第9話 焚き火に浮かぶ矢影
夜の野営地に襲い来る影――魔物。
老商人と思われていたロイの意外な一面が明らかになる。
その姿を目にしたセリナの心は、静かに揺れ動いていく。
夜の帳がすっかり降りた。
野営地の焚き火がいくつも灯され、ぱちぱちと木がはぜる音が暗闇をやさしく照らし出している。
護衛の冒険者たちは交代で見張りを始め、焚き火を囲んで腰を下ろす者もいれば、荷車に寄りかかって短い眠りに落ちる者もいた。
「今夜は星がよく見えるな……」
誰かが呟き、皆が空を仰ぐ。
雲ひとつない夜空に無数の星々が瞬き、天の川がうっすらと流れていた。長旅の疲れを少しだけ癒してくれる光景だった。
◆
ロイとセリナも一つの小さなテントに入った。
外からは焚き火の音、人々のかすかな笑い声や話し声が聞こえてくる。
その雑音のようでいて規則正しい響きが、不思議と心を落ち着かせてくれる。
ロイは横になり、天井の布を眺めながら言った。
「セリナ、もう休め」
「……はい。でも、少し緊張してしまって」
セリナは布団の端に腰を下ろし、両手を膝の上で握りしめている。
ロイはそんな彼女の手をそっと取り、軽く握った。
「こうしてれば、少しは安心かな」
セリナは驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと表情を和らげた。
「はい……落ち着きます」
その温もりが胸の奥に広がり、ようやくまぶたが重くなりかけた、その時だった。
――「魔物だ!」
鋭い叫びが外から響き、テントの幕が震えた。
見張りの冒険者の声だ。
◆
一瞬で野営地は騒然となった。
武器の鞘が外れる音、馬がいななく声、冒険者たちが次々と飛び出していく足音。
セリナは咄嗟に短剣を手に取り、構えを取った。
「旦那様!」
彼女の声に、ロイは冷静に頷く。
手にしたのは――弓。
「弓……? 旦那様は弓を使えるのですか?」
「まあ、見てなさい」
ロイはわずかに口元をほころばせ、テントを押し開けて外へ歩み出た。
◆
焚き火に照らされた視界に、複数の魔物が姿を現した。
狼に似た獣だが、目は赤く光り、牙は異様に長い。唸り声をあげながら、荷馬車を取り囲もうとしていた。
ロイは即座に馬車の影へと身を潜め、弓を引き絞る。
――ヒュッ。
放たれた矢は一直線に飛び、魔物の首に突き刺さる。そいつは呻き声をあげ、地面に崩れ落ちた。
「命中……!」
セリナが思わず息を呑む。
「旦那様、すごいです!」
ロイは答えず、淡々と次の矢をつがえる。
二の矢、三の矢――放たれるごとに魔物が一体、また一体と倒れていく。
「弓を扱える者が商隊にいると、随分助かるのよ」
軽口を叩きながらも、ロイの矢は一度も外れることはなかった。
◆
その姿に周囲の冒険者たちも鼓舞された。
「お前の腕はまだまだ健在だな!」
豪快に笑ったのは商隊長のダリオだった。
「いやいや、もう若い者には敵わんよ」
ロイは苦笑しながら矢を放ち続ける。
矢羽根が夜気を裂き、焚き火の炎が魔物の影を照らす。
戦場に似つかわしくないほど静かな集中の気配がそこにはあった。
◆
やがて最後の魔物が矢に貫かれて倒れると、辺りは急速に静寂を取り戻した。
風が木々を揺らし、焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。
残されたのは荒い息遣いと、安堵の吐息だけだった。
「……ふぅ。無事に退けられたな」
ロイが弓を下ろし、深く息を吐く。
「本当に……」
セリナは胸に手を当て、瞳を潤ませながら答えた。
彼女の視線の先にいるのは、ただの老商人ではなかった。
落ち着き、的確に仲間を守る姿。矢を放つたびに揺るがぬ自信を見せる姿。
セリナの心は強く揺さぶられていた。
◆
冒険者たちは周囲を警戒しながら再び焚き火の周りに戻り、戦いの余韻に短い会話を交わす。
「怪我人は?」
「なし!」
「さすがだな……」
その言葉の端々に、ロイへの敬意がにじんでいた。
セリナはそんな空気を感じ取り、胸の奥に新しい感情が芽生え始めていることを自覚する。
父のように慕ってきた旦那様。けれど今夜は、それだけではない。
自分を守ってくれる“男の人”としてのロイが、心に刻まれていた。
◆
「もう大丈夫だ。セリナ、今度こそ少しは眠れるだろう」
ロイは優しく声をかける。
「……はい」
セリナは小さく頷き、テントに戻る。
けれど布団に横たわりながらも、焚き火の影が揺れるたび、彼女はロイの手を確かめるように何度も握りしめていた。
眠りの合間に浮かぶのは、弓を引く彼の姿。矢羽根が夜空を裂くその瞬間の凛々しさだった。
その夜、セリナの胸に芽生えた想いは、まだ言葉にならない。
だが確かに、旅の絆を新たな形に変え始めていた。
大きな戦いではなかった。
けれど、矢を放つロイの姿はセリナにとって鮮烈な印象を残した。
それは「父のように慕う人」から「ひとりの男性」への意識の転換点。
旅は続く――だが彼女の心は、確かに変わり始めていた。




