第八三話 お礼と称して
結局、あれからも美穂の誘惑紛いの行動は抑え込まれるどころか余計に勢いを強めるくらいで彼の意識を戸惑わせるばかり。
幸いにも彼らのいた場所がプールの中央付近ではなく、ある程度隅に近い場所だったため目立つことこそなかったがそれでも相応に蓮の精神は削られた。
…まさかこんな場所で己の理性を焼き切るわけにもいかない上、大前提として彼女は少なくとも今は友人という間柄なのだ。
にもかかわらず、美穂に本能任せの感情をぶつけることなどあってはならない。
今もこうして彼女が傍にいてくれるのは美穂が蓮の対応を信頼してくれているから。そして彼のことを好意的に思ってくれているからこそであって…その期待は決して裏切ってはならないものだ。
ゆえに蓮も、あと一歩のところで決壊しそうになる理性を無理やり固め直して魔が差すことの無いように細心の注意を払う。
……とはいえ、内心でそういった決心を固めていようがいまいが蓮の理性を崩壊させようと積極的に企んでくるのは紛れもない美穂本人であるのだが。
まぁそこは一度放置しておく。今考えてもどうしようもない。
何はともあれそうした覚悟を持ちつつその後も美穂とあちこちのエリアを回っていき、その一つ一つで彼女の予測できない動きに翻弄されつつも──時間は過ぎていく。
ふと気が付いた頃には体感していたよりも遥かに長い時が経過していたのだと分かり、後々再び合流することが出来た京介と琴葉の二人組とも多少の時を過ごし…そうこうしている間に時刻も良い頃合いとなっていた。
「──いやー、想像してたよりもずっと楽しめたな! ここまでとは期待以上だったぜ!」
「それに関しては同意見だったよ。…まさかこうも大規模な施設とは思ってなかった」
ひたすらに楽しみつくす瞬間も惜しくはあったが次第に幕引きの瞬間が近づいていて、既に現在の蓮は京介と共にプールを上がって水着から私服への着替えも済ませている。
レジャー施設の出入り口付近まで出てきていた彼らであるが…しかし、美穂と琴葉の二人はまだ姿を現す気配がない。
まぁここに来てからそれなりに待ち時間も経過しているため、こうして男同士で他愛もない感想を言い合っている内にどこかのタイミングで出てくることだろう。
そう思いながら女子サイドの身支度が終わる頃を待っていると…不意にそれは訪れる。
「……蓮くーん! はぁ…ふぅ…! お、お待たせ! 待たせちゃった?」
「ん、来たか美穂。…随分息を荒げてるけど、もしかして走ってきたのか?」
「当然だよ! 私のせいで蓮くんを待たせるわけにはいかないし…そのためなら少しくらい疲れるのも辞さないもん!」
「別にこっちはそのくらい気にしないって。ゆっくり支度してきてくれればいいんだよ。…あと、天宮はどこ行った?」
「琴葉ちゃんなら多分もうすぐ来ると思うよ? あっ、来た来た!」
「………美穂、突っ走るのはいいけど早すぎ。相坂君に一直線なのは知ってるけど置いていかないで」
「おっ、琴葉も来たか! ならこれで全員集合だな!」
未だ多くの人の姿で溢れかえっている出入り口の近辺から、それでも尚存在感を放って彼の名前を呼ぶ声を発する彼女。
聞き間違えるわけもない美穂の姿を確認した蓮は…しかし。
すぐ近くまで呼吸を荒げながら走ってきた彼女の行動に呆れながらも迎え入れる。
後から駆け足で追い付いてきた琴葉にその動き方を咎められたことで美穂も苦笑して反省したかのように見せかけてはいるが…まぁ、だからと言ってやめるつもりも無いのだろう。
向こうの指摘通り、あらゆる行動原理が蓮に基づいている彼女の無茶を止めてやれるのは彼だけだ。
なので蓮の方からもそれとなく注意はしておき、しかしどんな過程であろうと四人全員がこの場に揃ったことで状況は次へと動く。
「んじゃ、無事に全員戻ったことだし今日は解散とするか? 蓮はどうする?」
「俺もかなり動いて疲れてるし、このまま帰ることとするよ。美穂がまだどこかに行くってんならまた変わってくるが…」
「私も流石に今日はずっと遊んでて疲れちゃったから、これ以上は寄り道もしなくていいかな。一緒に帰るね!」
「了解。そういうわけだから、こっちはこっちで帰るとするよ。京介は天宮のこと送ってくるんだろ?」
「おうよ! 当然だ!」
四人が揃ったとなればこれ以上この場に留まる理由はなく、自然と流れは帰宅の方向に転がっていく。
それも特に誰かから反対意見が出されることは無かったために、おそらくはこのまま現地解散ということで今日一日の集まりも終わりを迎えていくことだろう。
「じゃあ、琴葉ちゃんとはこれでお別れかな? 少し寂しいけど…またすぐに会えるもんね!」
「ん……その通り。それに寂しがらなくても、また連絡してくれたら一緒に遊べる」
「だね。琴葉ちゃん、帰り道も気を付けてね? 最近は物騒だから女の子は注意しないと駄目だから!」
「…それは美穂に同じことを返す。まぁ……また今度、ね」
「蓮も気を付けろよ! しっかり鐘月さんのこと責任もって家まで送れな!」
「言われずとも、最初からそうするつもりだ」
するとその予想に反することなく場の雰囲気はこれで解散という方向に舵を切り始め、美穂と琴葉も少し寂しそうにはしていたがすぐにまた会えると結論付けると大人しくそれぞれの道に分かれていく。
蓮もまた、京介から先んじて言われてしまったが忠告されるよりも前より美穂を自宅まで送り届けるつもりはあったのでその通りに動いていく。
そうして今日集まった時には長く続くと思われていた時間もいつの間にか幕引きとなり、ふと空を見上げてみれば日も落ち始めている光景が確認出来た。
◆
「んふふ~……ふふ」
「どうした美穂、随分とご機嫌みたいだけど。楽しいことでも思い出したのか?」
「ふへへ…間違ってもないよ? 楽しいことというより、ちょっと嬉しかったことを思い出したら口元が緩んじゃった」
「嬉しかったこと? なんだそれ」
帰路の道すがら。
蓮と美穂はいくつか電車を乗り継ぎようやく見覚えのある自宅近辺まで戻ってきていたが、そんな折に彼女が奇妙な笑い声をこぼしていた。
脈絡もなくそんなことをされたために蓮も気になってしまい、思わずどうしたのかと質問してしまうも彼女は言い淀むこともなく答えを返してくれる。
…そして、その問いに対する蓮の驚きもセットとなって。
「もちろん今日のプールもすっごく楽しかったし良い思い出にはなったよ? でもねぇ…ずっと気になってたんだけど、蓮くん。多分今日一日、私のことを周りの視線から守ってくれてたよね?」
「…っ。…さぁ、何のことだ?」
「誤魔化さなくてもいいよ。私だってずっと蓮くんがしてくれる気遣いを見落としたりはしないもん」
──彼女が何気なく伝えてきた喜びの根本とは、今日それとなく注意していた蓮の動向そのもの。
よもやバレることもないだろうと思っていただけに、それが彼女に見破られていたのだと知って反射的に驚愕の感情を表に出しかけるも…そこはギリギリのところで堪える。
まぁ、煙に巻こうとしたところで彼女の目ざとさから逃れられるわけもないのだが。
「ずっとずっと、一目見ただけじゃ分からないけどさりげないところで私を周りの視線から守ってくれたり、男の人が多い場所には近寄らないようにしてくれてたよね。でも私には何も言ってこなかったから、優しいなぁ…って思ってたの」
「……それは美穂の気のせいだよ。たまたま俺がそうやってる風に見えてただけだろ」
「…じゃあ、蓮くんが認めないならそういう事にしておくよ。でもね? 私にも気を遣ってくれたことはすっごく、すっごく嬉しかったから…ねっ、少し屈んでもらってもいい?」
「…? …屈む? それくらいはまぁ、いいけど…」
どれだけ言い訳とそれらしい説明を重ねたところで、美穂を誤魔化せるはずもなく彼女は全てを分かったというように優しく微笑んで彼だけを一心に見つめていた。
その瞳には計り知れないほどの愛情で満たされていて…もう抑えも通用しないほどに高まった蓮への愛おしさが溢れているようでもあって。
だから彼に対して屈んでほしい、なんて妙なお願いをされてしまっても余計な害意は一切感じ取れず。
おかしな気配も感じ取れなかったために蓮も大して警戒せず、狙いは分からないがひとまず彼女の要望に従って………次の瞬間。
「んふふ、ありがとっ。…だからこれは、今日一日守ってくれたお礼だよ。──んっ」
「…………ぇ」
特に疑問に思うこともなく、抵抗もせずに身を屈めた蓮の頬に向かって──お礼と称してキスをしてきた美穂の動きにも、咄嗟に対応することは出来なかった。
「…えへへ、今日はこれで我慢してね? 流石に唇にするのはまだちょっと恥ずかしいから…それはまた今度の機会に、ね。…ほらっ、早く蓮くんも帰ろっ!」
「……………やられた、美穂のやつ…」
いくら何でも今の一連のやり取りにはさしもの美穂でさえも羞恥心を刺激されたのか、頬に唇を近づけた後の彼女は微かに頬を赤らめていた。
それでも健気に彼への感謝は欠かさず伝えていたわけだが…それ以上に被害が甚大なのは蓮の方である。
彼は不意打ちだったために自然と受け入れてしまった彼女のキス……加えて、今も尚その際の感触がバッチリと残ってしまっている唇の質感が記憶に焼き付き、さらに今の一部始終の意味を理解してしまった。
まさかこのタイミングで美穂から、頬とはいえ口づけをされるなど夢にも思っていなかったために動くことが不可能だった。
しかしそれに対して今更文句をこぼしたところで今しがたの事実が消えるわけでは無いし、まさにしてやられたといった思いだけが彼の胸中を駆け巡っている。
──その後、何となく今の出来事を思い出してしまい気まずくなりつつも、蓮は美穂を彼女の自宅にまで送り届けるというミッションだけは意地で完遂した。
なお、さらにその後に蓮が自分の家に帰ってからこの時のことを思い返してしばらく眠れなくなる未来が待ち受けていることはまだ彼自身も知らない事実である。




