第八四話 眠りにつく間
「さて……これで今日の分の課題は終わりっと」
つい先日、京介らから誘われて大規模なプール施設へと赴いた蓮であったがそれから一日経った現在になっても過ごし方は大して変わらない。
今日も今日とて日課となっている授業内容の復習であったりこれから取り組む範囲の予習をある程度片付けていたがそれも粗方済んだ。
なお、多くの高校生にとってはネックとなる夏休み中の課題もとっくの昔に全て済ませてある。
ああいうのは放置しておくと後々碌な目に遭うものではないと彼も知っているので、長期休暇期間が始まると同時に着手してかなり早い段階で終わらせておいたのだ。
それはほぼ毎日のようにこの家を訪れる美穂も同様。
彼女は彼女でありがたいことに家事を負担してくれている合間、蓮と勉強会を開くことが何回かあったためその際に片付けている。
閑話休題。
よってすることと言えばせいぜいが自主学習程度しか残されていない蓮であるも、それだって取り組んでおくのとおかないのとでは追々雲泥の差が生じてくるのでしっかりと毎日のように着手している。
本日のこれもその一環であり、ちょうど区切りのつくところまで進めることが出来たので今日の勉強はこの辺りで良いだろうと判断して机上の後片付けを始めた。
と、そこでふと気が付く。
「……んん? そういえば美穂はどこに行ったんだ?」
数秒前まで目の前の教科書や問題集に集中していたがゆえにうっかり失念してしまっていたが、そういえばと部屋の中を見渡しているとここにいるはずの美穂の姿が無い。
記憶が正しければ先ほど、『今からお夕飯の準備してきちゃうから、気にしないでお勉強続けてね!』と彼女に言われて…そこからの情報が曖昧だ。
まさか外に買い出しにでも行ったのだろうかと一瞬考えるものの、今日の分の食材については当番だった蓮が既に調達し終えているためそれはありえない。
もちろん、他の用事で彼女が出て行った可能性も否定は出来ないがそれならそれで美穂の場合何よりも先に蓮へと一声かけてから出ていくはずだ。
彼自身、そんな呼びかけは聞いた覚えがないのでやはり外に行ったわけでは無いのだろう。
ではやはりこの家の中にいるはずなのだが、一切気配も感じられず音も聞こえてこないのでどうしたのかと思い蓮も立ち上がる。
……だが、その答えは意外と簡単に見つけられるものであった。
「──あぁ何だ、ここで眠ってたんだな。だったら邪魔するのも悪いか…」
自宅内を探してみようと椅子から立ち上がり、まずはこのリビングを見て回ろうと視線を動かしながら適当な場所に移動した蓮。
しかしそれも、ほんの少しだけ場所を変えてみればダイニングテーブルからでは角度的に背もたれのせいで確認出来なかったソファの上で横になり…綺麗な瞼を下ろして眠りについている美穂を見つけることができた。
規則正しい呼吸を繰り返しながら心地よさそうな寝息を立て、すやすやと微睡みの中にいる彼女の現状を見て蓮も美穂を見つけられなかった理由にこれで合点がいった。
姿が見えなかったのはこうしてソファに横になっていたからで、音一つしなかったのも身動きせず静かな寝息を立てるだけだったから。
これでは気が付きようもない。
(いちいち起こす必要もないし、このまま寝かしておこう。美穂も疲れが溜まってるんだろうし)
それに蓮も彼女が寝入っていることは特に疑問でも何でもない。
こうして日頃は彼の家に入り浸って生活を送っている美穂であるが、その実一日のスケジュールを改めて確認してみると中々に多忙な予定で動いているのだと知っているがゆえに。
いつもは何てことも無いように振る舞っていても、料理に始まり家の掃除や物の収納やら整理整頓まで。
時には蓮さえも知らぬ間に洗濯していた衣類の後片付けまで担ってくれているくらいなので、その負担は彼の頭では想像も及ばないくらいに重いものだろう。
いくら美穂から希望されたことであり、彼女自身が自主的に取り掛かってくれていることとはいえそれで彼女が背負ってくれている負荷が消えるわけでは無いのだ。
さらに付け加えるなら、ちょうど先日京介や琴葉たちと共にプールにまで赴いてくたくたになるまで動き続けていたわけで……おそらく、そういった疲労の蓄積からつい眠ってしまったといったところか。
(……いやでも、このままってのは流石にマズいか。夏でも何も掛けずに寝てたら風邪引くかもしれないし…薄めのブランケットあったよな。持ってきておこう)
──が、そこまで考えて邪魔はしないでおこうと思考を中断させかけた蓮はふと目の前で健やかに眠る美穂の現状を顧みて思わず不安に駆られてしまった。
心配しすぎかもしれないが、今の美穂はソファで横になっているだけで何か掛け布団やタオルケットを使っているわけでは無い。
いかに季節が蒸し暑い日の続く夏とはいえど、ある程度冷房の効いた部屋の中でずっと横になっていては体調を崩しかねない。
蓮がこの状況を見過ごしていたならともかく、こうして確認してしまった以上はそんな未来を黙認するわけにもいかない。
なので家のどこかに置いてあったはずのブランケットを引っ張り出し、彼女を起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら掛けてやればひとまず任務完了である。
(よし、これで風邪引くことも無いはずだ。してやれることはやった…あと気を付けておくことは、出来る限り静かに過ごしておくだけっと。………にしても、気持ちよさそうに寝るもんだ)
一つとして物音を出さないように意識して全ての作業を終えた蓮の顔はどこか晴れやかですらあった。
けれどもここまで自分に出来ることをし尽くしてしまうと、意識せずとも他の場所に目は向かってしまうもので……ここに来てようやく、蓮はもう一度よく眠っている美穂の顔を直視した。
あまり異性の寝顔をまじまじと見るのも失礼に当たることは重々承知であるが、それでもこうも間近に美穂の油断しきった姿があれば礼儀に構わず視線は引き寄せられてしまう。
…何より、寝入ったことで目の当たりにした彼女の年相応のあどけなさを前面に押し出した寝顔は彼だけが見ることのできる特権でもあるだろう。
ほとんど全ての時間を共にしているからこそ失念しかける時もあるが、こうした瞬間には彼女の容姿が優れていることを嫌という程思い知らされる。
瞼が下ろされていることで逆に強調されている長いまつ毛に、それを陰から強調させる美しい乳白色の肌。
汚れも穢れも何一つとして存在していない、ただただ純粋なまでに美穂という少女の可愛らしさだけが見て取れるこの様子は、蓮が彼女に信頼されているからこそ目撃できた一幕だ。
だから彼も、いつもならこんなことはしなかっただろうに…ふとした思いつきで彼女へと手を伸ばし──。
「……いつもありがとうな、美穂。毎日世話になりっぱなしの身だけどちゃんと感謝してるよ。今くらいはゆっくり休んでくれ」
──美穂の艶さえ感じ取れる髪を決して崩さないようにそっと丁寧に撫で、浮かべる表情を優しいものにしながら。
常日頃からきちんと伝えるように心がけてはいるものの、それでも気恥ずかしく思えてしまい面と向かっては中々言いづらい日々の感謝を言葉にした。
これは、これだけは蓮も一切誤魔化しも嘘もない本心である。
だからこそ美穂に直接言うのは少々躊躇われたのだが…まぁ、こういう時にでもなければ言う機会も無いのだ。
仮に彼女が起きていた時であれば間違いなく嬉しそうに口角を上げて揶揄われでもしたことは確定的だったとしても、眠っている今なら関係も無い。
ゆえに蓮も少し胸の内を言い表しにくいむず痒さで満たしかけて、何とはなしに頬を指で掻きながらもそれ以上は何かを言うわけでもなく安眠する美穂の傍から離れていった。
──…そのすぐ後に、心なしか耳を赤く染めていた彼女の変化には気づくこともないまま。




