第五〇話 魅力溢れるもの
「わぁ……思ってたより人がいるんだね。これだと座るのも大変かも…?」
「夏休みだし、大々的なイベントでもあるから人も集まるんだろうな。俺たちだって同じようなものでもあるしさ」
「確かにねぇ…じゃあどこ座ろっか? こういうのって前の方の席に行くと水しぶきで濡れそうだけどそっち行ってみる?」
諸々の経緯もあって気が付けば時間も過ぎ去り、ふと時刻を確認した時にはもうじき目的としてはイルカショーが開幕される頃合いになっていた。
なので美穂と蓮の二人は一目散に会場となっているステージを訪れ、満席と言うほどではないがそれなりに埋まっている座席の一面を見てどこに座るかと話し合う。
なお、この間でも彼らの手は繋げられたままである。
先ほどの一件からほとんど無理やり握りしめられた手ではあれど、蓮の勝手な一存で離すわけにもいかなくなってしまったので美穂が満足するまで繋いでいるのだ。
いつ解放されるのかは知らない。それら全ては彼女次第である。
ともかく、そんな座席を巡る相談ではあったが彼女の言うように前方の席に座るのは…蓮の意見だと少し反対よりに近い。
「前か…悪くないけど、今回はやめておいた方がいいかもな」
「え、どうして?」
「だってほら、水しぶきが上がったら絶対こっちにかかってくるだろ? そしたら濡れた時の影響で……その、お前の服がだな…」
「──あっ、そういうことだね!」
というのも、イルカが優雅に泳ぎ回る水槽に隣接した前方の席は当然ながらショーとの兼ね合いもあって盛大な水しぶきを浴びるだろうことは想像に難くない。
そしてそうなれば…水に塗れることで波及するであろう出来事。
今日この時のために来てくれていた美穂の身に纏っている白のブラウスが透けてしまい、その下にあるだろう物が白昼の元に晒されてしまうことも十分に考えられるのだ。
「言われてみれば水に濡れたら服が透けちゃうこともあるもんね。まぁ、私としては蓮くんに下着を見られるくらいなら構わないどころか歓迎なんだけど…」
「……俺に対してもしっかり警戒心は持っててくれ」
「でも、こんなに人が集まってる場所だとどこから見られちゃうか分からないもん。ちょっと見えにくいかもだけど後ろに座ろっか」
「そうしよう。なら早いところ席を確保して──…?」
「あ、でもね? …蓮くん、ちょっと屈んでもらってもいい?」
「…? どうした」
流石にそれは許容できない。
美穂にしても、あられもない姿を衆目の下に晒すのは望むところではないだろう。
なのでここは無理にリスクを取るのではなく無難に後列の席に向かうこととして一件落着となる。
……だが、そこで不意に彼女から少し屈むように言われたのでその通りに目線を美穂へと合わせる。
すると、そっと彼の耳元に近づけられてきた彼女の口から…他の誰にも聞かれない程度の声量でこう囁かれる。
「──蓮くんがお願いしてくれるなら、別に私は下着くらい見せてもいいからね? 流石にここじゃマズいからもしそうして欲しいなら後で教えて?」
「ぶ…っ!? な、何言ってるんだよ…!」
「むふふ~…こうでも言わないと蓮くんは見せて欲しいなんて言わなさそうだからね。なのでこっちから先に許可を出しておきます!」
「出すな、そんなこと! …いいから早く行くぞ。今のは聞かなかったことにしておくから」
「えぇ~…こっちが良いって言ってるんだし遠慮なんてしなくていいのに~!」
「もっと自分を大切にしろってことだ。…はぁ。心臓に悪いっての」
…耳元で囁かれてきた発言の内容は、何とも悪魔的な誘惑に過ぎるもので。
熱っぽさを含めた吐息混じりの、蕩けるかのような声色と共に告げられたことでとてつもない威力を有した誘惑と化していたが…ギリギリのところで理性を抑え込むことに成功する。
しかし…ああも露骨に直接的なことを言ってくるのは勘弁してほしい。
向こうにそうした意図があるかないかは置いておくにしても、悠斗とて一介の男子高校生なのだからあんなことを言われれば多少なりとも理性が揺らぎもする。
もちろんそんなことを要求するつもりは微塵もないが、それはそれとして美穂ほどの美少女からまるで誘うような言動が繰り返されれば擦り切れるものも少なからずあるのだ。
「…はっ! もしかして蓮くんの好みからしたらお家で二人の時にこっそり見せた方が効果的なんじゃ…もしそうなら後で試してみないと…!」
「……何言ってるんだよ」
「いたっ!?」
「いいから早く行くぞ。でないと席が埋まる」
しかしまだ懲りていないのか、辺りにはそれなりに人がいるのにも関わらず何やら怪しげな画策を続けようとする美穂を連れて蓮は後列の席へと歩き進める。
なお、その道中で彼女の口から語られていたことについて今は考えないようにした。
…この後に待ち受けている可能性が出てきてしまった困難。
美穂の手によって何が仕掛けられているのかを考えると言い表しようもない恐怖心が芽生えそうにもなるが、それを危惧したところで意味は無し。
追々やってくるだろう誘惑を前に理性を保てるかどうかは、未来の自分に託すしかないのだ。
馬鹿なことを言いだした彼女を正気に戻すため、額に軽くデコピンを食らわせてやったのでそれが効果を発揮することを祈るばかりだ。
色々とトラブル…あれをトラブルと表現して良いものかは判断に困るところだが、ともかく本格的に場が混雑する前に座席も確保できた。
ちょうど蓮たちが訪れた時が混み合う時間帯の境目だったようで、次々と入場してくるお客の姿を目の当たりにしていると──いよいよその時もやってきた。
会場に流れるスタッフのアナウンスと共にそのフォルムを見せ始めたイルカの優雅な泳ぎによって、場の盛り上がりは最高潮と化す。
「はあぁ…! 凄いよ蓮くん! 今の見てた!? イルカってあんなに水中から飛べるんだね!」
「見てたから落ち着けって。その調子じゃ体力も持たないぞ?」
「だってこれを見たら落ち着いてなんていられないよ! それに動きだけじゃなくてイルカ自体も可愛いし…」
無論、それは単なる他人事ではなく美穂も含まれたことだ。
さっきからイルカが一つアクションを起こすごとに興奮した様子で彼の服を引っ張り、内心の感動を示すように語り掛けてくる。
その姿はいつもの頼りがいのあるものとはかけ離れ、年相応の子供らしさを全開にしたものとなっている。
…この水族館に来てから幾度も目にした彼女の様相ではあれど、こういうのも悪くはない。
普段はその頼もしさからついつい世話になることを受け入れてしまっているが…美穂とてまだまだ一人の女子高生に過ぎないのだ。
他の誰かから寄りかかられたままというのは体力的にも精神的にも良くないことであろうし、今日こうして彼女を誘ったことで少しでもその借りを返せたのなら…結果的には良かったのだろう。
(……あ、また前の方の人ら水被ってるな)
ちなみにそのようなことを考えている間、ふと蓮が視線を下の方に向けてみるとそこではイルカが跳ねた際の衝撃で流れてきた水を頭から被る観客の姿が見える。
最初に蓮が懸念していた通りの光景が繰り広げられているわけだが、それでも実際にあの場にいる人は全員が楽しそうな表情でその状態を受け入れている。
まぁ、こういった場では蓮と美穂のように安全圏からショーを楽しむ人もいればあの人達のようにショーに巻き込まれる形を楽しむ者もいるということだ。
今回は濡れた場合のリスクを考慮して彼らは後方列に移ったものの、あれはあれで存分に今の時間を満喫しているとも言える。
(美穂に水を浴びさせるわけにはいかないからな…場合によっては風邪とか引かれかねないし。…美穂がそれをしたいって言うなら話は別だけども)
どちらにしてもこのイベントを楽しめているのならそれで良いのだからどちらが良いとか悪いとか、そういった話ではない。
ただ今日に限っては彼女の状態を加味して考えた結果、こちらの方が良いと判断したまでのことである。
(美穂は…楽しめてそうだな。なら俺がここまで来た甲斐もあるってことか)
そうして今も尚隣に座っている彼女の顔を見てみれば、その表情は疑いようもないほどに満開の笑顔が咲いている。
目の前で展開される芸やインパクト溢れる景色に意識が集中し、楽しんでくれているのは一目見ただけでも分かるほどだ。
ならば良かった。
美穂が楽しめているのなら…日頃から貰いっぱなしの身である蓮も彼女に何かを返してやれたのならそれが一番だと、彼はそう思った。




