第三七話 始まる夏の日々
無事に……一部の者からすれば全く無事ではないがともかく懸念点の一つでもあった定期試験は過ぎ去り、残すところは待ち遠しく思われていた夏休みを迎えるのみ。
テストさえ終わってしまえば学校の方もこれといった授業は行わず、一気に校内の雰囲気も休み一色のものとなりつつあった。
そうして今日この日、いよいよ休み前最後の登校日となったわけだがそれも長くは続けられず、長期休暇中の心構えや注意事項なんかを一通り聞かされたら終了となる。
これでようやく、大半の生徒にとっては煩わしく思われていただろう授業からはしばしの間解放されるわけだ。
心なしか軽やかな顔つきになっている同級生の姿が見られる中、そんな場所に蓮たちもいるわけで……そこでしばらくは離れることになる友人との会話を交わしていた。
「……で、それで試験の成績が最悪だった罰として課題を大量に増やされたと」
「あぁ。最初は夏休みが補講の地獄になるところだったんだがな…必死に頼み込んでこうしてもらえた。危なかったぞ…」
「…言っておくが何も誇れないからな、お前」
蓮と向かい合いながらその両手に抱えられた、文字通り山のようなプリントの束を持つ京介の姿。
つい先日試験の結果が散々だったことから、担当教員から休み中に成績を補填するための補講をみっちり叩き込まれそうになったとのことだったが…交渉の末、夏休みの課題を増やすことで手打ちにしてもらったらしい。
…正直事態は何も好転していないので格好つけながらそう語られても困るだけなのだが、本人がそれで納得しているのなら何も言うまい。
「けどこれでしばらく蓮とはお別れだからな。…夏休みでも絶対にスケジュール合わせて遊びに行こうな!」
「予定が空いてたらな。…つーかお前の方は、俺よりそっちの方を優先しろよ」
少し前の燃え尽きて真っ白になっていた様子とは打って変わっていつもの調子を取り戻した京介であるが、そんな友から休みであってもどこかに出かけようとの誘いが来る。
別にそれ自体は蓮も構わない。
…が、彼以上に優先させるべき相手がいるだろうと蓮は京介の腕に絡みつくようにして抱き着いている琴葉の存在を指さした。
「………心配せずとも平気。もう私たちは夏休みの予定は決定済みだから」
「…あ、そうですか」
「へっへっへ…こっちのことを心配してくれるのは嬉しいがな! 琴葉の言う通り、俺たちのスケジュールは夏休みの終わりまでばっちりだぜ! だから蓮も遠慮せずに声かけてくれていいんだからな?」
「へいへい。まぁ暇だったら考えておくよ」
ただ、その程度の懸念などこのカップルの前には無力も等しい。
蓮に指摘されるまでもなく後々の予定まで完璧に詰めているという言葉には言い返せることなどあるわけもなく、こういった場面では準備万端な友人の性質に感心すれば良いのか呆れたら良いのか判断に困るところである。
とはいえそういう事なら蓮も過剰に身を引く意味はないので、予定さえ合うのなら休みでも京介と外出することは構わないと返答しておく。
「……相坂君も、夏休み中は気を付けて。特に美穂の可愛さに惑わされて襲い掛かったりしないように」
「何言ってるんだよ…するわけないだろうがそんなこと。天宮の中で俺はどんな人間だと思われてるんだ」
「…? …だって、あれだけ可愛い子が近くで甲斐甲斐しくお世話してくれるなら魔が差してもおかしくない。それとも、美穂のことは可愛くないって思ってる?」
「……そういうわけじゃないけども」
と、そうこうしていると今度はそれまで京介の腕にべったりとくっついていた琴葉からもある種の…忠告を受ける。
しかもその内容というのが美穂にふとした拍子で襲い掛からないようにという、かなりアレなものだったので思わず反射的に否定してしまった。
だが否定したところで返ってくる言葉はどことなく見当違いなものであり、どう返したものかと蓮も一瞬頭を悩ませる。
「確かに鐘月のことは可愛いんだろうとは思ってるよ。実際周りからもそう言われてるからな。でもだからって不埒なことをしたいと思うのと可愛いと思うかどうかは別の話だ」
「……なるほど」
今この場にはいない美穂の事──今日は彼女が食材の買い出しをする番だったこともあって真っ先に帰宅していった彼女であるが、美穂が可愛いという事実は否定もしない。
実際蓮も、彼女と時間を共にするようになったからこそ皆が噂していた美穂の可愛らしさというものを痛感させられることは多い。
彼女が狙ってそのような仕草をしてきた場合を除いたとしても、日常生活の中で見てきた何気ない素振りの数々。
ふとした瞬間に見せてくる口元を緩めながらもはにかんだような笑顔に、納得いかないことがある時には頬を膨らませてムッとしたような態度になったり。
他にも語り始めたらキリがないがそういった言動一つ一つに美穂の持つ魅力というのはこれでもかと詰め込まれており、皆が口々に言う彼女の人気の秘訣というものを実感させられたものだ。
しかしそれと美穂に妙な真似をしたいと思うかどうかは話が変わってくる。
別に蓮は彼女に現状恋愛感情を抱いているわけでも無く、不意を突かれて困惑させられることや彼女からの接触に動揺させられることこそあれど美穂を傷つけたいとは思っていない。
だからその意思を琴葉にも正面から伝えれば、何かしらの考えは感じ取ってくれたのか。
「………それなら、いい。なし崩しに衝動に身を任せるのは良くないから、やるならちゃんと…お互いに納得の上でやるように」
「……なぁ、全く理解されてる気がしないんだけど気のせいか?」
「…気のせい」
彼の言葉に納得したように頷きながら──どこか見当違いなことを口にしてくる琴葉の言葉に不服さをぶつけるもまともに相手にはされない。
というか、その言い方だといつか蓮が美穂の魅力にやられることが確定事項のようにしか聞こえないのだが…こちらの考えすぎだと思っておきたい。
何はともあれ、それだけ言い残していった琴葉もこれ以上は注意しておくことは無いと判断したのか京介と共に帰っていった。
一人残された側でもある蓮も、琴葉の言葉に少し釈然としない思いを抱えながらも…ここに留まっていたところで用事もないと悟り、彼らの後に続くようにしてこの場を去っていくのだった。
「ただいま…っと。やっぱりもう帰ってたか」
「あっ、お帰りなさい! 今からご飯の用意しようかなって思ってたところだったからちょうど良かったよ。お昼ご飯食べるでしょ?」
「そうだな。食べさせてもらうよ」
我が家に帰ってきた蓮がリビングに足を踏み入れれば、そこでは明るい声色を届けながら紺色のシャツとベージュを基調としたロングスカートという、何とも落ち着いた色合いでまとめられたコーディネートをした美穂によって出迎えられる。
学校で姿を見かけなかった時点で察していたが、やはり彼女は蓮よりも遥かに早くここに来ていたらしい。
すっかり馴染んだ様子で居座っていることに驚きもしなくなってしまったのは蓮自身、かなり毒されてきたとは思うが…それは今更か。
「オッケー! じゃあ買ってきたもので何か作って……ふふっ」
「ん、どうした。笑ったりして何か面白いことでもあったか」
「ううん、そうじゃなくてね…」
美穂も美穂でこの家の勝手を一か月もしない内に掴んだらしく、今や蓮の家のキッチンは完全に彼女の独壇場だ。
もはやどこに何が置いてあるのかということすら彼女の方が詳しくなってきている有様で、少し情けなくもあるがそう思ったところでどうしようもないのだからこれはほとんど諦めている。
それよりも彼女の手で抜群に改善された生活に感謝をしておいた方が良いのだろうと考えたところで…不意に笑い声をこぼした美穂の様子に疑問を覚えた。
が、それは特段面白おかしいことがあったわけでも思い出し笑いをしたわけでもなく。
もっと単純で──純粋な感情の発露だ。
「…これから夏休みは、毎日こうやって相坂くんと一緒にいられるんだなって思ったら嬉しくなっちゃって。それでちょっとだけ笑っちゃったの」
「…っ! …そんなに期待されても、応えられるとは思えないけどな」
「いいんだよ、私が勝手に楽しみに思ってるだけだから。でも…せっかくの夏休みなんだから、いっぱい思い出を作ろうね?」
「……善処する」
下から蓮のことを覗き込むような体勢になりながら、そう語り掛けてくる美穂の顔は…溢れんばかりの期待に満たされているようで。
艶やかな弧を描く口元からは、ここから始まる日々への膨らんでいく感情が何よりも雄弁に物語られていた。
──そうして始まる夏休み。
何が起こるのかなんて想像すらつかないが、過去のどんな時よりも騒がしくなるだろうことだけは確信できてしまう日々は幕を開けた。




