第三四話 誘惑と思いやりと
「いやー、今日も疲れたな…でもこうして一日が終わっていけば夏休みもまた近づいてくるんだ! そう思うと疲労も吹っ飛ぶよな!」
「…言いたいことは分からんでも無いけど、気を抜きすぎると後で痛い目見ることになるぞ? 気を付けろよ」
一日の授業は気が付いた時には終わっていき、ある者にとっては長く。またとある生徒にとっては短くも感じられた学校での時間はひとまずの区切りを迎える。
多くの生徒がそれぞれの帰路に着く中で、蓮と京介もお互いの帰り道に進もうとして…友人の口から語られた何とも呑気なセリフに忠告を促したくもなった。
「何言ってるんだよ! ここまで来れば後は休みのスケジュールを考えるだけ! 琴葉とも何をするかって相談してるからな……楽しみで仕方ないって!」
「いやだから、その前にやるべきことが──…」
「おっと、こうしちゃいられん! これから琴葉と一緒に帰る約束してるんだ! じゃあ蓮もまた明日な!」
「あ、おい! …行っちまったし」
別に長期休暇への期待に胸を膨らませるのは構わない。
それは華の高校生にとっては欠かせない心持ちでもあり、一つの特権でもあるからだ。
ただ、決してそれだけに目を向けていればいいというわけでも無い。
目前の楽しみに意識を奪われてしまう心境は痛いほどによく分かるものの、それ以外にもやらなければならないことはあるわけで………。
だが、その詳細を伝えるよりも早くこの場を走り去ってしまった京介の後ろ姿を視界に収めながらも、蓮は彼一人となった状況下でぽつりと独り言を語る。
「大丈夫なのかね、あいつは……夏休みに入る前に定期考査があるっていうのに。それを忘れてたりは…流石に無いよな、うん。まぁ多分心配しなくとも京介だって試験対策くらいはしてるはずだ。…してるよな?」
間近に迫ってきた夏休みよりも前に立ちふさがっている定期考査の存在が控えていることが、果たして友人の意識下に残っているのかどうかは甚だ疑問であったが…こちらだけが過剰に不安がったところで何が変わるわけでも無い。
ここは友としてあいつのことを信じてやるべき場面であって、わざわざ手を焼く必要はない。
そう結論付けると蓮もまた荷物を持って若干の現実逃避をしながらも、己の帰路に着いていくのであった。
◆
高校のある場所から蓮の自宅まではそこまで遠くもない。
特別近いと呼べるほどではないが徒歩圏内で通える地点に家があるため、いつもの道を歩き進めていけば数十分も経つ頃には家も見えてくる。
しかし彼の両親は仕事で長らく家を空けているため、現在の蓮はほとんど一人暮らしをしているような状態でもあった。
とはいえそれは、以前までの話。
今の彼の自宅には蓮以外の人物の姿があり、既にやってきていることは把握済みなので今頃は夕食の準備でも進めてくれていることだろう。
なので蓮としてもあまり帰りが遅くならないように意識し直して歩みを早め、ようやっと到着した玄関先のドアにある鍵を開錠して家に入っていく。
するとまるでそのタイミングを見計らっていたかのように、扉を潜って帰宅してきた蓮の下へと廊下の向こう側から姿を現す者が一人。
「相坂くん、お帰りなさい! 先に来れたからお夕飯の準備してたんだけど、良かったかな?」
「ん、ただいま。いいよそれくらい、むしろこっちからすれば大助かりなくらいだからな。キッチンは好きに使ってくれたらいいって言ってあるんだし、それより鐘月の方は随分と早かったんだな」
「今日は私がお買い物の番だったからね~。ご飯も気合い入れないと! …って思ったら自然と足も速くなっちゃったよ」
リビングに通じる扉の先から現れたのは、本来蓮以外の誰もいないはずの部屋に当たり前のような態度で過ごす美穂である。
最近学校でも急激に親密度合いを高めたことにより多くの意味で注目を集めてしまっている彼女との関係だが、美穂が彼の自宅で過ごしているという事実は一部の者を除けば誰も知らないこと。
蓮自身も予想すらしていなかった出来事を経てから何故だか懐かれてしまったことで決まった共同生活であるが…とにかく美穂は彼に対する距離感が近いという習性もあるので、困惑させられることも同様に多かったりするのだ。
「…あ、そうそう! 相坂くんを出迎えるならこれ言おうと思ってたんだ! ちょっとだけやり直してもいい?」
「何だ? …嫌な予感しかしないが」
「えっとねぇ…んんっ」
と、そんな玄関先で早いところ靴を脱ごうとしていると突然美穂の方から何かを思い出したように掌を叩いて意味も不明なやり直しを要求された。
曰く、この状況でやりたいことがあったとのことだがそれを問いただす前に彼女は自身の声を整えると…こう告げてきた。
「相坂くん、お帰りなさい! もう少しで出来上がるからご飯にする? お風呂にする? それとも…わ・た・し?」
「…………いや、本当に何の話だよ」
「えっ、まさかの無反応? こういうのって男の子の理想の一つなんじゃないの?」
……一体どうしたのかと思いながらも見守っていれば、美穂の口から語られたのはまるで新婚夫婦のパートナー同士で交わされるようなやり取りに酷似した文言。
満面の笑みを浮かべながらさりげなく自分のことをアピールする際には腕を寄せて胸を強調することも忘れておらず、仮に誘惑だとするなら見事と言う他ない。
あいにく蓮には自分が誘惑されるような覚えが微塵もないので心境には呆れの感情しか浮かんでこなかったが。
「そもそもまだ夕飯には時間も程遠いし風呂だって同じだろ。…あと、最後のに関しては止めとけ。俺がそれ選んでたらどうするつもりだったんだよ」
「うーん…その時はその時? まぁ相坂くんなら選ばないだろうなって思ってたから付け加えてみた! みたいな? どう、ドキッとした?」
「………ノーコメント」
もうお分かりだとは思うが、これもどういうつもりなのか美穂は時々蓮のことを誘惑でもしているのかと思えるような言動を披露してくることがある。
流石に学校では人の目があるからかそういった行動も控えめであるが…逆に言えば、他の者の目がないこの家の中であれば遠慮する必要性は消えるということでもある。
事実、今のようなこちらを揶揄ってくるようなことをされるのは初めてというわけでも無い。
暇さえあれば自分のスタイルを強調しながら彼の反応を見て楽しむ様なことを繰り返すので、やめろとは言っているのだがさして効果も発揮しない。
…本当に、ここで蓮の理性が焼き切れていたら美穂はどうしていたというのか。
まだ彼女のこういった発言や態度にも彼が耐えきれているから良いが、同級生の──それも端正な顔立ちと暴力的なスタイルを誇った女子からあのようなことを言われれば大なり小なり揺らぐものはある。
今だって暴れ出しそうな感情の粗ぶりを必死に押しとどめている真っ最中なので、少しでも魔が差してしまわないように蓮も真剣なのだ。
「えっへへ、ならギリギリオッケーってことにしておこうかな。…あっ、相坂くん。その鞄重いでしょ? 部屋まで運んでおくからその間に着替えてきちゃったら?」
「これか? いいよ別に。鐘月にそこまで負担させるのも忍びないし、気なんて遣わなくて良いって」
だがそんな内心は露も悟らせず、次に美穂が目を付けてきたのは蓮がその手に抱えていた鞄。
中には勉強道具の諸々が詰め込まれているのでそれなりの重量感があるのだが、それを目ざとく見抜いたらしい美穂の方から持ってあげると一転して優しい提案が飛ばされてきた。
が、今はあのような展開を経たばかりなので今度は何を企んでいるのかと若干疑心暗鬼になりながら丁重に断っておいた。
そもそもこの程度のことまで彼女に任せるつもりもなく、向こうの手を煩わせるのは罪悪感が湧き上がってきてしまう。
大方帰宅してきたばかりの蓮を気遣って申し出てくれたのだろうが、そんなことまでしてくれる必要はないのでそう伝えた。
…それでも、蓮のその言葉に彼女は頬を膨らませて不服そうな感情を露わにしながら反論してくる。
「むっ、違うよ? 気を遣ったんじゃなくて私が相坂くんにそうしてあげたいから言ってるの! ほらほら、制服だって汗かいたままじゃ風邪引いちゃうから早く着替えてきて! 鞄はこっちで運んでおきます!」
「お、おい…っ! …全く、ありがとな」
「むふふ…いいよこれくらい! こういうのはお互い様なんだから!」
彼女が主張するのは自分が提案したことは単に彼を気遣ったからではなく、もっと純粋に美穂自身が蓮に対してこうしたいと思ったから。
そこには邪な揶揄いも企みだって一切ない。
どこまでも底抜けの優しさで満たされた彼女の本質の一部が垣間見えたようで、手に取られた鞄を運ぶ美穂の背中に感謝の言葉を伝えておいた。




