第五一話 終わりを迎える時
「はぁ~…夢中になって見てたらあっという間だったよ。もう終わりなんだね…」
「その感覚も分からないでも無いけどさ。まぁそれだけ美穂が引き込まれて楽しんでたってことの裏返しとも言えるんじゃないか?」
「うぅ…! …確かにそうなんだけど、だとしてもこの喪失感は慣れないんだよぉ…!」
楽しみな時間を待っているまでの間はひどく長く感じられるというのに、実際にその時になってみれば楽しい出来事の最中にある瞬間はすぐに過ぎ去ってしまう。
つい数分前までは観客による拍手喝采や感嘆の声ばかりが上がっていた会場全体にもその空気は蔓延しており、終了時間を迎えたショーを見終えた観客たちは我先にと席を立って場を後にしようとしていた。
それでもそのような中にあって、誰よりも楽しんでいただろうと言えそうなほどにこのイベントを満喫していた美穂もまた楽しい時間が終わってしまったことを嘆いている。
客観的に現実を捉えればそれもまた仕方のないことではあるのだが、そういった理屈だけでは納得しきれないのがそのやるせなさでもあるということだ。
「まあまあ…でも美穂が楽しめたって言うなら良かったよ。誘った甲斐もあるってもんだ」
「うん、それは間違いないよ。…ふふっ。だけど今日一日楽しめたのは、水族館に来れたからって理由だけじゃないからね?」
「ん、だったら何だって言うんだ?」
「それはねぇ……こうやって蓮くんと一緒に来れたから。それが一番嬉しかったんだよ!」
「…っ!」
だが美穂もいつまでもそうして項垂れているわけではない。
蓮の言葉に返答するのを契機に気分を切り替えたのか、一気に顔を上げながらあちらが返してきた言葉は今日を通じた感想にも近い。
元々それを狙っていたわけではないが彼女に楽しんでもらうことを優先目的としていた蓮としてはそれだけは確認しておきたかった。
なので何気なく尋ねてみると、向こうの返事は一切の迷いもない即答。
今回の遊びは良い思い出として残ることになったと返してくれた美穂の言葉に蓮もまた安堵しようとして……その直後に付け加えられてきた一言。
今日を楽しく過ごせたのはこうして思わず目を引くようなイベントを見られたからでも、多くの魚の様子を観察できたからでもない。
ただ一つだけ、蓮と共に過ごすことが出来たからだと言い切ってくる彼女の言葉に蓮も驚きを隠せなくなる。
「えっへへ…なんかこうやって言うのも照れくさいけどね。でもでも、これが私の本心なので! …だから、今日は誘ってくれてありがとうね。蓮くん!」
「…あぁ、いいよ。こっちとしてもそう思ってくれたなら何よりだし、それに──…」
「それに、なぁに?」
「──いや、何でもない」
「……?」
あまりにも真正面から振るわれてくる美穂の発言は、どこまでいっても真っすぐだ。
その言葉に込められた情感さえも、彼に向けられる穢れなど微塵もない笑みでさえも。
どこを取っても彼に対する純粋な好意によって形成された彼女の行動一つ一つが、蓮自身の心の深くまで入り込んでくるような優しさで満たされている。
もしこのシチュエーションを知り合いに目撃されていたとすれば、それだけでも彼らの関係性が単なる友人同士でしかないなんて事実は疑われるに違いない。
それほどまでに今の美穂が彼に向ける視線は熱を含んだもので…蓮もまたその点をしっかりと認識しているからこそ胸の奥から込み上げてくる感情を必死に誤魔化そうとしているのだ。
──そして、同時にこうも思う。
美穂は蓮に対し特別な感情を持ったように振る舞ってくれているが、彼は決してそんな想いを向けられるに値するような人間ではない。
特別な価値があるような人間ではないと……心の片隅で訴えてくる声に、蓮はズキリと痛む記憶を自覚していた。
◆
「う~ん……ふぅ。結構歩き続けだったから疲れもしたけど、やっぱり楽しかったね! 今日は来れて良かった!」
「ならこっちとしても一安心だ。これで普段の貸しも返せた……わけはないか。この程度で返せるほどの恩じゃないわな。俺が美穂から貰ってるものは」
一大イベントであったイルカショーが終わってしまえばめぼしい箇所はほとんど残っておらず、それなりに時間もあったことで水族館の観賞すべきポイントはほぼ全て制覇出来た。
ゆえに彼らは特に示し合わしもせず自然とここいらで帰ろうかという結論に達し、時間との兼ね合いもあってか同じように帰宅する人の波で溢れた入場口近く。その隅にある人気のないスペースまで戻ってきていた。
そこで美穂は今日の出来事を振り返って満足げな声を漏らし、同様に蓄積していた疲れを吹き飛ばすように大きく伸びをする。
ただその際に、彼女が伸びをしたことで必然的に強調された胸が柔らかな弾力を主張するように大きく弾んでいたが…そこは目を逸らしておいた。
それよりも今は、この一日を総評して楽しかったと言ってくれる彼女の言葉に反応しておきたい。
(だけど、本当に来て良かったな…最初は小春さんに言われて来てみたけど結果的には美穂への恩返しにもなったわけだし、慣れないことでもしてみるもんだ)
今日を通して出来上がった新たな思い出を洗い出しでもしているのか、浮かべられた柔和な笑みを目の当たりにすれば美穂が今回のことを喜んでくれたのは疑う余地もない。
当初は他の誰かを適当に誘ってみようかなどと考えていたが、こうして終わってみるとこの選択が最善であったのだろうとさえ思えてくる。
「まぁ、今日がこんなに楽しいものになったのは全部蓮くんのおかげだよ。私一人で来るのでも、他の人でもここまで楽しめるわけじゃないの。…蓮くんだから良かったんだよ!」
「……そう、か」
…が、そこで美穂が伝えてきた言葉は先ほどのものと大して変わらない。
緩み切った口元を見せながらも彼の顔を下から覗き込むようにして、今日の楽しさは蓮のおかげだと微笑みながら語り掛けてくる。
その言葉に嘘はない。そんなことはもう蓮でも分かっている。
だが、だからこそ思うのだ。
どうして美穂は自分に対してここまで好意をアピールするような言動を公にしてくれるのか。
無償の善意とも言い換えられるほどに彼へと尽くし、飽きる様子も熱が冷める気配もなく屈託もない笑顔を向け続けてくれているのか。
…自分にそんな価値があるとは到底考えられない身としては、彼女と出会った時から唯一それのみが消えない疑問として残り続けていたのだ。
「……なぁ、美穂」
「うん? どうしたの蓮くん?」
「急にこんなこと聞くのもどうかと思うけど…一つだけ聞いても良いか?」
「聞きたいこと…? もちろんいいよ! 何でも聞いてくれていいから!」
ゆえにこそ、そんな思考があったがためにこんな唐突なタイミングで彼女に問いを投げてしまったのかもしれない。
無意識に浮かび上がってきていた過去の経験。それを想起させるアクションが何度もあったことで、意図せぬうちに彼女にも…どうして自分の近くにいてくれるのかを。
その理由を尋ねようとしたのだろう。
「──美穂はさ、何で俺なんかの近くに居てくれるんだ?」
「……蓮くん?」
「すまん、いきなり変なことを聞いてるって自覚はある。ただどうしても…聞いておきたいんだ。じゃないと、俺も…納得できそうにないんだよ」
会話の脈絡が無さすぎたことは彼も分かっている。
そのせいで美穂は突然の話題を振られたことで不意を突かれ、ポカンと呆気に取られたような反応を示してしまう始末。
しかしそうだとしても…ここで確認をしておかなければ蓮も自分で自分を納得させられない。
今まで彼の中で、美穂が自分の近くに居てくれるのはあの夜に彼女を助けた際の恩があったからだと思っていた。
そうしてそこに付加された強烈なインパクトがあったからこそ、美穂の記憶に吊り橋効果にも似た強い印象を与えたことで余計な熱に浮かされてしまっているのだろう、と。
だから彼女との縁はすぐにでも途切れるものだと考えていた。
けれどもこの予想に反し、美穂の距離感は遠のいていくどころか…時間を経るにつれて縮まってくるばかり。
ゆえに蓮も…分からなくなってきていたのだ。
彼女の内心に抱えられた感情が、彼に向けられている情感が。
もしや、自分の思っていた一時的な熱とはまるで異なるものなのではないか…と。
…もちろん理解している。そんな都合のいいことはありえない。
周囲の誰かから純粋な好意を向けられるなど、そんなことをされるほどの価値を持ち合わせていない蓮では美穂ほどの魅力を持った少女とは釣り合っているわけもないのだから。
よって、これはそのための確認作業。
聞かずとも分かり切った答えを聞くための、ただ彼女の口から恩のある相手にその貸しを返すためにいるだけだという回答を聞くためだけの質問。
──しかし、万が一。
美穂から語られる理由が全く違うものだった時、自分はどうしたらいいのかと思考の沼に沈みかけて……それよりも早く、彼女の透き通るような声が静かに響く。
「私が蓮くんの近くにいる理由、かぁ…あんまり難しいことじゃないし、今更な気もするけど……そうだね。じゃあ教えてあげる。蓮くんの傍に私が居続けるのはね──…」




