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頬に雨粒が当たる。我に返り空を見上げた。
今回の展示物に微々たる失望を胸に郷土資料館を出ると小雨が降り出していた。雨の向こうに銀の雫を纏った愛車が待ち構えていた。ボンネットに散らばる銀の水玉に交じりアマガエルがちょこんと座り此方を見ていた。此方の視線に気付いたのか飛び跳ね駐車場脇の植え込みへと消えていった。
車体を流れる銀の雫を一頻り愛おしそうに眺め、おばあちゃんと見たあの日の蓮の葉には敵わないやと呟くと車に滑り込む。
あの日は結局話の続きは聞けなかった。垂井さんが落ち着くまで見守り自宅のアパートへ戻った。もう一度、日を改め垂井さんを訪ねようかと思案するが今の垂井さんの状態では話の続きは無理かも知れないと思いながらも認知症症状で理解不能な会話でも言葉の端々に聞き出す手掛かりが見つかる可能性は有るはずだと自身に言い聞かせた。だが話の結末を探る切り口を思い付けない。
直ぐにアパートへ戻る気にもなれず雨のドライブを楽しむ事にした。気分を変えれば例の民話を調べる手掛かりを思い付くかもしれない。ドライブついでに本町通りの万平菓子舗へ足を伸ばしティラミス大福と新作のティラミス苺大福を買い求めようと車を発進させた。走り出した車のフロントグラスに当たる雨粒がコロコロと転がる。水玉の群れが雨空の弱い光りを集め煌めき、ちょっぴりうきうきとした気分が沸いてきた。郷土資料館での落胆も転がる水玉と共に消えていく。万平菓子舗へ着く頃には雨が上がりささやかな楽しみはあっけなく終わってしまった。
千切れた雨雲の隙間から覗く日の光を浴びた風は西から重い湿気を運び不快指数を上げていた。本町通りには駐車スペースが無いため少し離れた路地裏の空き地に駐車する。ここもついこの前まで何かが建っていた。送迎でしょっちゅう通っている道なのに何があったのか思い出せない。何かの気配だけが色濃く残っていた。
車を降りた途端に目眩と共に付近の風景が歪み始めた。視界の隅っこには渦が浮かび上がっていた。とっさに車にしがみ付き一呼吸置くと取り敢えず目眩は治まった。
また目眩が・・・。ここ最近急に増えてきている。車に寄り掛かり空を見上げ一息ついていると微かなさざめきが聞こえる。ある予感に胸騒ぎを覚え覚束無い足取りで本町通へ向かい路地裏を駆け抜けた。
路地裏を抜けると喧騒と目も眩む色彩の只中に飛び込んでいた。歩く隙間も無い程の人に溢れた市日の光景が現れた。
来た。何度となく此処へは来たことが有る。目の前に広がる光景に強い既視感を覚えた。だが、視点が自分の物では無いと直観が告げている。強くなる違和感と薄れゆく現実感。他人の視点で眺めているような、映画でも見ているような感覚に近い。鮮烈な色彩、通りの空を埋め尽くす天幕の群れ。日本の市の原風景と言うべき光景なのに何処か異国を思わせる色や匂い。天幕や人々の衣服などの中間色の中に野菜や果物の鮮やかな赤や黄色、緑が眼を刺すように飛び込んでくる。隣の天幕では採れ立ての鮒や鯉がまだ鰓を動かしパクパクと口を開いている。樽の中では泥鰌が泳ぎ回っていた。行き交う人々に蓴菜は要らないかと頻りに老婆が声を掛けている。
風景のコントラストが異常なほど高く何もかもがハッキリと見えていた。天秤棒を担いだ棒手振りの一団が甲高い売り声を上げ油揚げや干し魚を売り歩き、坊主頭の男の子達を先頭におかっぱの女の子が付き従い凄い勢いで脇を通り抜けて行く。その先には人混みに交じり色鮮やかな衣装を羽織り白塗りの化粧に鬘を被ったチンドン屋の姿が見えている。賑やかなチンドン太鼓や哀愁を帯びたクラリネットの音色が喧噪をかき分け耳に届いて来た。
何かに突き動かされるように勝手に体が動く。人混みをかき分け早足で目的の場所へ向かった。色取り取りの包装に包まれた飴玉や猫瓶に入れられた駄菓子が並ぶ飴屋の天幕と衣料品の天幕の幅六十センチ程の隙間を抜け薄暗い雁木に踏み入れる。通り側にはびっしりと天幕が建ち並び日の光を遮り、雁木の中は黄色く澱んだ電灯の明かりが灯っていた。踏み入れた所には酒屋のおはぎ屋がありこの店から左へ五軒目が目的地だった。
小走りで進み目指す渟足書房へ駆け込み目を泳がせた。店内で興奮を押さえることが出来なかった。この書店では既に絶版になった本達が、それも新品で並べられていたからだ。特に民俗学関係の本が強く今では幻と云われているような稀覯本や珍本が無造作に置かれていた。年季の入った木製レジカウンターの裸電灯の下で分厚いレンズの眼鏡を掛けた店主が気難しい表情を浮かべ新聞に目を通しながらキセルをふかしていた。
紺染めの不思議な手触りの布が張られた函を手に取る。それは書帙と呼ばれる物で和本の収納や保護を目的とする和本の装具だ。
「秘記祝詞集」と書かれた短冊の貼り付けられた書帙をしげしげと眺めていると店の奥から店主が分厚いレンズの眼鏡の奥から目線を送ってきた。一瞬不可解な薄笑いとも嘲りとも捕れる表情を浮かべたかと思うと新聞に目を戻した。気にせずそっと手に取り二つある小鉤を慎重に外し広げるとパラフィン紙に包まれた麻の葉綴じの和本が上下巻の二冊入っている。紛れもなく新品だ。本を捲るとびっしりと漢字が並んでいる。見たことのない漢字も多数交じっている。読むには時間が掛かりそうだ。病院で垂井さんとの話題に出てきた本だ。森川章太により昭和の始めに復刻された奇書だ。この本の起源は太古から伝わる口伝呪文を江戸中期に青山清蔵なる人物が収集編纂されたということが通説になっている。当時は「禁令呪詞集」として発刊されたが不敬罪に問われ焚書の上、青山清蔵は死罪に処されたと伝えられている。その後時代が明治になると禁令呪詞集の写本を「秘記寿詞集」に表題を変え発刊された事も有ったらしいがいずれも焚書、発禁処分を受け出版元や編集者は重罪に問われていた。その後も幾度か題名を変え出版された。この「秘記祝詞集」も発刊後程なく発禁になり森川章太は行方不明になっている。何度も焚書や発禁を繰り返しながらも名を変え世に現れる不思議な奇書だ。興奮を抑えられず本を持つ手が震えている。紙面を見ていると文字が滲み視界が渦を巻き再び目眩に襲われたが今回は一瞬で治まった。
頭を軽く振り顔を上げると市場の只中に立っていた。押し寄せる人波に体が押され思わず一歩、二歩と体が進む。腕に掛かる重さに気付き手を持ち上げると分厚いクラフト紙製の紙袋を持っていた。紙袋には渟足書房の手押しスタンプが押されている。ズッシリとした紙袋の中を覗くと三冊の本が入っていた。「秘記祝詞集」の他「真説古代文字考」「潟の文化と口承文学」いずれもその筋では珍本、奇本の類だ。たとえ新品とは言え今の持ち合わせ程度で買える本では無い。何時買ったのだろう。盗んできた訳では無いだろう。盗んだ本を御丁寧に紙袋へ入れてくれる本屋は無い。
不意にゴロス太鼓の音が耳に刺さる。人混みの隙間からチンドン屋が見えていた。チンドン屋の奏でる楽曲が妙に大きく聞こえる。いや、大きく聞こえるどころでは無い。周りが楽曲で埋め尽くされ他の音が一切聞こえない程だ。人波が左右に分かれ五人編成のチンドン屋がこちらへ真っ直ぐに向かって来た。
股旅姿のチンドン太鼓を先頭に振り袖に蛇の目傘のゴロス、町娘のサックス、侍姿のクラリネット、最後にビラ配りのピエロが戯けアクロバティックな動きをしながらビラを配っていた。何れも白塗りに目鼻、眉毛を描いた濃厚な化粧をしている。賑やかでどことなく哀愁が漂う曲を奏でながらチンドン屋は近づいて来た。
耳覚えのある曲は確か「竹に雀」と言ったか。以前ボランティアでデイサービスに来た元チンドン屋の人達の演奏で聞いた事がある。演奏がチンドンではお馴染みの「美しき天然」に切り替わる。合わせてチンドン屋の戯けたような所作も変化する。鉦の音が、太鼓の音が、サックやクラリネットの音が脳に直接響き渡り曲が頭蓋の中を暴れ回る。向かってくるチンドン屋が歪み、あの渦が視界に現れかと思うと体から力が抜け本の入った紙袋を抱きしめしゃがみ込んでしまった。体の底から冷水が沸き上がるような感覚が体を貫いて行った。全身隈無く毛穴が粟立つようなこの感覚は何だ。どうしたんだ。自分の体調不良を疑った。不摂生が祟ったか、ここ二ヶ月で三キロ近く体重が増えていた。それで無くとも標準体重より十キロ近くオーバーなのに。こいつの所為かな。脇腹の肉を摘み呪った。
そう言えば主任に今日は医者へ行くと言っていたことが急に思い出される。そうだ受診へ行くつもりだったが直ぐに面倒臭くなって止めたことに後悔の念が沸く。
立ち上がろうと顔を上げるとチンドン屋が目の前に迫っていた。思わず目を擦った。まだ目の調子がおかしい。踊りながら迫り来るチンドン屋が歪み滲んで見えている。チンドン屋が近づくにつれ強烈な生気臭さ漂ってきた。チンドン屋を見返した途端、目に飛び込んで来たのは金冠に縁取られた真っ黒で大きな目。
目の前では股旅姿にチンドン太鼓を抱いたカエルが演奏をしていた。ヌラヌラとした粘液に覆われた皮膚にぽっかり空いた外鼻孔がひくひくと閉じたり開いたりしている。この顔はアマガエルだ。アマガエルがチンドン太鼓を叩いている。トノサマガエルがクラリネットを吹いていて、ヒキガエルがサックスを・・・。 この場の状況を疑うことさえ出来ない程の凄まじい実在感だった。
「なんだ、あれは」思わず間の抜けた言葉が口から漏れ出る。
ベトン、ペタンとカエル達が周りを飛び跳ねている。気が付けば衣装も演奏していた楽器も無くなっている。二足で滑稽に踊り回るカエル達に取り囲まれていた。リアルな鳥獣戯画が目の前で繰り広げられている。
突然、体の奥底から沸き上がる恐怖に体が強張る。先ほどまでは恐怖など微塵も感じなかった。ただカエルが踊り狂う巫山戯た状況に驚き唖然としていただけなのに。この突如感じ始めたこの恐怖は何処から来たのだ。恐怖の出所を考える間も無く体中で急速に膨れ上がった恐怖に埋め尽くされ、状況を理解出来ず体も動かせない。せめて悲鳴でも上げようとするが餌を求める鯉みたく口をぱくぱくするだけで声すら出せない状態になっていた。刺激的な生臭さが濃度を上げた。
べたりっと目の前にカエルが飛び降りてきた。驚きと恐怖で言葉が出ない。嘘だろう、嘘だろうと胸の中何回もで叫んでいた。目の前三十センチに鈍く光るカエルの目玉が有る。凄まじい生臭さで息が詰まる。アマガエルの前足で吸盤がぷるぷると小刻みに震え、顔へ向かって近づいてくる。相変わらず嘘だろうと声にならない悲鳴しか上げられない。外鼻孔がひくひくと動いた。両の頬にペタリと吸盤が張り付く。冷たくぬるぬるべたべたとした感触で強烈な悪寒が身体中を駆け巡る。金冠に縁取られた黒目が一瞬収縮したかと思うとぱっかりとカエルの口が開く。粘液に被われた鮮やかな桃色が目の前に広がり、桃色の肉塊が飛び出し顔に貼り付き意識が弾け飛んだ。
目を開けると明け方の空に溶け始めた月が窓から覗いていた。ベッドに横たわっている自身を意識する。ここはアパートの自室だ。混乱する頭の中を落ち着かせるため暫く月を眺めていた。
夢か。それにしてもリアルな夢だった。まだあの生臭さが顔に纏わり付いているようだ。まだ朦朧とする頭を抱え布団から這い出しキッチンで顔を洗い、水を一気に飲み干した。それでも頭の混乱は収まらなかった。とても夢とは思えないのだ。あの重い渟足書房の紙袋も「秘記祝詞集」の特殊な織物の布装丁の肌触りやチンドンガエルの演奏も生臭さも実際に経験したとしか思えなかった。部屋中を見渡したが書房の包みは無かった。当然だ。夢だったのだから。それに渟足書房はかなり前に廃業している。しかし頭の何処かでは全力でそれを否定していた。あれは本当の出来事だと。
昨日の記憶を手繰り寄せる事は出来る。ベッド脇のテーブルにティラミス大福の包装が散らばっている。郷土資料館の帰りに買ってきた物だ。食べた時間も味も思い出せる。眠るまでの事も憶えている。ティラミス大福は帰って直ぐに包みを開けた。だがその時間は書房で立ち読みをしていた時間だと覚えている。常識的に考えればカエルのチンドン屋や書房の出来事が夢のはずだがどうしてもそうとは思うことが出来ない。
同じ時間帯に同時に二つの記憶があるように思える。部屋に帰ってティラミス大福を食べた事も書房での出来事もカエルのチンドン屋に遭遇した事もどちらも思い出そうとすれば事細かに思い出せた。
でも・・・、でも、矛盾している。鮮明に覚えているのに二つの記憶を比べるとどちらも酷く曖昧に感じられるのだ。夢と云うにはリアルで現実と云うには曖昧に感じられる。
頭の混乱が未だに収まらない。残月を見上げた。まだ一眠り出来る時間帯だ。眠れば混乱も落ち着くだろうと再び床に入るが眠れなかった。この記憶の曖昧さは今に始まった事では無かった。何の根拠もなく切っ掛けはこの土地で垂井源一郎と出会ったことが引き起こしていると確信めいた思いがある。垂井さんと会うことが無ければこの町やあの民話に囚われる事も記憶障害みたいな事は起こらなかったのではないか。
まだ月が辛うじて部屋の中を照らしていた。子供の頃から月の光は全てを浄化してくれると思っていた。祖母がそう教えてくれた。それがこの町へ来てから印象が違って来た。この町の月は何時も優しく包むように照らしてくれていた故郷の月とは違う。濁った光りを放ち禍禍しさすら感じられる。
いったいここは・・・何処なんだろう。