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甕に帰る狸  作者: futan
第一部 傾聴
7/25

6

 甕潟郷土資料館の駐車場で見上げる空は低く鉛色した雲が空を覆い始めこれから降る雨を予感させている。傍らで愛車が厚い雲の向こうで仄かに光る陽光で鈍く輝いていた。愛車はメタリックグリーンの中古の軽自動車だ。エンブレムに兎の意匠があしらってありどちらかと言えば女子向けの車だが年式の割にかなり程度が良く値段も手頃だったため即購入を決めた。

 この前洗車したばかりの車体は磨き込まれ鏡のように周囲の景色を映し出していた。自分は車マニアでも洗車マニアでもない。強いて言えば水滴マニアとでも言えばいいのだろうか。丁寧に洗車し念入りに下地処理を施しコート剤で仕上げる。フロントガラスからサイドウインド、リヤウィンドに撥水処理をしてある。深いグリーンを選んだのは水滴が映えるからだ。雨に濡れた車を見る事がこの上ない楽しみの一つでもあった。ボディやフロントグラスに落ちる雨粒は光りを宿し銀の球になりコロコロと転がる。

 あの日の蓮の葉のように。

 水滴の形や転がり方で車のコーティングが上手く出来ているか判断出来る。雨に濡れた愛車を見る度に官能的な美しさに満足を憶えた。新車のような外観とは裏腹に室内は散らかり放題で博物館のチラシやパンフレット、この地域周辺に点在する遺跡関係の講演会やワークショップ関連の資料などが助手席やリアシートに散乱していた。愛車に映る自分の姿を後に郷土資料館のドアを潜った。

 目の前にモノクロの風景が視界一杯に広がる。エントランスを入って直ぐに展示してあるモノクロのパノラマ写真はまるで海のような鳥屋野潟が広がりそこには数艘の帆掛け舟が浮かび、遠くには角田山と弥彦山が霞み浮かんでいる。迎えてくれたパノラマ写真は常設展展示用で潟の干拓前の風景を知ることが出来る。今では見渡せば水田しか見えないこの地域が以前は湖沼の中にあったと思うと感慨深く、ここへ足を運ぶ度に見入ってしまう。

 常設展は『郷土の水と人々の歩み』というテーマでかつてこの地域で使われていた民具や農具、周辺遺跡で出土された土器などが展示されている。『砂丘が作った潟と遺跡』と表示されたバナースタンドの脇を通り抜け目的の会場へ向かう。今回の特設展ではこの土地を作った砂丘と潟の周囲に点在する遺跡がテーマで資料や最近出土した土器の欠片が並べられていた。

 思わず小さな溜息が漏れる。やはりと言うべきか。展示されていた出土品はどれも有り触れた物だった。もしかする渦状紋土器の欠片でも有るかもと淡い期待を持っていたのだが。

 渦状紋土器。それを初めて目にしたのは垂井さんの書斎だった。ここでの生活にも慣れ始め頃合いだと垂井邸へ足を運んだ。デイサービスで週三回は会う機会があるのだが話を聞き出す機会など殆ど無かった。あの民話の続きを聞きたくて逸る気持ちを抑えきれなかった。

 自分が勤務している事業所では個人的に利用者に会うことは禁止されていた。以前系列のヘルパー事業所で利用者と職員の間での金銭授受によるトラブルや利用者宅での窃盗が立て続けに起きていた為だった。しかし抑え難い好奇心には勝てず衝動的にアポも取らず押しかけた。その頃の垂井さんはヘルパーの援助も入り始めある程度は安定した独居生活を送っていた。意思の疎通も円滑に出来ていた。

 日も暮れ始めた頃、非常識だと思いつつ勢いに任せ垂井邸に押しかけた。ポーチでは玄関ドアの八角形窓にはめ込まれた幾何学模様のステンドグラスが玄関ホールの照明を透かし赤、青、緑、黄の様々な色の光を宵闇に投げ掛けていた。インターホンは壊れていて使えない。ドアの前で一瞬、躊躇したが、思い切ってドアノブに手をかけ声を張り上げた。

「デイの紀田村です。夜分にすいません。お話を伺わせて下さい」

五分ほど玄関先で待つとドアがゆっくりと開き垂井さんが杖を突きながら現れた。

 自分を見た垂井さんは驚いた様子もなく一瞬哀れみとも同情ともとれる表情を浮かべたかと思うと上がれと目配せした。杖を突きながら壁伝いに歩く垂井さんの後ろ姿から微かな尿臭を感じる。ヘルパーは明日の朝まで来ない。尿漏れパッドの交換を勧めたほうが良いかな、などと思っていると垂井さんはこっちだと杖でドアを指し示した。

 指示された重厚な木製ドアを開けるとそこは書斎らしき部屋だった。書斎にしては随分広く、隣の部屋に続く扉は開け放たれスリーモーターベッドの一部が覗いている。普段の生活空間にもなっているらしい。ペイズリー柄が織り込まれたジャガード製ドレープカーテンのモスグリーンが妙に圧迫感を投げ掛けていた。それにしても部屋の壁面に備えた天井まで届く程の書架に並ぶ書物は壮観だった。

「そこに掛けなさい」と垂井さんに勧められるままに部屋の隅に押し遣られたソファに腰を沈めた。垂井さんはセンターテーブルの上に置いてある科學新報の特集「鉄箱の中の猫」と副題の書かれた古い雑誌を取り上げた。ボロボロで雑誌のレトロな書体からしても昭和中期位の雑誌に見える。

「何度目の遅刻かな。単位を落としてもいいのかね?これ以上遅刻を繰り返すようだったら単位をあげることは出来ないぞ」と垂井さんは茶目っ気の交じる含み笑いを浮かべた。本気で怒っている様子は感じられない。一瞬何を言っているか分からず戸惑うが反射的に話を合わせる。

「申し訳ありませんでした。気を付けます」と神妙に頭を下げた。            

「では。前回の続きからだ。資料は開いたかな」

「垂井先生その前に質問があります」

今の垂井さんは教師時代へ行っている。一か八かで目的の質問をしてみた。

「何かな?」

ぎょろりと指紋や皮脂などで曇ったレンズの太い黒縁の眼鏡越しに視線を送ってくる。

「今日は潟人の伝承についてお聞きしたいのですが」

「潟人・・・」

呟くと垂井さんは目を泳がせ始めた。長い間が続く。まずい混乱させてしまったか。これであの話を聞くまたとないチャンスを逃してしまうかも知れない。

「何故・・・、何故君はそんなにあの話を聞きたがるのかね」

 奇跡が起こった。戻ってきた。暗く沈んだ表情だが眼差しに機知の光が灯っている。初めて病院で出会った時の垂井さんだ。

「あの話は私にとって重要な手掛かりのひとつ・・・」

垂井さん言い終わらないうちに左手の平を見詰め眉間に皺を寄せ更に表情を曇らせると例の哀れむような笑顔を浮かべ「潟人など幻だよ。この土地では・・・。私の育った処では実在していたがね。潟人はよほどの禁忌らしくてね。近づくことはもとより記録さえ残すことを許されなかった。存在を徹底的に無視され痕跡も跡形もなく消し去られていた。何かしら痕跡は残るものなのだがね。・・・それは徹底していた」

垂井さんは今、私の育った処と言った。変だな。垂井さんのフェイスシートからの情報では近隣の新潟市で生まれこの土地で育った事になっている。この土地から離れ生活してきた記録も無い。まるで他所から移り住んできたような物の言い方だ。見当識障害を疑う。認知症の周辺症状のせいなのか。しかしこれまで会話してきた様子では認知症のそれとは違うような気がする。たとえ症状が出ていてもこの話題に引っ掛かっている限り言葉の断片からでもあの民話の情報の一部が見つかるかも知れない。この屋敷へ来てからあの話の結末への追求心が一段と強くなって来ている事を意識する。

「まぁ潟人とは便宜上私が名付けたのだがね。私は一度、潟人の調査結果を纏めた本を作った事があるのだよ。ほんの数十ページの私家製版だがね。これを読んだ人々は出来の悪い伝奇小説だと言った。ニュースグループでも散々叩かれたよ」と垂井さんは自嘲するように笑みを浮かべ、話を続ける。

「誰も信用しなかった胡散臭い話しに何故興味を持つのかな?君は与太話だと思わないのかな」

「何故と・・・言われると困るのですが。知りたくて、知りたくてしょうがないんです」

言葉に詰まりながらも素直な気持ちを伝えた。知りたい理由など考えた事もなかった。ただただ知りたいだけだった。

 垂井さんは穏やかな目差しを此方に向けかなりの間考え込むと口を開いた。

「そうかね。やはり・・・な」と独り言を呟くと言葉を繋ぐ「君は何時か訪ねて来ると思っていたよ」

「やはり」とか「何時か訪ねて来る」とは何を指しての事だろう。それに私家製版が有った事やニュースグループの話は初めて聞く話だ。話が繋がらない。やはりこれ以上話を聞くことは無理なのか。

「どうやら君もタヌキなのだな・・・」

言葉に詰まる。垂井さんの言うことが意味不明になってきている。ここら辺が潮時かなと思い始めた矢先、垂井さんが不安定な姿勢で突然立ち上がった。反射的に垂井さんの体を支える姿勢を取る。

 垂井さんの視線は書架の一番端を目指している。体を支え一緒に書架へ向かった。書架の隅から取り出した物を見て思わず怯んでしまった。失禁を繰り返し数日間履きっぱなしの煮染めたような色に変色したリハビリパンツに見えたのだ。思わず「垂井さんそれは・・・」と上擦った声が漏れ出る。

「どうした。これが何か解るのか」

いきなり鼻先に変色したリハビリパンツを差し出され汚臭を警戒し息を止めたがよく見ればそれは古い布切れで汚れに紛れ見にくいが、何か模様が染め付けられているようだった。

「見なさい。これが潟人の遺物だよ」

垂井さんは布切れを開くと素焼きの鉢のような黒い欠片が現れた。手に取ってもと聞くと頷いた。

 十数センチ四方位の煤けた土器らしい欠片を観察すると細かな渦巻きに似た紋様が幾つか並んでいるのが見受けられる。刻まれている渦の形も微妙に違っている。製図でもしたかのような正確な渦巻紋様が緻密に並べられていた。どうしたら素焼きの土器にこのような紋様が刻めるのだろう。もしかしたらオーパーツの欠片ではないのかと思いながらしげしげと見入っていた。

 その様子を見ていた垂井さんはこれも見なさいと欠片のくるまれていた布切れも差し出す。その布切れにも似たような紋様が藍色らしい色で染め付けられていた。

「これも潟人の遺物ですか」

突然差し出された遺物は俄に信じがたかった。正直な所、垂井さんの話を信じているわけでは無かった。認知症周辺症状の幻覚や妄想よる作話だと思っていた。それでもあの話は作話であろうと自分の心を捕らえて離さなかった。何としても続きが、結末が知りたかった。それがたとえ作り話でも。

「そうだよ。私の故郷から偶然にも持ってこられた物だよ」

また先程と同じ事を言い出し始めている。だが否定や意見は禁物だ。垂井さんが不穏になり混乱する恐れがある。傾聴に徹するしかない。

「その布や土器片に描かれている模様は渦状紋文字だ。どう思うかね」

「初めて見ます。上手く言葉に出来ませんが何か異質な感じを受けますね」

素直な感想だった。布切れや土器片が強烈な違和感を伴う禍々しい波動を放っているように感じられるのだ。そうだこの土地で日々感じていた違和感が強くなっていく感覚だ。

 垂井さんは此方の様子を楽しむみたいに観察していた。

「やはり感じるようだね。それはこの世の物ではないのだよ」

「そうなんですか」と応答に困り間の抜けた返事が漏れてしまう。

「それで、あの話の続きを伺いたいのですが」

我慢できず話の流れを切り目的を切り出す。正直な処この世の物でない土器の欠片とやらよりも伝承されたとする民話の方が聞きたい。欠片の事も気にならないでは無いが、何より欠片から発せられる重苦しい違和感から逃れたかった。

「君はせっかちだなぁ。あの話の結末の手掛かりはそこにある」

垂井さんは布切れを指差した。

「数年前だ。何時だったか・・・な。まぁいい。大体の解読は終えておるよ。もっともニュースグループやパソコン通信等で叩かれた経験から公表は控えたがね」とまじまじと布切れを見詰めた。

「潟人にとってあの話はとても神聖な潟生みの神話だ。彼等は渦状紋文字を衣類の柄のモチーフとしても使っていたようだね。神聖な文字を染め付ける事で災いを防ごうとしていた。そんな感覚だと思う」

「これが潟人の衣類の一部ですか。誰が着ていた物なのでしょうかね?」

「誰・・・」と垂井さんは言うと口籠もり頻りに唇を舐めたり忙しなくちっちっちっと口を鳴らしたりし始めた。

 しまった。何の気無しでした質問でスイッチを入れたみたいだ。NGワードを踏んでしまったらしい。

「ゲェチ・・・。ゲェチだ。彼奴がこの私を・・・」

「垂井さん。どうされました」

小刻みに震えだし顔色が赤くなっている。まずい。目付も変わり始めた。垂井さんは此方を睨み付けるがその目は何も見ていなかった。

「カメだ。カメを探さなければ・・・」

垂井さんは不意に立ち上がるが立位が安定せずバランスを崩し転びそうになる。慌てて体を支え、杖を忘れていますよと伝えるがもう垂井さんの耳には届かなかった。それからは何時もの発作状態が続き話の手掛かりや結末を聞くことは叶わなかった。しかし収穫はあった。話の結末の手掛かりは有った。しかも結末も解読済みらしい。それに垂井さんが潟人の遺物だと言っている物とあの話が関係有ること。

 それにしても垂井さんが発作状態になると叫ぶゲェチとは何だろう。いやそんなことより話の続きを何とかして聞き出したい。まだ間に合うはずだ。と怯え騒ぐ垂井さんを見守り宥めながら自分に言い聞かせた。

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