1話 靴屋の奇妙な朝
朝の光が、有栖の靴屋の小さなガラス窓を淡く照らしていた。
店の前を通り過ぎる人々は、今日も何気ない顔で足早に通り過ぎる。
しかし店の中には、微かな緊張が漂っていた。
「……変だな」
有栖織江は小さな作業台に置かれた昨日の靴を眺め、眉をひそめる。
普段は気に留めないはずの小さな擦り傷や、革の微妙なねじれが、なぜか今日に限って目につくのだ。
扉がきしむ音と共に、店内に入ってきたのは、見知らぬ男だった。
黒いコートに手を突っ込み、目だけを動かして店を観察する。
「……靴を、作ってほしいのです」
低く、冷たい声。男は注文を口にすると、靴のサンプルも見ずにメモだけを置き、さっさと出て行った。
有栖はその背中をじっと見送る。
扉が閉まった瞬間、店内にはわずかに残る寒気。
まるで、誰かが空気を抜いていったかのような違和感が、じわじわと全身に広がる。
その日の昼、町の掲示板に不審死のニュースが貼られる。
昨夜、あの男が町の路地で倒れていたらしい。
「……まさか、あの人……?」
有栖の指先がメモの端に触れる。
そこに書かれた、微かに歪んだ線――靴のデザイン図に見えたはずのその線が、今、奇妙な意味を帯びている気がした。
町の静けさの裏に、何かが潜んでいる。
足音もなく、しかし確かに存在する不穏な気配が、靴屋の奥からじわじわと押し寄せる――。