第四一話 名前の価値
「なぁ、鐘月…急にどうしたんだよ。そんな態度変えたりして…」
「……………」
あまりにも美穂の変化がいきなり過ぎたので蓮も困惑せざるを得なかったが、何度呼びかけても彼女の様子が改善される気配はない。
先ほどまではごくごく普通に会話に参加していたというのに、蓮が小春との対話を交わしてから一気にこのような様相になってしまった。
何とか機嫌を回復してもらおうと恐る恐る声を掛けてみるも、それは叶わずむしろ呼びかけるほどに不機嫌さが増していくのか首をそっぽに向けてしまう始末。
一体全体どうしてこんなことになってしまったのか。
まるで見当もつかないので蓮も諦めかけそうになるが…そんな考えが彼の頭に浮かんだ時。
それまでムスッとした顔持ちでありながら何かを主張するように彼の服の裾を引っ張っていた美穂から短い文言が告げられてきた。
「───…まえ」
「え?」
「…名前! 相坂くん、私のことはずっと名字で呼んでるのに…お母さんのことはすぐに名前で呼ぶなんてちょっと不公平だよね? ね!?」
「……えぇ?」
…自分の頬をこれでもかとパンパンに膨らませながら、彼女の母である小春のことを名前で呼んだ蓮に対し美穂は未だに自身が名字で呼ばれていることに不満をお持ちだったらしい。
確かに蓮は今まで彼女のことを名字で呼んできたが、これはつまり…こういうことか。
要するに、自分のことも名前で呼べと。
ただその要求は…蓮にとって非常に難度の高いことである。
何せ今までの彼は情けないことに同級生の女子と親しく接してきた経験が少なく、唯一友人である京介の彼女ということで琴葉との交流があるくらいだ。
それに琴葉にしても名前呼びはしておらず、普段から名字で呼び合っているので正真正銘蓮が女子のことを名前で呼んできた経験はなかった。
ゆえに相手が美穂とはいえその行為はハードルが高すぎるのだが………。
しかし、このままでは美穂の機嫌が直らないのも事実。
付け加えるなら彼女のことを名字で呼ぶたびに不機嫌さが加速してしまっているようなので、実行に移すなら今この時しかない。
…蓮に選べる選択肢は二つ。
ここで自分の羞恥心が刺激されることは耐え抜いて彼女のことを名前で呼ぶか、それとも美穂の言外の要求に応えずに現状を貫き通すか。
あと補足するとすれば、今この場には彼らだけではなく微笑ましそうに二人のことを見つめている小春の存在があるため親の目の前でやらなければならないという状況も付加されてしまっている。
だが、まぁ…もうこうなったら美穂は譲らないだろう。
チラリと一部始終を傍観していたであろう小春の方に目をやれば、向こうは向こうで『こちらのことは気にしないで続けていいわよ?』という意思をアイコンタクトで伝えてきていた。
内心、何故ここまで頑なに名前で呼ばれることにこだわっているのかは甚だ疑問であるが…軽く溜め息をこぼしながらも、蓮も仕方ないとそうする覚悟を固めた。
未だこちらのことを見ようとはせずに自分は不満だという意思をありありと浮かべている美穂へと、蓮は……小さくも確かな声量で呼びかけた。
「───…美穂。これでいいか?」
「………!」
蓮が胸中で照れくささを湧きあがらせつつも、彼女の名前をそう呼べば。
そっぽを向いていた美穂は一瞬ビクッと身体を揺らしながらも、先ほどまでの不機嫌さ全開の様子から一気に回復していき…途端に嬉しそうに口元を緩め切っていた。
「ふへ…え、えへへ…想像以上に嬉しいね、これ…! ねっ、もう一回呼んで!」
「……美穂」
「むふ…ふふふ…! ちょ、ちょっとマズいかも…これ、嬉しすぎて表情が戻らないよ…!」
ただ名前を呼ばれただけ。
美穂ほどの美少女であればそんな経験など数えきれないほどに体験してきただろうに、こうして蓮が彼女の名を呼ぶと傍から見ても判別できるほどに美穂は蕩けそうな嬉しさを全身で表現している。
自分の手で頬を押さえながらどうにか普段の表情に戻そうとはしているようだが、それすら出来ないほどに今の彼女は感情の高まりが暴走気味のようだ。
「…そ、そうだ! 私のことを名前で呼んでもらったんだから、今度はこっちも呼ばないと失礼だよね!」
「いや、そんな無理してやることじゃ……」
「ううん、こういうのは自分がやってもらうだけじゃ駄目なの。だから、その……れ、蓮くん?」
(……っ!?)
──ただ、その直後。
浮かれ切った様子の美穂はまた唐突に何かを思い至った有様で今度は彼女の方が蓮を名前で呼ぶと宣言し、すぐさま有言実行に移してきた。
……が、その姿を目の当たりにした蓮はというと彼女のあまりの可愛らしさに目を奪われかけた。
流石の美穂も彼のことをいきなり名前で呼ぶのは慣れていなかったからか、少し恥ずかしそうに俯きながらも上目遣いで呼びかけてくる。
しかも込み上げる羞恥心ゆえか頬は微かに紅潮し、潤んだ瞳を向けられながら異性に名前呼びをされるシチュエーションというのは…破壊力が凄まじすぎた。
「こ、これもちょっとだけ恥ずかしいけど…これからはこうやって呼ばせてもらってもいい?」
「……それはいいけど、頼むから外では控えてくれ」
「え? どうして?」
「………俺の理性が危ういからだよ」
「……?」
真正面から受け止めるには込められた威力が高すぎたこのやり取り。
いずれ慣れる時が来たならば自然と口から出るようにもなるのだろうが、そうではない今この時に限っては…蓮の理性が揺らぎかけるくらいには魅力的な要素が詰め込まれ過ぎていた。
いきなりの過剰摂取は危険と判断したため、美穂には家の中なら良いが外ではその呼び方はなるべく控えるようにと要請を出すレベルであった。
「ふふふ~…二人が仲良しみたいで私も嬉しいわよ?」
と、そんなこんなを傍観者の立場から眺めていた小春からはそのような感想が出されてしまう始末であったが、最終的には…まぁ、美穂の機嫌も直せたようなので良しとしておこう。
◆
「…なんかその、申し訳ありませんでした。見苦しいところをお見せしてしまって…」
「いいのよ~! 美穂と相坂さんの仲が良いんだって再確認も出来たし、それにぃ…久しぶりに若い子の甘いひと時を間近で見られて大満足ですもの!」
「…あの、自分と美穂は別にそういう関係じゃありませんからね?」
「大丈夫、分かってるから! 人から指摘されると認めづらいものよね…」
「いえ、だから本当に自分たちは違うので…」
その後、何故だかこのタイミングでお互いを名前呼びすることが決定した彼らであったがそのあれこれを目撃していた小春に訳が分からない弁明を重ねていた。
別に先ほどのあれはそういった男女の仲云々という事情があったわけではなく。
単純に美穂も母のことだけを名前で呼び、自分はそうではないという状況を不公平に感じたからこそ言い出してきたことだと思われるので特別な感情があるわけではないのだ。
残念ながら小春にはそういった説明が一切通用せず、それどころか言い分を重ねていけばいくほど『自分は分かっているから、そんな無理して否定しなくてもいい』というリアクションをされるのでやりにくい。
……ただ、そんな雑談を交わしていたからこそ改めて思うがこうして向き合ってみると小春は高校生の娘がいるとは到底思えないほどに綺麗な容姿を持っている。
美しさすら感じられる所作ももちろんだが、全体のバランスからして美人であると断言できる見た目には張りのある若々しさしか見て取れない。
年齢にしても二十代前半だと紹介されてしまえば疑いもせずに信じてしまうくらいには、放たれる雰囲気というものが整えられているのだ。
(…でも、実際のところはどうなんだろうな? 美穂が今高校一年なわけだから流石に二十代ってことは無いだろうし。ということは、こう見えても小春さんは実年齢だともしかしたらよんじゅ──…ッ!?)
だがそれでも、見た目だけで判別される情報と実際の情報は異なっているに違いない。
既に一時の母だというのならいくら若々しくともある程度の年齢は重ねられているはずで、その要素を統合していけばおのずと真実は見えてくる。
なので蓮も表情には出さず脳内でそんなことを考えて……急激に襲い掛かってきた悪寒に身を震わせた。
「…うっふふふ? 相坂さん? もしかして今、何か頭の中で考えていらっしゃったかしら?」
「……は、ははっ。い、いえまさか。何も考えていませんよ…」
「そーう? なら私の勘違いだったみたいだけど…次変なこと考えちゃったらめっ、てしちゃうかもしれないわよ?」
「………肝に銘じておきます」
──とてつもない悪寒を感じた方向に恐る恐る目を向ければ、そこにはさっきまでと何ら変わらぬ様子で席に腰掛けていた小春の姿。
されど向けられてきた穏やかな言葉とは裏腹に、こちらの思考など容易く見抜いていそうな声色と…表情とは対照的に、全く笑っていない瞳に射抜かれてしまえば下手な自殺願望など抱こうとすら思えなくなる。
……とりあえず、女性の前で不用意なことは考えるものではないと蓮は強く学習した。




