5 銀狼の迷走と月の微熱
「……支配……命令口調……近所迷惑」
執務室で、アルベールはエレナに投げつけられた言葉を何かの呪文のように繰り返していた。
彼はこれまでの人生、力でねじ伏せるか、命令で従わせるかの二択しか知らなかった。愛とは、熱い言葉をぶつければ陥落させられる「攻略対象」だと思っていたのだ。
「隊長、もうその辺で……」
副官の慰めも耳に入らない。
彼は真剣に悩んでいた。悩んで、悩みぬいた結果、彼は『彼女を喜ばせる』という目的の為にだけに、戦場でも見せないような奇知を働かせ始める。
一方、自室で引きこもるエレナもまた奇妙な落ち着かなさを感じていた。
(……言い過ぎたかしら)
窓の外を見れば、訓練場の隅で「愛の囁き方」を練習している(ように見える)アルベールの背中が見える。あんなに傲慢で、人の話を聞かなかった男が、自分の放った一言にここまで打ちのめされ、目に見えて挙動不審になっている。
最初は彼を困らせることで、復讐に似た快感を覚えていた。けれど、毎日飽きもせず「今日は角度を直してきた」「今日は声量を落としてみた」と、的はずれな努力をたずさえてやってくるアルベールの姿は、次第に滑稽を通り越して、ある種の「純粋さ」を感じさせ始めていた。
(……復讐の為に利用してやるつもりだったのに……)
ある夜。エレナの自室に訪れたアルベールの手にあったものは、一輪の野の花だった。
王宮の庭園に咲く手入れされた大輪ではなく、どこか土のにおいが残る、小さくも力強く白い花びらを広げた花。
「……それは何ですの?アルベール様。また私を笑わせにいらしたの?」
「笑いたければ笑え。……道端に咲いていた。今のお前に、これが一番似合うと思っただけだ」
アルベールは視線を泳がせながら、無造作にその花を差し出した。彼の大きな手のひらに包まれたその花は、今にも折れそうなほど繊細に見える。
「菓子や宝石は、誰にでも用意できる。だが……これは俺が自分の足で見つけ、自分の手で摘んだものだ。俺は言葉の代わりに、こういったものを一つずつ積み上げていくつもりだ」
エレナは黙って、差し出された花を受け取った。
指先が触れた瞬間、アルベールの手が微かに震えているのが伝わってきた。戦場で数々の敵を屠ってきた剛勇な男の腕が、たった一輪の花を渡すだけで震えている。
「……不器用な方。バラの花束を贈る方が、よっぽど簡単でございますのに」
エレナは小さく呟き、花を見つめたまま微笑んだ。それはアルベールが初めて見る、皮肉でも演技でもない、柔らかに心を開いた『一人の女性』の顔だった。
「アルベール様。貴方は本当に、私を困らせるのがお上手ですわ。……これでは、私が貴方をただの『野蛮な略奪者』として憎み続けることが、難しくなってしまうではありませんか」
「……憎みたければ憎め。だが、俺はお前を放さない」
「ええ、存じております……このお花、大切に飾らせていただきます」
エレナが花を花瓶に挿す背中をアルベールは言葉もなく見つめていた。支配や強奪では決して得られなかった、穏やかで切ない光が、月明かりの部屋に満ちていく。
しかし、その幸福な予感に水を差すように、遠くで出陣を告げる軍靴の音が響き始めたのだった。




