第一六話 一緒にいる約束
「食ったなぁ……あんなに美味いものを食べたのはいつぶりかって感じだ」
「ふふふ、相坂くんったら夢中で食べてたもんね。作った側としてはあれだけ美味しいって全身で表現されたらこれ以上は無いよ」
「…事実として美味かったからな。飯に遠慮しても意味ないし、美味いものはしっかりそう言わないと鐘月にも伝わらないだろ」
「これ以上なく伝えてもらったよ。でも、そうだね…こうやって誰かに自分のお料理が褒められるのは嬉しいかも!」
突如として始まった夕食の同席は思っていた何倍も最高の形でそのまま幕を下ろし、気が付いた時にはあの最高に過ぎるメニューも皿の上から姿を消していた。
どうやら味覚に意識を集中させて味わっている内にほぼ全てのメニューを食べ切ってしまったらしいが…そうしてしまうだけの魅力がこの夕食にはあった。
美穂にも伝えた通り、絶品という感想しか出てこない夕飯を提供してくれたことには素直に感謝している。
そう伝えれば、あちらにも彼の気持ちは問題なく伝わったらしい。
すっかり綺麗になったテーブルで向かい合いながら蕩けたようにはにかむ美穂の顔は、この緩み切った場の雰囲気もあって何とも可愛らしく思えてしまう。
「それにねぇ。相坂くんからご飯中に熱いプロポーズまでされちゃったからびっくりさせられたよ。そんなに私のことを想ってくれてたなんて…」
「げっほ!? …だからあれは違うって言っただろ!」
「そーう? それなら私のご飯を毎日食べたいくらい美味しいっていうのも嘘ってこと?」
「……それは違わないけども。あくまでそんくらい美味かったってことだ」
「ふーん? 相坂くんは照れ屋さんなんだね」
「…どうしてそうなる」
がしかし、その後に放たれてきた言葉は彼を揶揄う意図が含まれたもの。
先ほど何気なく述べてしまった発言から妙な意味に捉えられてしまったことでちょくちょくそのことで美穂はこちらを弄るように口角を上げながらニヨニヨと語り掛ける。
…断じてそんな意味で言ったわけではないというのに、たったの一言でここまで追及されることになるとは思わなんだ。
余程さっきのやり取りが彼女の琴線に触れたのだと思われる。
「ま、それは今はいっか。元々相坂くんの食生活が酷すぎたし、それを改善するのが目的だったんだからね」
「こんなちゃんとした食事は久しぶりに食べたよ。しっかり感謝してる。まぁ今日限りのものだから生活の改善とは言えないだろうが、それでも充分すぎるな」
「……そっか。ねっ、相坂くんに聞きたいんだけど…もしもこういう料理を毎日食べられたらいいなって思ったりする?」
「え? …そりゃ、まぁ。こんだけ美味かったらそう思うけどな。それがどうした?」
けれどもそんな会話にも終わりというのは訪れる。
この夕食は本来、蓮の怠惰に過ぎる生活リズムを見かねた美穂の厚意によって成り立っていたものだ。
となるとそれが済んでしまえば彼女がここに居座る理由が無くなるのは自明の理。
なので今味わったばかりの夕食がこれっきりとなると少し残念にも思えてくるが、美穂からは既にこれでもかと言うほどの恩を返してもらった。
彼女が蓮に構う理由は無くなり、残すところは美穂が帰っていくのを見守るだけ。
そう思って表には出さないが内心でほんのわずかな惜しさを滲ませつつも、これで彼女との繋がりも一端の幕を下ろすのだろうとこぼす。
…しかし、そう漏らした彼に対するリアクションは意図が掴み切れない問いかけであった。
何故このタイミングでそんなことを聞いてきたのか。
疑問に思いながらも確かにこんな料理を毎日のように食べることができたのなら、それは幸せに違いないと考えたことも事実なのでその通りに返答した。
するとその言葉を聞いた美穂はどういうわけか、やたらと嬉しそうに口角を上げたかと思えば───このような提案を持ち出してくる。
「そっかそっかぁ…それだったらさ。もしこれからも私が相坂くんのご飯を作ってあげるって言ったら──…」
「却下。それは悪いが無しだ」
「──どうする、…って! まだ全部言い切ってないよ!? 断るの早すぎるよ!」
「当たり前だろうが…逆に聞くけど何でいけると思ったんだよ」
美穂が少し躊躇いがちにしながらも提案してきたのは、まさかの今日だけに留まらずこれ以降も彼の料理を作るのはどうかという旨のもの。
自分が口にしている発言をどう捉えたのかは知らないが、羞恥心でも刺激されたのか頬を赤らめつつ上目遣いになってそう申し出てくる美穂の姿は異様なほどの愛らしさに包まれている。
……それでも、蓮が取った対応は一片の迷いも躊躇もない即却下。
彼女が全てを言い切るよりも前に無慈悲とすら感じられる短い言葉で美穂の提案を即斬した。
ただそんな返答で向こうが納得するかどうかと問われれば、それは別の話。
「え、だって相坂くんには得しかないよね? お料理は私が作るし、それで食生活も健康状態もばっちり改善される! これでどうして断るのさー…」
「…確かに、鐘月の言う通り俺にはメリットしかないだろうさ。でもお前の方にはないだろ。今日は礼を返すって目的があったから受け入れたが、それは流石にフェアじゃない。一方的に貰い続けるのは性に合わないんだよ」
「うーん…貰いっぱなしなんてことは無いんだけどね。困ったなぁ…」
納得がいかないと言わんばかりに詰め寄ってきた美穂曰く、蓮にはメリットだらけなのだから断る理由はないとの言い分。
それは別に間違っていない。事実としてこの提案を承諾すれば彼の惰性に満ちていた生活習慣は劇的に改善されること間違いなしだ。
ただ、彼女の申し出はそこにかかる美穂の負担を一切考慮していないのと同義でもある。
もはや言及するのも億劫であるが蓮は今日の流れからしても分かるように全く料理など出来ず、仮に、万が一そのような状況になった場合美穂を手伝ってやることができない。
もしかすれば必死で練習を積み重ねたら彼自身でもこなせるようになる可能性は塵ほどに残っているかもしれないが、そうなるまでに途方もない時間を要するのは明白。
そうなれば必然、調理にかかる手間は全て美穂が背負うことになるのだ。それも本来なら負担する必要もない事柄で。
いくら何でもそれは許容できない。
たとえ美穂自身がそれを良しとしていたとしても、蓮が納得できないので易々と受け入れるわけにもいかない。
「う~…ん。あっ、そうだ! じゃあこういうのはどう?」
「…何だ?」
「相坂くんが遠慮してるのは私だけに負担を押し付けるみたいな状況になっちゃうのが嫌ってことなんだよね? ならその対価になるものを貰えれば…いいんじゃない?」
「それは…そうだが。一体何を提供するって言うんだ」
「ふっふっふ、それはだね。…学校が終わった後とか、お休みの日とかにこのお家で過ごす許可が欲しいなっ!」
「…アホ。鐘月、自分で何言ってるか分かってるのか?」
それでも彼女がめげる気配はまるで見られず、それならば蓮が遠慮をしなくても良いような対価を彼女も受け取れば良いのではと反論。
一理ある。彼がこの提案を断っている理由の根幹はまさにそこであるため、その点を解決されてしまえば即決とはいかずとも否定材料の力は弱まる。
では彼女がその上で要求してくるものとは一体何なのか。
固唾をのんで内容を聞いてみれば…それもまた蓮を呆れさせるに足るものであった。
「ん、何が?」
「何がじゃない。あのな、女子がそう軽々と男子の家に入り浸ろうとするな。んなことしてたら隙を狙われて襲われてもおかしくないんだぞ?」
「大丈夫だよ。相坂くんならそんなこと絶対しないって信じてるもん! それとも…私に何か変なことをしたいって思ってるの? …まぁ、相坂くんだったら…ちょっとくらいは気にしないけど?」
「気にしろ! …あと、そこまで信用してくれて嬉しいが俺の我慢だって絶対じゃない。ふとした拍子に魔が差したらそれこそ最悪だ。それに俺の家に来る許可を出したところで、鐘月にどんなメリットがあるって言うつもりだよ」
とぼけたように反応を返す美穂へと蓮が忠告したのはこの家に滞在することで発生する彼女のリスクだ。
男子の家に女子が居座る。それだけでもマズい事態が発生してしまっても不思議ではないというのに美穂に限っては色々な意味で魅力が多様に詰まった少女なのだ。
女子への興味が薄い蓮であっても、そんなことは絶対にしないと理性では固く誓っているが何かのきっかけでその決意が揺らぐことはあり得る。
付け加えるのなら、大前提として蓮の家に赴くことが美穂にとってどんな利点を有しているのか今一つ分かりづらい。
なのでそれらの意見を盾として迎え撃とうとしたわけだが…彼女はそんな忠告など意にも介していない。
「メリットならあるよ? もちろんご飯を作りに行ってあげたいっていう気持ちが嘘なわけではないけど………」
「…けど?」
「──ただ、相坂くんと一緒に居られる時間が増えたのなら嬉しいなぁ…って。それが理由じゃ…駄目かな?」
「……っ!」
──その瞬間、蓮は自身の心臓が熱く跳ねたのを自覚した。
何せ、ただでさえ美少女である美穂。
そんな彼女から、届けられた言葉だけでも蓮と共に過ごせる時間を増やしたいだなんて大胆なことを告げられた上に、そこで見せられた表情も蕩けるような甘さを宿したものとなっていた。
…あまりにも可愛らしい姿を目にしたことで、一瞬だけ判断が揺らぎかけたのは否定できない。
「…け、けど鐘月には自分の家があるだろ? そっちの親だって知らない男の家に娘を上がらせるなんて認めるわけがない」
「ふむ。じゃあ私のお父さんとお母さんから許可が貰えればいいってことかな?」
「あぁそうだ。その許しが無い限りは俺たちだけで勝手な判断なんて出来やしないからな」
それでも何とか意識の片隅から冷静な思考を引っ張り出し、人知れず呼吸を整え直すと蓮も毅然とした対応を継続させるように努めた。
今のは半ば不意打ち気味に放たれた懇願だったので揺らぎかけもしたが、ここで一つ説得の方向性を変えてみることにする。
これまでの会話からどれだけ美穂本人を説き伏せようとも存外意思が固かったらしい彼女は退くことが滅多にない。
ならば選ぶべき手段はそれ以外の要因を用いた対話。
彼が言うように、美穂の両親がそのようなことを認めるわけがないという角度から言い聞かせれば少しは諦めてくれるだろうと思い持ち出した話題。
……それが全くの逆効果であったことは、数秒後の彼自身が体感することになる。
「…じゃあ尚更オッケーだね! 良かったぁ~! これでようやく相坂くんにも認めてもらえたよ!」
「……は? いやちょっと待て! だからお前の親から許可が貰えない内は駄目だって言って…!」
「うん、だからもう貰ってるよ? 二人からいいよって返事は」
「───え?」
「えぇっと、ちょっと待ってね? 確かこの辺りに……あ、あった! はいこれ、相坂くんにお母さんからお手紙」
「…………」
どういうわけか、彼が思っていたのとは正反対に嬉々としたリアクションをする美穂。
されど彼の宣言は彼女の両親から承諾を受け取らない限りはここに居座ることは認めないというものだ。
だというのに何故そんな反応になるのかと疑問を口にしようとしたところで…知らされてきたのはまさかの既に許可を貰ってきたというありえない回答であった。
理解が追い付かない展開を前にしてショートしかける頭をよそに、そのまま美穂から手渡されたのは一枚の手紙とやら。
…読みたくないという心理だけが急激に募っていくも、こうなると見ないわけにはいかないので封を開いて確認する。
するとそこには、非常に丁寧な筆跡が窺える文章でこのような内容が綴られていた。
即ち、『娘がそちらの家で過ごしたいと仰っているかと思いますが、ご迷惑でなければ是非置いてあげてください』という類の文面が。
……親としてその判断はどうなんだとも思うし、そもそもこんな手紙が用意されていること自体が異常。
流れるようにして渡されてしまったから受け取ってしまったが、前提としてこの手紙は何だというのか。
「…なぁ、これは何なんだ。どうしてこんなものが用意されてる?」
「経緯を話すとややこしいんだけどね。簡単に言っちゃうと、ここに来る前からお父さんとお母さんには相坂くんのお家で過ごしたいって頑張って説得してきたんだ。そしたら快くオッケーしてくれたの!」
「………マジかよ」
何ということか。
つまるところ、今聞いた話を要約すると美穂は蓮の家にやってきた時点から。
いや、それ以前の時から…このような問答をすることになると予測して行動していたということだ。
予想だにしていなかった角度からのアッパーカットにも等しい一手。
それは彼自身が宣言していた言葉とも相まって、これ以上ないほどに蓮の退路を塞ぐ手段に等しい効果を発揮してしまう。
「ねっねっ! さっき相坂くんが自分で言ってたよね? 確か…『両親の許可が貰えたらここで過ごしてもいい』、だったかな?」
「ぐ…っ!」
「こうやって手紙も見せられたことだし…どう? これでもまだ認められない?」
「…………はぁ~…! …分かった、降参だ」
「…! やったぁ!」
…ここまで対策をされてしまえば、流石の蓮も白旗を上げざるを得ない。
もはや見事と言うしかない流れに持っていかれたことで諦めの感情が湧き上がってきてしまい、最終的に彼は美穂がこの家で時間を過ごすことを認める結果となってしまう。
そうすると、溜め息を吐く蓮とは対照的に歓喜の声を上げる美穂が一目見ただけでも分かるほどに喜びの感情を全身から露わにしていた。
──その後、望む結果を得られた美穂は自分の家に帰宅するまで上がりっぱなしとなった口角を戻せなくなり、それを見て蓮はさらに己の意思の弱さを嘆く羽目となった。
ともあれ、既に決まってしまった事実は覆せない。
どのような結末にしろ、これより始まる彼女との日々は…騒々しさを増すのだろうことだけは今の蓮も確信する未来だった。