第8話 焚き火の灯りに守られて
橋を渡り切った商隊は、野営の準備を始める。
森の闇に潜む見えない不安。
その中でロイの言葉は、セリナにかけがえのない安心を与えるのだった。
夕暮れが近づく頃、一行は無事に橋を渡り切っていた。
川の轟音が遠ざかり、道は再び穏やかさを取り戻す。谷を抜けた街道は広く開け、両脇には低い丘陵が続いている。そこに生える木々の影からは、時折、珍しい獣や鮮やかな羽を持つ鳥が姿を現した。
小さな狐が草むらを横切り、青い羽根の鳥が群れを成して空を渡る。見慣れぬ光景に、商人たちは荷馬車の手綱を引きながら歓声を上げ、護衛の冒険者たちも肩の力を抜いたように表情を和ませた。
緊張から解放された空気は柔らかく、どこか旅情を誘う。
◆
ロイもまた、荷車の側に寄りかかり、大きく深呼吸をした。
「ふぅ……順調に進めているな。今日は良い日だ」
心の中でつぶやきながら空を仰ぐと、夕日が西の空を赤く染めていた。
その横でセリナが小さな声で言った。
「旦那様が楽しそうにしていると、私も安心します」
ロイは頬に笑みを浮かべる。
「そりゃあ、世界を見てみたいと思って飛び出したんだ。珍しいものを見られるだけで楽しいさ」
セリナの頬がほんのり赤く染まった。
「……はい」
その短い返事に含まれる温度を、ロイは深く追及せず、ただ穏やかな空気を受け止めた。
◆
やがて空は朱色から群青へと移ろい始め、一行は野営の準備に取りかかることになった。
護衛のリーダーが声を張り上げる。
「ここで一晩過ごすぞ! 各自、火を起こし、食事の用意にかかれ!」
号令と同時に冒険者たちは周囲から枝を拾い集め、商人たちは荷車から鍋や食材を下ろし始める。
肉の塊、乾燥させた豆、香草の束――どれも旅の定番ではあるが、これらが火にかかれば温かなご馳走となる。
セリナは慣れない手つきながらも皿を並べ、水を運び、笑顔を絶やさず動いていた。孤児院で培った経験が自然と役立っているのだろう。
◆
ロイは焚き火のそばに腰を下ろし、森の闇をじっと見つめた。
陽が完全に沈むと、木々の間に濃い影が落ち、風が吹くたびに不気味なざわめきを響かせる。
「……今晩は注意かな」
つい独り言のように漏れた言葉を、セリナは聞き逃さなかった。
「旦那様、何か危険が……?」
顔色を変えたセリナに、ロイは苦笑して首を振る。
「いや、大げさに考えるな。ただ、森の近くで野営する時は用心した方がいいだけだ」
「……でも、盗賊や魔物が出るかもしれないんですよね?」
「確かに、出るかもしれないな」
ロイの穏やかな声とは裏腹に、セリナの緊張は増していく。布巾を握る指先が白くなるほど力がこもっていた。
その姿を見たロイは、少し真剣な表情で口を開いた。
「セリナ」
「……はい?」
「怖がるのは当然だ。だが、俺の隣にいれば大丈夫だよ」
セリナは言葉を失った。
焚き火に照らされたロイの横顔は、落ち着きと頼もしさに満ちていて、その一言が胸の奥深くに届いた。
説明のつかない安心感。心臓が高鳴り、喉が乾く。
◆
やがて焚き火がいくつも灯り、闇を押し返すように赤い光を広げた。
鍋からは肉と香草の匂いが立ちのぼり、冒険者たちが賑やかに笑い声を交わす。
商人たちは果実酒を小さな杯に分け合った。
セリナはその輪の中で、少しずつ緊張を解いていく。
けれど森の闇に目を向けるたび、胸の奥で小さなざわめきが再び生まれる。
「……旦那様、本当に、大丈夫なんですよね?」
ほとんど囁きのような声で、もう一度尋ねる。
ロイは焚き火を見つめたまま、ゆっくりと答えた。
「もちろんさ。俺だってまだまだ旅の素人だけど、商売でいろんな場所を歩いてきた経験はある。危険な匂いには敏感だ。何かあればすぐに気づく」
そう言って、彼はセリナの肩にそっと手を置いた。
温かな重みが伝わり、セリナは小さく息を呑む。
やがてその瞳を閉じ、心の奥に芽生え始めた信頼を確かめるように微笑んだ。
火花が弾ける音が夜空に散り、ふたりを包む。
闇は深い。だが、焚き火と隣に座る人の存在が、それ以上に心を照らしていた。
この夜、大きな事件は起こらなかった。
だが、セリナの心の中で「守られている」という確信が静かに芽を出した。
旅は続く――小さな夜の出来事も、二人の絆を少しずつ強めていく。




