1 泥濘(でいねい)の邂逅
夕闇が、ロドニア王国の辺境をどろりと塗りつぶそうとしていた。
大国ロドニアの精鋭部隊を率いる若き隊長アルベールは、愛馬の首を軽く叩いて労った。
反勢力の残党討伐を終えた帰路、兵たちの甲冑は返り血と泥に汚れ、勝利の凱旋というよりは、死地から這い出してきた狼の群れのような凄みを帯びている。
「……止まれ」
アルベールが短く命じ、右手を上げた。鋭い眼光が街道の先を見据える。
前方のぬかるんだ道に、一台の古びた幌馬車が立ち往生していた。車輪が泥にはまったのか、御者が激しく鞭を振るい、馬を罵倒している。
だが、アルベールの鼻を突いたのは、馬の汗のにおいだけではない。それは、何十人もの人間が狭い馬車に押し込められた時に放つ、饐えた体臭と絶望のにおい__奴隷商人の馬車だ。
「隊長、関わらぬ方が賢明かと。この先の領主は奴隷売買に寛容な男です」
街道を進むアルベール一行の前に広がるのは、ロドニア王国の中でも最も悪名の高い悪徳領主・バルト公の領地だった。
ここは王の目が届きにくいことをいいことに、非合法な取引が公然と行われる闇の温床だ。重い税にあえぐ民。活気のない村々。そして何より、この地を潤しているのは「人間」という名の交易品だった。
バルト公の支配下では、借金を返せない農民や、没落した騎士の家族、さらには攫われてきた異国の民が、ひとまとめに「家畜」として扱われていた。そのどろどろとした欲望の澱を煮詰めたような場所で、アルベールは一台の馬車と遭遇したのだ。
副官の言葉を無視し、彼は無言で馬を歩ませ、荒らしく鞭を振るう男の傍らで手綱を引いた。
「助けが必要か?」
奴隷商人の男は、ふり向いた先に立つアルベールの姿に息を呑んだ。磨き抜かれた銀色に輝く胸当て、そこに刻まれた王国の紋章。そして何より深々と被った兜の奥で、獲物を定める狼のように凍てついたアルベールの瞳に射すくめられたからだ。
「こ、これは騎士様……。いえ、ただの荷物でございます。すぐに動かしますゆえ……」
「荷物だと?」
アルベールは馬をおり、泥を厭わず一歩踏み出した。商人が制止する間もなく、彼は剣の柄で馬車の後方の垂れ幕を跳ね上げる。そこにいたのは、特定の層だけではない。社会の底へ叩き落された老若男女が混ざり合う、地獄の絵図だった。
絶望で、瞳をにごらせ、震えるだけの老人や幼い子供たち、かつては誇り高き騎士や商人だったであろう、無残な傷跡を残した男たち。そして、とりわけ目を引くのが、高級娼館や隣国の慰みものとして売られる予定の「商品価値」が高いとみなされた没落貴族の女たちだった。
彼女たちは泥にまみれながらも絹の端切れを纏わされ、辱めに耐えながらうずくまっている。その多くは涙を流し、あるいは虚空を仰いで正気を保とうとしていた。
その異様な群れの中で、エレナだけが「個」を保っていた。
他の没落貴族の女性たちが「娼婦」としての運命に怯え、泣きわめいているのに対して、エレナはただ静かに、凛として座っていた。彼女をつなぐ鎖が、彼女の誇りまでは縛れていない。
アルベールはその光景に、激しい嫌悪とと、それ以上の「未知の衝撃」を覚えた。
「……これほどのごみ溜めの中に、これほどの濁りのない「月」が落ちていようとはな」
他の奴隷たちが悲鳴を上げて避ける中、彼は迷わずエレナの前に立ちその細い顎を乱暴に指で持ち上げた。エレナは顎に走る痛みに眉をひそめたが、その瞳は決して逸らさなかった。
「買い手をお探しなら、あちらの男へどうぞ、騎士様」
「買い手だと?」
アルベールは鼻で笑うと、腰の長剣を引き抜き放った。鋭い金属音が響き、エレナを繋いでいた鉄鎖の根元を一撃で叩き切った。火花が散り、自由になった彼女の腕を、アルベールが強引に掴みあげる。
「金など払わん。この地の領主(バルト公)には、不法な奴隷売買の嫌疑がかかっている。この女は『証拠品』として、俺が没収する」
「なっ……!騎士様、そんな無茶な!」
奴隷商人が泡を食って抗議するが、アルベールはその喉元に血の付いた剣先を突き付けた。
「死にたくなければ失せろ。これは国王陛下の名による『微収』だ。……文句があるなら王都へ来い。俺が直々に相手をしてやる」
アルベールは、呆然とするエレナを片腕で軽々と抱き上げ、馬車から飛び降りた。
「隊長!?本気ですか、何を……」
副官をはじめ、精鋭部隊の面々が目をむいて固まっている。反勢力討伐という重要な任務の帰りに、わざわざ揉め事を起こし、あろうことか一人の女を力づくで獲ってきたのだ。
「隊長、それは流石に……。報告書に何と書けばいいんですか!奴隷商から女を強奪したなど、軍の規律に触れます!」
副官が頭を抱えて叫ぶが、アルベールは愛馬に飛び乗り、エレナを自分の前に強引に座らせた。
「『道端に落ちていた月を拾った』とでもかいておけ。……帰るぞ。遅れる者は置いていく!」
「おい……正気かよ」
「あの『鉄の隊長』が女連れか?明日は槍でも降るんじゃないか」
部下たちが呆れ、顔を見合わせる中、アルベールは背後のざわめきを完全に無視した。
彼の腕の中に収まったエレナは、あまりの横暴さに呆気に取られながらも、自分を抱きしめる鉄のような腕の強さとその奥から伝わる奇妙な焦燥を感じ取っていた。
「……後で後悔しても知りませんわよ」
「黙っていろ。お前はもう俺のものだ」
アルベールは馬の腹をけり、夕闇の中を風のように駆け出した。
軍規も、常識も、主君への体裁も今の彼にはどうでもよかった。ただ、この腕の中にいる、折れそうなほど細く、けれど決して屈しない「月」を、誰の手も届かない場所へ連れ去ることしか頭になかったのだった。
何となく、若かりし頃のアルベールとエレナを見てみたかった(笑)




