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優しく聡明で大好きなおばあちゃん。体中から溢れ出る祖母の思い出。手を引かれ歩いた時の温もりと感触を今でもはっきりと覚えている。
祖母を思い返す時、真っ先に蓮の花が思い浮かぶ。それは祖母に連れて行かれた近所の公園の風景だ。公園の池では蓮の花が盛りを迎え空気まで薄紅色に染まり柔らかな甘い香りに包まれていた。差し色で入る蓮の葉の緑が鮮やかなアクセントになっていた。
その時の自分は辺り一面を薄紅に染める花よりも葉に溜まった朝露に目を奪われていた。様子を見ていた祖母が池の端の蓮の葉を揺らすと銀の水玉がコロコロと形を変え、光を撒き散らしながら踊っていた。不思議な光景に思わず祖母の顔を見つめると祖母は悪戯っ子のように微笑んでいた。祖母の微笑みを思い出した後には必ず胸を刺す後悔が押し寄せてきた。
小さな小売業を営む父母は共に夜遅くまで働いていた。そんな事情から日中は近所の叔父夫婦の家に預けられ自分の面倒は同居する祖母が見てくれていた。叔父夫婦には子供がいなかった事も有り、随分と可愛がって貰っていたが十歳を超えるまではほとんど祖母に育てられたようなものだ。高校で国語の教鞭をとっていた祖母はなんでも知っている優しいおばあちゃんだった。小さい頃はよく色々な絵本や童話を読んでくれた。たわいもない質問にも自分が納得するまで答え、教えてくれた。素晴らしく美味しいおやつを沢山作ってくれ、色々な知恵も授けてくれた。暖かく微笑む祖母の眼差しが浮かんでくる。
祖母に変化を感じたのは高二の春頃だった。やたら居眠りが目立つようになり、虚な表情を浮かべぼんやりとしている時間が増えていった。一番の変化は気力を感じられなくなった事だった。それでも遊びに行くといつものように優しく迎え何くれと無く尽くしてくれた。
やがて失禁した下着を隠すようになり、トイレも汚すようになっていった。祖母の部屋の異臭に気付いた叔父夫婦は箪笥の隅や押し入れに固め押し込まれている汚れた下着を見つける。
祖母はアルツハイマー型認知症と診断された。
認知症との診断結果が出てからの祖母の変化は早かった。物を取られたと突然怒り出し、暴力的言動など周辺症状を見せ始め病状は順調に進行していった。生真面目な叔父夫婦は祖母の認知症状と懸命に向き合っていた。だが叔父夫婦の介護疲れから祖母へのネグレクトともとれる関わり方へ急激に変化していった。一緒に生活している当事者でなければ分からない苦労や心労が関係性を一気に変えて行く。その苦労は知っているつもりだった。つもりは何処まで行ってもつもりで介護の本当の苦労は一緒に生活して始めて知る物だと今の職に就いて思い知らされた。
思い返せば祖母は他人との距離の取り方が上手く、嫁である叔母に対しても決してでしゃばらず裏方に徹し、良い関係を作っていたと思う。自分とて例外ではなくベタベタに甘やかされた事も無く、かと言ってきびしく躾けられた記憶も無かった。
祖母の認知症症状はじわじわと祖母の築き上げた人間関係を壊していった。日増しに易怒性を高め特に叔母が攻撃対象になっていた。掃除などで部屋に入ろうものならまた何か盗りに来たなと鬼のような形相を浮かべ怒鳴り散らした。当初は協力的だった叔父も仕事を理由に叔母に介護を任せきりになっていた。叔母は祖母の介護に疲れ果て叔父と関係も険悪なものへと進行していった。叔父の気持ちも分かるような気がする。母親の介護をしたくないわけではない。変わり果てて行く自分の母親に耐えられなかったのだと思う。
春になり大学進学の報告に久しぶりに叔父夫婦の家を訪ねた。祖母の様子も気になっていた。叔父夫婦に大学進学の報告をし、祖母にも大学へ合格したことを伝えようと叔母と祖母の部屋を訪ねた。
祖母の部屋の戸を開けた瞬間便臭が襲って来た。薄暗い部屋で弄便の為、両手を大便まみれにし呆けた表情を浮かべた祖母が佇んでいた。便臭と壁や家具に大便を塗りたくられた部屋の惨状に自分と叔母は絶句した。
「おかぁさん。なんて・・・」と叔母は声を荒げかけたが側に自分がいた事もあり言葉を止めた。しかし握りしめた拳は震えていた。叔母は今まで見せた事もない疲れた表情を浮かべ「康宏ちゃん。ごめんね。リビングへ行っていてくれる」と声を震わせ言うと大きな溜め息をもらした。便にまみれた祖母は浴室へ連れられて行った。
リビングへ戻ると状況を察した叔父は表情を曇らせ、最近惚けが進んで大変なんだと告げると目を伏せ暗い表情で黙り込んでしまった。先程までの合格報告の華やいだ空気は一変し、暗く押し潰されそうな空気がリビングを満たした。祖母の様子や叔父の気まずい沈黙に息苦しさを覚え帰ろうと腰を上げかけた時、浴室から何かが転がるような大きな音と叫び声が響き渡った。
駆け付けると叔母は脱衣室で尻餅を着いた状態で目の前には浴室越しに半裸の祖母が仁王立ちで叫んでいた。目をぎらぎらと光らせ憎しみのこもった恐ろしい目付きで叫び声を上げ叔母を罵る祖母。
あの聡明な祖母が罵詈雑言を口にするとは、あの祖母が人を貶める為の酷いボキャブラリーがこれ程豊富だとは。祖母の有様に呆然とするばかりで叔母に手を貸す事さえ出来ずにいた。
頭の中で何かが弾けた。あれはおばあちゃんじゃない。縫い物や料理が得意でワクワクするようなお伽話を話してくれ、散歩に出かければ季節の花の名前を教えてくれ、困った時には慰め励ましてくれた優しい祖母はいなくなった。
そして祖母から逃げ出した。
「片岡さんそろそろ上がりましょうか」と声を掛け特浴の排水ボタンを押した。片岡さんの瞳がこちらを見ている。もう少し入っていたかったと訴えかけているようだ。
片岡さんの浴後の医療処置の為、看護師とベッドへ移乗していると一般浴槽からヘルプを求める声が掛かる。今日は入浴介助が重い土曜日だ。入浴拒否の利用者や介助量の多い重度の利用者が大勢いた。
このデイには今時のデイでは珍しく一般浴の他、特浴とリフト浴が設置してある。その為か車椅子や重度の介護を必要とする利用者が多かった。特に今日は車椅子と認知症の利用者の多い日だ。今日の片岡さんの皮膚状態などを看護師へ伝えると急ぎ足で一般浴室へ向かった。