第一四話 無償の善意
「えーっと…調味料は結構揃えられてるね。調理器具も揃ってるし…これなら問題ないかな。食材も確認したからオッケー! …うん? 相坂くんどうしたの?」
「いいや…ただ違和感がとてつもないなと思っただけだ」
「違和感? そんなにこの恰好変だったなかなぁ…」
「そこじゃなくて…もちろんその恰好もそうなんだが、ここに鐘月がいることそのものがどうしても慣れないというか」
「………?」
…あの後、結局押し切られる形で蓮から調理をする許可を獲得した美穂は早々に準備を始めていった。
現在この家にある食材を確認したかと思えばキッチンの設備を一通り漁り、少し考えこむ様な素振りを見せたかと思えば満足げに頷いてまさしく楽し気といった様子で着々と用意を進める。
そんな彼女は今、蓮の目の前にて私服の上から紺色のエプロンを身に纏っており、いかにも料理に取り掛かるといった様相だ。
しかし…その光景を前にすると彼が感じる違和感もまた凄まじい。
蓮が料理を出来ないと明かしている時点で明白だが本来この家のキッチンが日の目を浴びることはほとんどなく、あったとしても極稀に帰ってきた彼の親が使うかどうかといった程度。
年に一度使われれば良い方という、何とも悲しい場と化しているキッチンには現在彼の身内でもないクラスメイトが、それも見た目麗しい女子がエプロン姿で立っているのだ。
ただでさえ美穂と共にいると嫉妬の目が向けられるというのに、こんな境遇に置かれていると知られたらとんでもない騒ぎになるだろう。
そう確信させるくらいには蓮もこの同級生の女子が手料理を振る舞うというシチュエーションは価値があるものだと認識しているし、それが美穂ほどの美少女ともなれば尚更。
確かな現実を前にしても実感が湧かないとはまさにこのことであり、到底信じられない様な奇跡が眼前で展開されていると人は実感を失うのだと蓮は身をもって分からせられた。
「…分からないならそれでいいよ。でも本当に任せていいのか?」
「もー、だから言ったでしょ? これでもお料理は得意だし好きなことだから、むしろ任せてもらえたら嬉しいの! なので相坂くんが気にする必要は無し!」
「けど鐘月一人に任せっきりっていうのもな…」
「そう言うけどね…じゃあ反対に聞くけど相坂くん。お料理の手伝いできる? 出来るって言うなら頼りにさせてもらってもいいよ」
「………無理だな」
「でしょ? だったらそっちはそっちで楽しみに待っててくれたらいいんだよ。こういうのは適材適所なんだし!」
「…そこまで言うなら、申し訳ないけど任せるよ」
「うん、任せて! すっごい美味しい料理を作ってみせるから!」
しかしそんな現実離れした景色を視界に収めても、彼の胸中には純粋な嬉しさで溢れているかと問われればそのようなことも無い。
むしろ感情の割合としては困惑と労働を美穂に押し付けている申し訳なさが勝っているくらいで、彼女の方から嬉々として料理をしたいと言ってくれていなければ間違いなく申し出も断っていたはずだ。
この時ばかりは何も手伝うことが出来ない我が身の無力さを情けなくも思うが…それは自業自得でもある。
仮に見栄を張って彼女の調理を手伝うなんて言っても、蓮ではせっかくの食材を飲食不可能な廃棄物の山に変化させるだけなので大人しくしているのが一番の手伝いなのだ。
「さぁーてと。まずはこれを切って…あっ。先にこれを煮立たせておかないと駄目だね…」
(…随分楽しそうだな。全く、こんな普通の家にいて何がそんなに楽しいんだか…鐘月だっていくら何でも油断し過ぎだろうに…)
それゆえに今の彼に出来るのは静かに彼女の調理を見守ること、ただ一つのみ。
なので静かにリビングにあるソファに腰掛けていれば、ふと意識を向けた瞬間にキッチンの方向からやけに楽しそうな声色を響かせて美穂が料理をする姿が目に入る。
いつもなら自分一人で過ごしているはずの空間に、自分だけではない誰かがいるという状況。
そんな中で普段なら関わることも無かったはずだったクラスメイトが、それも飛び切りの美少女が油断しきった様子で自宅にいるということに困惑を生じえない。
同じクラスの連中が…いや。
仮に友人である京介に現状をそのまま伝えたとしても現場を直接見なければまず信じないだろうことが現実に起こっている。
されど、これが幸福か不幸なのかと聞かれれば確実に蓮は幸運な身なのだろう。
そのくらいは理解している。
ただでさえ同級生の女子が家に来るというだけでも普通なら実現することさえ困難なのに、それを相手の方から申し出されているのだから恵まれた環境にいるのは言うまでもない。
(信用してるとは言ってくれても、それだって絶対じゃない。そもそも鐘月と俺は…あの晩のインパクトがあったからあいつの記憶にも強く印象づいてるだけだ。それを利用するような真似は…したくない)
それでも、彼にとってこの状況は複雑な事情が重なり合った上で成り立っているものに過ぎない。
美穂がこうも自分に良くしてくれているのは、昨日のことで過剰に感謝を寄せられ信頼感を持たれてしまったから。
やがてその熱が冷めた時には元の距離感に戻っていくのだと考えれば、この時間と彼女の距離感を利用するのは卑怯というものだろう。
たとえそれが…美穂自身が望んでくれていることだとしても、だ。
これは蓮の意地のようなものでもある。
向こうは現在冷静さを欠いてしまっており、それを利用して彼女との距離を縮めてしまうのはやりたいことではない。やっていいことではない。
そもそも蓮は彼女に対して過剰に異性としての好意を抱いているわけでも、特別な仲になりたいとも考えていない。
それなのに一時の迷いと熱に浮かされて彼女に関係を迫るのは、想定し得る中でも最悪のケースだ。
「…まっ、鐘月も時間が経ったら目を覚ますだろ。それまでの辛抱…ってことだな」
ソファに体重を預けながらもぽつりと独り言を呟く彼の言葉に込められた感情は、どこまでも平坦な声色。
…しかしながら、彼自身は気付いているのかも定かではないがどことなく寂寥感を滲ませたような一言。
──本当は、蓮だって気が付いているはずだ。
美穂が寄せてくる信用と信頼はただ一時の熱によって生じた幻などではなく、心の底から語ってくれている本心なのだと。
恋愛感情が介在しているかどうかは別にしても、美穂がこちらへと向けてくる感情は間違いなく好意であり…紛れもない親愛なのだと。
理性でいくら否定しようとも、彼女の態度から伝わってくる感情は本能の片隅で嘘偽りないものだと理解させられている。
それでもなお、蓮がここまで頑なに美穂の態度を受け入れようとしないのは単純に素直に受け入れられない事情があるから。
──過去の苦く思えてしまう記憶が蘇りそうになるも、それを直前で押しとどめ彼は頭を振ることで無理やり冷静さを取り戻し、再び思考を巡らせる。
(止めよう。とりあえず鐘月が飽きるまでの関係ってだけなんだ。それより先は…また一人の生活に戻るだけなんだから)
無償の善意や好意など存在しない。蓮はそれをよく知っている。
あるいは、他の誰よりも…強く理解してしまっている。
ゆえに彼を取り巻く環境がいかに変わろうとも、心の奥底で芽生えた諦めの情を自覚しながら。
蓮は眼前で楽しそうに調理を続ける少女の姿を見つめながら…ほんのりと賑やかさを増したように思える家の中で時間が過ぎ去るのを待っていた。