第一一話 自分を見てくれたから
「──なぁ、鐘月はどうして俺にここまでしてくれるんだ?」
「え? 急にどうしたの?」
意識するよりも前に口にしていた問いかけは、流石にいきなりすぎたからか投げかけられた側である美穂も目を丸くしていた。
しかし、この時の蓮にはそこを気にかけている余裕は無かった。
「…ずっと気になってたんだよ。鐘月は昨日から俺に構ってくれてるけど、そうされるだけの理由をこっちは持ってないんだ」
「だから言ったでしょ? 昨日の夜に助けてもらったお礼をしたいからって……」
「それは確かに聞いた。…だけどさ、明らかにそれだけじゃ貸し借りが釣り合ってないだろ」
唐突に蓮が切り出した話題に美穂も呆気に取られつつも返事をしてくる。
しかし、それは彼が求めていた答えではない。
確かに蓮は昨日、彼女を助けたのかもしれない。
こちらとしてはそのような思惑など全くなく、ただ見捨てるのは何となく寝覚めが悪いので遠目に見守っていただけだが形としてはそうなった。
…けれども、それは万が一トラブルでも起きた時には介入するのも前向きに検討しようかという程度の心構えであって彼女とあのように話したのも結果論に過ぎない。
その後のことに関しても彼は話を聞いたくらいで、彼女の言うアドバイスというのも本当に深く考えずこうしたらよいのではと語っただけなのだ。
美穂が言うような正義感に駆られて動いたわけでも、ましてや直接的に彼女の問題解決に乗り出したわけでもなくただ単に話を聞いて一言二言返答をしただけ。
なのにこうも蓮の家のことに労力を割いてくれているのは…どうにもあの晩の礼と主張するには対価として釣り合っていない様に思えてならないのだ。
「鐘月がこうやって礼をしてくれるのは素直に感謝してる。でもそもそもの話からして、俺はお前にここまでされるようなことをしたわけじゃないんだ。なのに何で──…」
「あー…その話になっちゃうかぁ。うーん…別に言っちゃっても良いんだけど、あんまり面白いことでも無いよ?」
「それでもいい。とにかく鐘月がそうまでする理由を知っておきたいんだ」
「…相坂くんがそう言うなら、話すけどね。ちょっと恥ずかしいけど…」
「あぁ、聞かせてくれ」
服を畳む手の動きだけは継続させつつも、真剣な雰囲気で懇願していけば美穂は微妙そうな表情になりながらも詳しいことを教えてくれると言ってくれた。
何故彼女が蓮に対してここまでのことをするのか。
単なるクラスメイト相手だというのなら明らかに過剰に過ぎる恩返しの規模。
その真意を確かめておかなければ蓮も納得が出来ないため、微かに気まずそうにする美穂の態度には少し違和感を覚えながらも彼女の話に耳を傾ける。
「まず…そうだね。昨日の夜に私があの公園にいたのは相坂くんも知ってるでしょ?」
「そりゃあな。あそこで居合わせたわけだし」
「うん。でも公園で泣いてた私の傍を通ったのは別に相坂くん一人ってわけじゃ無かったんだ。時々道を通りがかっていく人が私を見て…気まずそうにしてそのままどっか行っちゃったの」
「…そうだった、のか?」
「まぁね。だけどそれは別に気にしてないからいいんだ! 向こうからすれば公園で泣いてる子なんて避けたいのは当然だよ」
そうしてそこから明かされたのは…少し意外でありながらも蓮でさえ把握していなかった事柄。
あの時、蓮が美穂を見つけるよりも前に彼女が泣いている場面に居合わせた者はいたらしい。
しかしそれは考えてみれば当然だ。
夜間という人気が薄くなる時間帯であっても、それは別に人通りがゼロになるわけではない。
蓮自身が良い例だが少なくとも確実にあの近辺を出歩いていた者はいただろうし、その内の何人かが彼女を見つけていたとしても…不思議なことじゃない。
だから蓮が驚いたのはその先。
涙を流す彼女を視界に収め、その上で美穂を見て見ぬ振りをした者がいたという事実こそが何よりも信じ難かった。
「…もちろん誰かに構ってほしくて泣いてたわけじゃないし、心配をされたかったわけじゃない。ただ心のどこかで少しだけ、私の話を聞いて欲しいって思ってたことも否定は出来ないから…そんな人たちを見るたびにちょっと残念だって考えてた」
「………」
「だからね。あの時変な男の人に絡まれて…それでも相坂くんが来てくれた時、凄い嬉しかったんだよ? それと同時に驚いちゃった」
「驚いた?」
…少し、意外だった。
これまでは美穂が何を考えているのかも分からず、ただただ向こうの勢いに乗せられるばかりで自宅まで転がり込まれて。
狙いが不明瞭だったからこそ、何を企んでいるのかと思考の片隅に警戒心を募らせていたが…そう語る彼女の顔に浮かぶのは今までの天真爛漫な様子とは違った年相応な寂しがりやの子供としか感じられない。
「うん。だってほら! 私って背は小さいのにおっぱいもお尻も肉がついちゃってるからさ。やっぱり男の人にはどうしても視線を向けられるわけですよ。…でもね、相坂くんは最初から全っ然そこを見ようともしないからびっくりだったんだよ!」
「あぁ、それか」
「ついさっきも言ってくれたからその理由は知ってるけどね。だけどあの時の私にとってはそうやって普通に話してくれるだけでも凄い衝撃だったし…ちゃんと私を見てくれてる人がいるんだって知れただけでも嬉しかったの。あ、この人は優しい男の子だなぁ…って!」
けれどもその次に語られてきた言葉は、蓮にとっては至極当然のこと。
──その一方で、美穂にとってはそれまでの常識がひっくり返り得るほどに驚きに満ちたことであった。
「後のことは知っての通りかな。結局それからも相坂くんが私の身体を見てくることはなくて、家までお邪魔しても変なことはせずに話だけを聞いてくれた。…それに、私の悩みを解決もしてくれた」
「俺はそこまでのことはしてない。ただこうしたらどうかって話をしただけだ」
「だとしても、私は相坂くんの言葉があったからお父さんとお母さんに自分の言いたいことを言えた。それは変わらないよ」
「……そうか」
穏やかな口調でありながら、次々と投げかけられてくる言葉は今に至るまで知る由も無かった美穂の本心。
そしてそこに込められた蓮への信頼もまた…大きなものとなっているように思えた。
衣服を畳みながら向けてくる瞳の奥に、深い笑みと彼に対する親密さを宿しながら。
「もちろん昨日のお礼がしたいっていうのは嘘じゃないよ? ただ、それだけではないというか…ぶっちゃけ私の中で相坂くんへの印象が好感上がりまくりなので、単純にこうしたら喜んでもらえるかなって考えるとそうしたくなっちゃったの!」
「…何というか、行動力がありすぎるだろ。お前」
「だってあんなにちゃんと正面から向き合ってくれたんだよ? 相坂くんはとっくに私のお友達なんだし、そんな相手ならこうもしてあげたいって思いが爆発もするよ!」
「ふぅ…分かったよ。そこまで言われたら大体納得もした」
「えっへへ…何だかこうやって改めて口にするとちょっと恥ずかしいね…」
昨日の礼というのは嘘ではない。
ただ、それが全てというわけでも無い。
美穂にとって昨晩の出来事はあらゆる意味で強烈なインパクトを残し、それゆえに偶然にも関わった蓮のインパクトが強く記憶に残った。
──きっと、今の彼女が彼のことを特別視にも近い態度で接しているのは一種の吊り橋効果にも似た影響が作用した結果だ。
何しろ昨日の美穂は傍から見ただけの蓮でさえ思わず足を止めてしまうくらいに不安定なもので、良好な状態とはとても言えなかった。
だからこそ、そこにつけこむ様な形で干渉してしまった彼に過剰な信頼感を寄せているのだと。
ゆえに、その感情は…いつか彼女が冷静になった時には消えてしまうものだ。
今はまだ時間が経って間もない頃ということもあって冷静さを欠いてしまっているが、一度クールダウンをすれば彼女も現実を直視する。
ただのクラスメイトに過ぎない蓮を、それもさして目立つことすらほとんどない彼との距離感はいつしか元の形に戻る…はずなのだ。
…だったらこれは、それまでの関係性となるに違いない。
「というわけなので! 私は相坂くんがこんな過ごしにくい場所で一日を生活してることが見過ごせず、こうやってお掃除をしてあげたいって思ったわけ! どうかな?」
「理解したよ。それだったらまぁ…手を貸してもらうのも拒絶はしない。感謝はしっかりするけどな」
「良かった良かった…これで大手を振ってこのお家にいれるね!」
表面的な態度から確認できるテンションは問題など欠片も無いように見える。
しかしその実、彼女がこうして親し気に会話を交わしてくれるのは奇跡の産物なのだと認識しておかなければならない。
根本的な問題が解決しているのだとしても、美穂の心はまだ元通りになったとは言えないのだから。
未だ傷心中だった頃から落ち着いた視点を欠いてしまったままの彼女の接点は、元に戻るまでの期間限定な希薄に過ぎるもの。
であれば、美穂がそうして以前までの状態に戻るまでは…彼もひとまず友人としての距離感を維持してみようと、そう思った。