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入浴介助を終え休憩室に入ると「お疲れ様っ」と声が掛かる。先に休憩に入った女性職員の荻野と山田が昼食を終えテレビを見ながらお菓子を摘んでいた。二人は此方をチラリと見ると視線をテレビに戻した。
「お疲れ様」と返しコンビニ弁当を広げる。
やはり行方不明の柏木さんの話題は出ていないようだ。自分にその話を振ってこない。聞いて見ようかと思ったがそんな人はいないと言われそうな気がして躊躇していたが、好奇心を止められず切り出してみた。
「小野さんから話、聞いた?」
二人の視線が再び此方に集まる。
「小野さんって誰?」
山田が口を開いた。
「やだな、四月に入社してきた小野さんだよ」
二人は戸惑った表情を浮かべ「誰のこと言ってるの。小野さんって誰よ?」
顔を見合わせる二人の姿が揺らめき始めた。目を擦るとすぐさま揺らめきは治まった。
「紀田村君大丈夫?一度お医者さんに行きなさいよ。何時だったかも居もしない人が行方不明だと騒いでいたでしょ。今度は小野さんだなんて何処の誰だか知らない人の話始めるし」
山田が不審そうな声を上げる。
「そうよ。ここ最近、急にどっと新規利用者が入ってきて忙しいもの。かなり疲れが溜まっているのよ。病んでいるのよ」
荻野が同情するように話し掛けて来る。
冗談か本意なのか解らないが目の前に体温計と血圧計が置かれた。これでバイタルを測れと言うことなのだろう。二人の話題はいつの間にか介護度の高い利用者が多いくせに人員配置基準ギリギリで切り盛りするこのデイサービスの深刻な人手不足とか看護師が長続きしない事への話題へ移っていた。その場を適当なこと言って取り繕うと昼食もそこそこに済ませ、屋外に設置されたベンチへ向かった。
ベンチへ腰を下ろすと空を仰ぎ見た。施設の外は生暖かい風に包まれ、日の光は相変わらずくすみ霞んで感じられる。
まただ。それも今度は職員だ。小野さんなどいない。何故自分は小野さんがいると思ったのだろう。彼女が家族と共にこのデイサービス近くの分譲地に家を買い引っ越してきた。家族は夫と高校二年生の女の子と中学一年生の男の子がいる。ではこの記憶はなんだ。無意識に話を創作しているのか。今朝、自分は誰と話していたのだ。
こんな出来事は初めてではない。今年に入って多発している。しばらくすると徐々に記憶が薄れ、以前にそんな事件もあったのかもと思うようになる。事件も思い起こす事は出来るが遠い昔のどうでも良い記憶のように曖昧に感じられやがて気にならなくなる。何人も行方不明になっているのであれば重大事件だし、とうとう職員まで行方不明になった。しかも行方不明者を知っているのは何時も自分だけ。どう考えても自分の妄想、あるいは何らかの記憶障害だ。自分の頭はどうかなってしまったのか。真剣に受診を考えなければ。
休憩が終わりホールへと出て行くとまだ数人の利用者が食事中だった。ホールには四人掛けのテーブルが六つ並べられており。今日は二十一人が利用していた。テレビを眺めている利用者や同席の利用者同士で何か話し込んでいる姿が見える。席で傾眠している利用者も二人程見受けられた。他の利用者は静養室で午睡をしていた。珍しい光景が見える。何時も不機嫌そうな表情を浮かべている男性利用者の石田さんと笑顔絶やさない女性利用者の小宮山さんの対照的な二人が何か話し込んでいる。何か盛り上がっているようだ。二人とも認知症が進んで来ている人達だ。会話は成り立っているのだろうか。
どんな内容の会話なのだろうかと気にしつつテーブルに残っている食器を下膳する為に手を伸ばすとそれまでうとうとしていた尾形さんが突然顔を上げ「おおい」と呻くような声で呼び止められる。
「どうしました」
「サンパチが重とうてな。あれを背負って歩くのは難儀だった」
サンパチとは三八式歩兵銃の事だ。尾形さんは満州へ出兵し命からがら引き上げて来た人だ。普段は殆ど傾眠しているのだが目を覚ますと時々唐突に満州時代の話をし始める。
「とても苦労されたのですよね」と言葉を返し終わらないうちにまた眠り込んでしまった。静養室へ連れて行くつもりだったがこうなると梃子でも動かない。そっとしておき下膳した食器を届けるため給食室のカウンターへ向かった。
カウンターで食事量を記載していると湿布の強い香りが鼻を突いた。太田さんが手招きしている。彼女は重度の関節痛を患い全身にある関節の数だけ湿布を貼り付けている。湿布の数も凄いがそれによって起こる湿布かぶれの為、四角い炎症が全身パッチワークのように出来ている。
「ねぇ、ちょっと。次の利用日からしばらくの間給食をおかゆに出来ないかな。入れ歯の調子が悪いのよ。入れ歯が直るまで、ねっ」
「大丈夫ですよ。相談員に伝えておきますね」
「ありがとうね」
言いかけた彼女の口から入れ歯が半分飛び出す。歯茎が痩せて来たために入れ歯が緩くなって来ているのだ。
また一瞬の目眩。視界が渦を巻く。こりゃあ本当に受診しなければ。気を取り直し午後のシフトの段取り思い起こす。午後からのシフトはレクリエーション補助だ。今日はお手玉を使った玉入れをする予定だった。
江辺さんが動き回り始めた。帰宅欲求が強く昼食が終わると多動になってくる。要介護五だが身体はしっかりしている。ガラス張りの玄関の扉を懸命に開けようとしていた。玄関扉は受付カウンター下のスイッチを操作しなければ扉は内側から開けることは出来ない。
「江辺さん席に着きましょう。レクリエーションが始まりますよ」
「あれ」と江辺さんはガラス扉越しにエントランスを指差す。エントランスの床には二鉢の花の散った茎だけのチューリップが風に揺れているだけだった。
「何が見えるんですか?」
「舟、舟が沢山出ている」
「舟ですか」
「子供達が大きなおにぎりを食べている。可愛いねぇ。それからあれ・・・」
「あれ」に続く言葉は出てこなかった。聞き返さず彼女を観察する。虚ろな表情でエントランスを眺めている。脈絡の無い会話。彼女の言葉の前後に自分が理解できるような繋がりは何もない。
彼女には何がどう見えているのだろう。枯れたチューリップを舟やおにぎりを食べる子供達と思い込んでいるのか、それとも本当に舟やおにぎりを食べる子供達見えているのだろうか。少しの間彼女を思うようにさせ席へ誘導する。今日は言葉が通じ、席に戻ってくれたが五分も経たないうちに席を立ちホール中を彷徨い出すだろう。彼女はきっかり五分経つと席を立ちホール中を歩き回り始めた。
「何時に帰れますか」と江辺さんと入れ替わるように不安そうな表情を浮かべた鳥井さんが話し掛けてくる。
「四時過ぎにはご自宅までお送りしますね」
話を聞いた鳥井さんは表情を明るくするとお願いしますと深々と頭を下げ席の方へ戻って行く。彼女も帰宅欲求が強く数分置きに近くにいる職員へ何時に帰れるのかと帰宅間際まで何回でも何十回でも同じ質問を繰り返して来る。
レクリエーション終了後のおやつ時間も終わりホール内が落ち着いた頃、利用者のテーブルの上にどさりと洗濯物が積み上げられる。午前の入浴に使ったバスタオルとフェイスタオルが洗濯、乾燥を終え上がってきた。女性利用者が我先にとタオルを畳み始める。これには手先の機能訓練や働いていた頃の記憶に働きかける事を目的としており、何もしない何もさせてもらえない高齢者に役目を与える意味合いも含まれている。
「決まったわ」と低くドスの利いた声が背後で聞こえる。川村さんがU字歩行器に身体を預け話し掛けてきた。歩行訓練の途中らしい。彼女は重度の変形性膝関節症を患い脚はかなりの内反膝に変形していた。
「旦那の入所が決まったの」
「特養が空いたんですね」
「そう。二年半も待ったのよ。やっと楽になるわ。この身体だものこれ以上面倒みられないわよ」と苦笑いとも憫笑ともつかない表情を浮かべた。
「寂しくなりますね」
「そんなこと無いわよ。清々したわよ」
普段は夫の愚痴や悪口さんざん言っていたが今日は何となく寂しげに見える。
「これから膝のリハビリだった。PTさんの所へ行って来るわ」と歩行器を押し機能訓練士の元へ向かった。川村さんの竹を割ったような性格は会話をしていて気持ちがいい。こちらが癒されるような言葉を掛けられる場面が度々ある。他の利用者や職員への話し方や接し方を見ていると今まで重ねてきた人生の辛酸が窺い知れる。若造が何を偉そうにと言われそうだが。
彼女の印象深い話はなんでも川村さんのお父さんは太宰治と親交があったらしく父宛の太宰治の手紙を持っていたが、新聞社が貸してくれと言ってきたので貸したら紛失してしまった。と事あるごとにその話をしていた。声に劣らず貫禄のある身体は笹団子に外側に湾曲した脚が着いているよう体型だ。もう少し体重を落とせば膝も楽になるのにと川村さんの後ろ姿を見送る。
寺尾さんがテーブルに突っ伏し傾眠している。今日もレクリエーションに参加しなかった。脇には大好きな塗り絵が置かれている。菖蒲の下絵が描かれた塗り絵は茶色一色で塗り潰され、その茶色も雑な塗り方で下絵から随分はみ出していた。ほんの半年前まで手先の器用な彼女は編み物や手芸が大の得意だった。塗り絵にしてもグラディーションを上手に使いこなし繊細なタッチで色も何色も使い分けていた。状態の低下が早い。身なりや髪型にも気を使わなくなり、だらしない姿が目立つようになってきていた。この前受けた長谷川式簡易知能評価スケールではスコアが二十を切っていたと寺尾さんの近所に住む娘さんが話をしていた。娘さんはそろそろ一人暮らしは無理かしらねぇと呟き諦めきれない寂しそうな表情を浮かべていた。娘さんも介護が必要な義父母を抱えており寺尾さんを引き取る事が出来ない。やむなく施設入所の思案に暮れているようだった。
急に視界が霞み始めた。窓の光りが目に痛い。ホール内の喧噪が遠のき、耳鳴りがしてきた。腰から左足にかけてじんわりとした鈍痛を感じる。身体が重く怠い。まずいな。身体の方もヤバイ。早急に受診した方がいいと思い主任の所へ向かおうとした矢先に突然、悲鳴が上がる。垂井さんの叫び声だった。
「ゲェチだ、ゲェチが来る。寄るなぁ、近づくな、あっち行け、ひいぃぃぃぃ~!」
近くにいた職員が駆け寄り落ち着くようにと宥め始める。いつもの発作らしい。今回の騒ぎは二、三分で収まった。長い時には不穏な状態が三十分近く続く事もあった。
不意に肩を叩かれ、振り向くと今の騒ぎで汐原主任がホールに出て来ていた。
「どうしたの?朝からぼんやりしているわよ。熱でもあるの」
「さっきまで少し体調が悪かったみたいで。ご心配かけてすみません」
汐原主任は眉をひそめ此方の様子をじっくりと観察すると「直に研修へ行っている円山君が戻って来るから今日は早退して受診しなさい」
多分昼休みに他の職員に話した事が主任の耳に入っているのだ。
「もう大丈夫です。明日は公休なので受診してきます」と答え垂井さんを目で追った。体調より垂井さんの事の方が気になっていた。汐原主任は無理して身体を壊して休まれる方が大変なのよ。受診するなり身体を休めるなりして体調管理をしっかりしてね。と言い残すと事務所の方へ戻って言った。
垂井さんに何が見えていのだろうか?ゲェチとは何の事だろう。垂井さんだけが見ることが出来る何かの光景。垂井さんも症状の進行が想像以上に早い。あの話の続きを知りたい。せめてあの話の結末の手掛かりでもいい。何とか聞き出せないものだろうか。もうあまり時間が残されていない事は確かだ。垂井さんの認知症症状がこれ以上進行する前に。
郷土史を研究していた垂井さんが採取したこの地方の一部にだけに伝わる民話だが自分でも信じられないほどあの民話には執着していた。何故これ程までにあの民話が気になるか自分自身の事なのに異常だと感じられる。
それでもあの話の結末をなんとしても知りたかった。