第一九話 大切な相手との
…何とも悲しい事故であったが、京介が連行されていった後。
有無を言わせない琴葉の圧力に負けたことは否定も出来ないが、あの場で何を言ったところで彼女の怒りに飲み込まれるだけだったので判断は間違っていなかった…と思いたい。
少なからず後ほど友から文句を言われることだけは確実だろうがそこについては八割ほど向こうの自己責任なので謝ることは無い。
ただまぁ、せめて京介の身の無事を祈るくらいはしておこう。
南無三。
──なおちょうどその頃、校舎のどこかで誰の物かも分からない叫び声が上がったそうだがこの件との関連性は不明である。
…心なしか蓮の名前を呼ぶような悲鳴も聞こえてきたそうだが、関係ないと言ったらないのだ。
(でも一人になると途端に静かになるんだよな…さっきみたいな空気よりはよっぽどマシだけどさ)
絶対零度と言って差し支えない視線を直接向けられたわけではないとはいえ、あの時の場の雰囲気はまさに地獄であった。
表情が変わったわけでも激しい怒気を溢れさせたわけでもないというのに、全身から漂うオーラだけで恐怖心を与えてくるのはあの京介の彼女というだけはある。
日頃は口数も表情の変化にも乏しく、一応は蓮とも数少ない友人である琴葉だが未だに彼女が何を考えて過ごしているのか、断言することは難しい。
京介はよく付き合えているものだとも思うが…そこはやはり愛ゆえのものだろう。
わざわざ言葉など介さずとも彼らの間では意思など伝わるもので、それゆえにああして近づいた距離も維持していられるのだ。
それに心配などせずとも、今回は琴葉の怒りを買ったためにあのような形になったが向こうの激情さえ鎮まればいつものように他者が割り込む余地など無い二人だけの世界を構築し始めるに違いない。
流れ弾を受けたくはないと見捨てこそしたが、これでもあの二人とはそれなりに付き合いもある。
琴葉の方は京介との付き合いの中で自然と会話をする機会が生まれただけだがそれでも彼らの親密具合は幾度となく思い知らされてきたため、今更懸念も湧かない。
現在の蓮にあるのは急に訪れた一人の時間をどう過ごしたものかという悩みだけで、これといってやることも無いのでどうしたものかと考えたところで…不意に背中にのしかかってきた重みに体勢を崩された。
「やっほ~、相坂くん! 一人で退屈そうにしちゃってどうしたのさ?」
「うお…っ、と!? …何だ、鐘月か」
「何だとはなにさ! そんなところで暇そうにしてるから話しかけに来てあげたんだよ?」
「…それはいいからとりあえず離れてくれ。周りの目もあるんだぞ」
「はーい。これでいい?」
勢いよく彼の背後から声を掛け、まるで飛びつくようにして抱き着いてきた人物の正体は視認せずとも分かる。
彼に対しこんなスキンシップを図ってくる者など他には思い当たらず、逆に存在していたら怖いくらいだ。
なので背中に当たる柔らかな感触を意識しないように努めながらも美穂の名を呼べば、それは大正解。
一日と経たずに学校で再会することとなった彼女は昨日と大して変わらない距離感と密着具合をこの場でも見事に披露し、気のせいか周囲の目もこちらに集まっているような気さえしてくる。
だが…冷静に観察してみると、その視線の量も先日よりは減っているように見えた。
勘違いというわけでもない。
少しそこいらを見渡してみれば分かるが美穂に密着されたことで羨む様な男子生徒の目や珍しいものを見る女子の目こそあれど、逆に言えばそれだけ。
昨日はクラス中が注目していたと言っても過言ではなかったというのに、随分と一日で差が出たものである。
しかしこれは蓮の推測の域を出ないが…おそらくは周りも蓮へ向けられる美穂の懐き方に適応してきているのだろう。
人の噂も七十五日ではないが生き物というのは良くも悪くも環境に慣れていくもので、いかにおかしな状況だろうとそれが続けば当たり前の光景と化していく。
正直その変化は蓮の精神的負担を考慮してもかなりありがたかった。
「さっきまでお友達と一緒に居たみたいだから楽しそうだなぁって思ってたんだけど…気が付いたら相坂くん一人になってたから気になっちゃったんだよ。橋本君はどこに行ったの?」
「…あいつの事なら気にするな。たった今、悲しい事故が起きたばかりなんだ」
「どういうこと?」
なので多少の視線に晒されはしつつも、蓮も美穂がこう絡んできたからには対応しないわけにはいかない。
悪意を持って絡んできたというのならともかく、彼女は純粋な好意を持って話しかけてきてくれたのだからそれを邪険にするのは違うだろう。
「まぁ京介のことは放っておいていい。それより鐘月…あいつのこと知ってたんだな」
「え、橋本君のこと? そりゃあクラスメイトなんだし名前くらいは覚えてるよ。同じ学年全員ってなったら厳しいけど…」
「少し意外だったな。てっきり男子のことなんて興味も無いのかと思ってたくらいだし」
「うーん…否定も難しいね。言われてみたら男子よりも女子の方が記憶には残りやすいっていうのはあるかな?」
「だろうな。それでも俺に比べれば全然マシだけど。こちとら未だにクラス全員の顔と名前が一致してないから」
「……相坂くん、もうちょっと同級生にも興味持とう?」
やり取りの内容自体は大したものでもない。
傍から聞かれても普通の高校生同士が交わす様な普遍的な会話そのもので、対話相手が美穂でも無ければおかしな要素など何一つなかったに違いない。
依然として釣り合っているとは到底思えないほどの美少女に、何故自分のような相手が接点を持っているのかと疑問に思うこともあれど…その点に関してはもう諦めてもいる。
周囲には絶対明かせないが既に蓮の家にも訪れる許可を出してしまった今、どんなことを言ったところで彼女が傍から離れることなど無いと確信しているためだ。
「あっ、そうそう! そんなことじゃなくて相坂くんにお願いしようと思ってたことがあるんだよ! ちょっといい?」
「また急だな。…金なら貸せないぞ?」
「もうっ! お金を貸してもらおうとなんて思ってないよ! そうじゃなくて…せっかくだし連絡先を交換しておかない? あったら色々便利だから」
「連絡先? そういえば…教えてなかったっけか」
すると次の瞬間、何かを思い出したかのようにハッとした挙動を見せた美穂からこれまた思いがけない提案を受ける。
そんな彼女が持ち出してきたのは自身の携帯電話であり、その画面に表示されているのは学生であれば誰しも一度は使ったことがあるだろうメッセージアプリ。
もちろん蓮も利用はしているし学校だけの関係ならばともかくとして、これから彼女とは共にいる時間も増える。
だったら連絡先を交換しておくのはむしろ必須事項だと判断し、さして拒否する姿勢も見せないままに彼もまた自分の携帯を取り出す。
「そのくらいなら問題もないか…いいぞ。これで良いんだよな?」
「…! う、うん! じゃあこれを登録し合って……はい、出来た!」
互いの携帯を見せ合った二人はそこまでの時間をかけることなくそれぞれのアカウントを登録し終え、確認してみればそこにはばっちりと美穂の連絡先を示すアイコンが表示されている。
おそらくは向こうも同じような画面が出ているはずだ。
「にへへぇ……こうやって見てみると思ってた以上に幸せな気分になっちゃうね」
「大げさな。たかが俺の連絡先が登録されただけだろうに」
…が、その程度の些細な出来事であっても彼らの受け取り方は少し異なる。
蓮は問題なく美穂のアカウントが存在することを確認するとそれ以上の感慨は感じることもなく、これといった感動も薄い。
あくまでも彼にとっては必要なことだからやったという認識であって、過剰にリアクションを取るほど重大事だと考えていないためだ。
けれども、もう一方の少女が取る反応はまるで異なる。
自分の携帯を見つめ直した美穂は視線を画面にジッと固定したままかと思えば、そこにある彼のアカウントを見て嬉しさ全開といった様子で蕩けた笑みを醸し出していた。
一体蓮とメッセージのやり取りができるようになったくらいで何がそんなに喜ばしいというのか。
素直にそう思ったからこそ問うてみれば…もたらされたのは想定以上の回答。
「大げさなんかじゃないよ! だってこれでいつでも相坂くんとお話が出来るようになったってことでしょ? そんなの…ふへへぇ……大切な人とこうやって連絡できるなら、それだけでも嬉しすぎるよ…!」
「……っ!」
──そう語る美穂の表情は、本当に心の底から幸せそうなもので。
蓮からしてみれば単なる連絡手段の交換であろうとも、彼女からすれば違ったのだ。
ひたすらに純粋に、蓮のことを…大切な相手だと断言しながら携帯を大切そうに胸に抱え込む彼女の姿。
一度目にしただけでも喜んでいるのだということがありありと伝わってきてしまう彼女の魅力を真正面から受けてしまった蓮の理性でさえも、大きく削られたような気がしてしまうほどに愛らしさに満ち溢れていた。
……なお余談であるが、本人たちはとっくに失念していたためにほとんど気にも留めていなかったが彼らがいた場所は学校の教室である。
当然、蓮と美穂以外にも登校してきていたクラスメイトの姿はそこにあった。
だというのにそのような状況下でこのような堂々とした宣言をしてしまったことで、校内では密かに『二人がどういう関係性なのか』を推測する噂が駆け巡ったという。
…この前の騒動が鎮火したかと思った矢先に自分たちで新たな火種を撒き散らしてしまう行為。
その後には噂とその経緯を聞きつけたらしい京介によって散々弄られることになるのだが、それはまだもう少し先の話である。