁見室に集められた貴族たちの視線は、最初から私を裁くものだった。
*
「クロイツ子爵令嬢リリアーナ」
冷え切った声で読み上げられた罪状は、耳を疑うものだった。
国家反逆罪。
国家機密の漏洩。
反王権勢力との密通。
王権転覆を企てた疑い。
一つとして、身に覚えはない。
「……お待ちください」
声が震えたのは、恐怖ではなく困惑だった。
あまりにも現実感がなく、悪質な冗談にすら思えたからだ。
けれど、私が一歩踏み出した瞬間、衛兵が前に出た。
――ああ、これはもう決まっている。
「ルーカス殿下、私は――」
最後の希望のように、その名を呼んだ。
視線の先で、王子は微笑んでいた。
かつて、私に向けられていたのと同じ、優しい形の笑みで。
だからこそ、その言葉は残酷だった。
「君とは、遊びだった」
淡々とした声だった。
まるで、書類の一項目を消すような口調で。
「子爵如きが、将来の王になる僕と釣り合うと思っていたのか?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
子爵。
如き。
耳が、熱くなる。
「遊びと本気の区別もつかないとはね」
王子は、少しだけ肩をすくめた。
「君には、正直……失望したよ」
失望。
それは、まるで私が裏切ったかのような言い方だった。
――違う。
裏切られたのは、私の方だ。
信じていた未来も、
信じていた言葉も、
信じていた感情も。
すべて、この人の口から否定された。
*
王子の一言で、すべては確定した。
クロイツ家は反逆者の一族として断罪され、爵位は剥奪。
財産は没収。
家は没落。
私自身もまた、令嬢の名を失った。
牢に入れられることはなかった。
だがそれは、慈悲ではない。
――賢者の屋敷で働け。
それが、王命だった。
*
王国でただ一人の賢者、エドガー・ヴァルシュタイン。
三百年生きると噂される存在の屋敷で、強制的にメイドとして働くこと。
それは保護ではなく、管理だった。
王家の目の届く場所へ置くための処分。
かつて王妃になるはずだった私は、
その日、名前以外のすべてを失った。
――愛を、信じる心ごと。
*
王都の冬は、骨身に染みるほど冷たい。
城を離れ、馬車で郊外へ向かう間、私は窓の外を見つめていた。
見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
「……ここです」
案内人が告げ、馬車が止まった。
高い塀に囲まれた古い屋敷。
装飾は少なく、窓も少ない。
静かすぎて、不気味なほどだった。
――賢者の屋敷。
門をくぐった瞬間、音が消えた。
足音が、妙に吸い込まれる。
人の気配はあるのに、誰もいないような感覚。
「……来たか」
背後から、低い声。
振り返った瞬間、私は息を呑んだ。
近い。
あまりにも。
いつの間にか、すぐ背後に立っている。
背の高い男だった。
濃紺の髪、切れ長の目。
整った顔立ち――正直、驚くほど整っている。
だが、目が笑っていない。
「……リリアーナ・クロイツ」
名を呼ばれ、背筋が伸びた。
「本日より、お世話になります」
頭を下げると、沈黙が落ちた。
長い。
評価されているのか、忘れられているのか分からない。
「……顔、上げろ」
小さく、命令形。
顔を上げると、彼――賢者エドガーは、じっと私を見下ろしていた。
「……ふむ」
それだけ言って、また黙る。
(……以上?)
戸惑っていると、突然、手首を掴まれた。
「……行く」
「どこへ――」
答える前に引かれる。
強引ではないが、拒否の余地はない。
*
「……掃除。食事。洗濯」
屋敷を歩きながら、彼は最低限の説明だけを口にした。
「……勝手なことはするな」
「承知しました」
「……必要な時は呼ぶ」
その“必要”が何なのかは、説明されなかった。
廊下を曲がった瞬間、私は足を止めた。
同時に、彼も止まる。
次の瞬間、前に引かれた。
視界が揺れ、気づけば胸にぶつかりそうになる。
エドガーの腕が、私の背に回っていた。
「……動くな」
低く、短い命令。
「賢者様?」
顔が、近い。
吐息がかかる距離だ。
数秒――いや、それ以上。
「……離れても?」
「……ああ」
解放され、私は一歩下がった。
「今のは……?」
「……ぶつかると思った」
それだけ。
(……距離の取り方が極端すぎます)
*
夜。
用意された小さな部屋で休んでいると、扉が叩かれた。
「……起きてるか」
賢者の声。
「何かご用でしょうか」
「……眠れない」
それだけ言って、黙る。
どう返せばいいのか分からずにいると、彼は一歩近づき、
「……手」
「……はい?」
「……握れ」
一瞬、言葉を失った。
「それは……」
「……離すな」
命令が、重なる。
真剣な顔だった。
冗談ではない。
「……落ち着く」
ぽつりと、そう言って。
私は、拒めなかった。
指先が、わずかに震えていることに気づいてしまったから。
――この人は、危険だ。
顔が良くて、無自覚で、距離感が壊れている。
けれど。
それでも私は、この屋敷で生きていくしかない。
没落令嬢と、距離の近い賢者。
奇妙で、不穏で――
それでも、どこか逃げられない共同生活は、こうして始まった。
私はまだ知らない。
この賢者が、世界で一番“甘えたい人間”だということを。




