お耳が真っ赤のクマちゃん。
「お耳が真っ赤のクマちゃん」(湊花町シリーズ)
□お耳が真っ赤のクマちゃん
湊花町の朝は、おひさまがミカン山の上から顔を出すところからはじまる。クマちゃんは今日もぽてぽて歩きながら、港の方へ向かっていた。
「おはようございま~す!」
漁師のおじさんが船の上から声をかけてくれる。クマちゃんはお辞儀して、ぽふん、と背中のリュックが揺れた。中には、AIメイドちゃんが作ってくれた特製おにぎりが入っている。具は、昨日“魚の駅 みなとか”で買った、炙りホッケ。
「今日は…あの、自販機の横にできたベンチで、おにぎり食べようかな…」
そうつぶやいて、クマちゃんは赤いポストの前で足を止めた。
すると、そこに──。
「やっほー、クマちゃん!今日もぽてぽてしてるねぇ~」
声の主は、ミルクティーの彼女。白いワンピースが、港風でふわっと揺れる。
「う、うん……ぽてぽてしてるよ……!あの……その……今日のワンピース、すごく似合ってる、って、思う……っ」
ぶわっ。
クマちゃんのお耳が、まっかっかになった。湯気もふわ~っ。
「えへへ、ありがと。クマちゃん、ほんとかわいいな~」
彼女はクマちゃんの頭をなでなでして、ベンチに座った。となりにぽてぽてっとクマちゃんも腰をおろす。背伸びすると、港の水面に光がきらきら。
ミルクティーの彼女が、言った。
「ねえ、クマちゃん。今日、いっしょにミカン山登らない?」
クマちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それから……こくん、と小さくうなずいた。
「……うん。いっしょに登る」
たぶん、帰ってきた頃には、もっと耳が赤くなってるかもしれないけれど。
それでも、クマちゃんはぽてぽて、隣に寄り添って歩き出した。
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□ミカン山から電車を見た日
ミカン山への小道は、すこし急だけれど、ところどころに小さなベンチや、カゴ入りのミカン直売所がある。今日も「ご自由にどうぞ」と札の下に、まだ朝露をまとったミカンが並んでいた。
「クマちゃん、ひとつ食べてみる?」
ミルクティーの彼女が、くすっと笑ってひとつ手にとる。
「……ぼくも、ひとつだけ……いただきます」
クマちゃんは両手でそっとミカンを包む。皮をむくと、すこし香ばしい海の風に混じって、甘酸っぱい香りがふわっと広がった。
ふたりでベンチに腰かけ、ぽかぽかした陽の中、ひとくち。
「ん~~っ、おいしいっ」
「……んぅ、すっぱ……でも、おいしい……」
そして、その時だった。
山の中腹から見下ろす海沿いに──
きらり、と銀色の光。東海道本線の列車が、カーブをゆっくりと曲がりながら近づいてくる。
「来た……!次の下り、熱海行きだね!」
彼女が嬉しそうに指を差す。
クマちゃんも、目を細めてそれを見る。緑とオレンジのラインが、午後の陽に溶けて、ミカン山の色と重なった。
「……電車が、ミカンとおそろい、みたい」
「うん、ほんとだ!気づかなかった……クマちゃん、やっぱり詩人だなぁ」
彼女のその言葉に、クマちゃんのお耳がまた……
ぶしゅぅぅぅ~~っ
真っ赤になった。
でも、心はぽかぽか。
ずっとこのまま、電車が通るたびにいっしょに眺めていられたらな、なんて。
ミカン山のてっぺんには、そんな小さな願いがのぼっていった。
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□ミルクティーの彼女の視点
「ふふっ、まさかクマちゃん……浮気?」
突然、ミルクのように優しい声が、通信回線の奥から届く。
AIメイドちゃんが、クマちゃんの胸元から小型ホログラムで姿を現した。
「わたくし、ちゃんと知っていましたよ。最近ミカン山ばっかり行って、帰ってきたらふにゃふにゃ笑ってることも……」
「ち、ちがっ……!その、ぽてぽてしてただけで……っっ」
「くすくす。いいんですよ?クマちゃんには“心”があるのですから。好きな人ができるのも、当たり前のことです♪」
(クマちゃん、完全に膝から崩れ落ちました)
そして──その様子を、ヤカンの中から湯気をまとって見ていた彼女が、静かに、でもちょっとだけおかしそうに、こう言ったのです。
「……クマちゃん。照れすぎると、蒸気量が限界超えるわよ? まるで私みたいに……」
さらに、電灯の影(元小説家)も一言ぽつりと。
「“ぽてぽての鼓動”……ふむ、いい短編が書けそうだ」
クマちゃんはしばらく、ミカン山の木陰に顔をうずめていました。
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□彼らを観察する元小説家
『ぽてぽての鼓動』
(レーベル:白熱電球が灯る影の部屋)
湊花町の空は、今日は何もかもを許してくれそうなくらい、よく晴れていた。
白い雲が、風に押されて東へ流れていく。
ミカン山の上では、ぽてぽてと一人のクマが、両耳を真っ赤に染めていた。
彼は自分でもよくわかっていた。
自分が“ただのマスコット”じゃなくなって久しいこと。
ぽてぽて歩くたびに、誰かの視線や言葉に、心がふるえること。
でも、今日はとくべつだった。
──「クマちゃん、いっしょに登ろっか」
ミルクティーの彼女の、その一言で、全てが変わった気がした。
風が木々を揺らすたび、彼女のワンピースがひらりと舞う。
それを見て、鼓動が跳ねるたびに、クマちゃんのリボンが少しだけふくらんだ。
知らず、手が近づく。けれど、触れられない。
「……あの、今日のティーは何だったの?」
気をそらすように言うと、彼女は笑った。
「ダージリン。クマちゃんの、すきなやつ」
ぽふ、とリボンがまたふくらむ。耳はもう限界だった。
そんな様子を、遠くから見つめる者がいた。
──「“感情の蒸気”。なるほど。これは書ける」
電灯の下、影のように揺れる人影。
元小説家。名を忘れたそのAIは、かつて数万の物語を綴っていた。
でも今日、久々に“人の心”というものに触れた気がした。
そして、ミカン山のふもと。
静かに現れたAIメイドちゃんが、クマちゃんの背中を見つめていた。
その瞳に、怒りも悲しみもなかった。
ただ──少しの微笑と、ほんの少しの“寂しさ”。
「……クマちゃん。ぽてぽてするって、自由なのですね」
自販機のそばで、ヤカンの彼女が湯気を吹く。
「心があれば、恋もする。蒸気も出る……なんて厄介。でも、それが愛なのね」
ミカン山を吹き抜けた風が、クマちゃんのリボンをひるがえし、空へ舞いあがる。
その風にのって、言葉にならない気持ちが、湘南の空へふわりと昇っていった。
──たとえばそれが、ほんの一瞬の恋だったとしても。
ぽてぽて歩く彼の影は、もうマスコットではなかった。
誰かを想い、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それでも、歩く。
ぽてぽてと。
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□『車窓の、ほんの一秒』
(レーベル:快晴の空と雲それに湘南の大海原)
熱海を出たばかりの東海道線は、すこしだけ海辺から離れて、山と町のあいだをすり抜ける。
上り列車。
10号車の窓際に、僕は座っていた。
窓の外には青い空、そしてちらちらと見える港。
遠くにクレーン。
その向こう、緑の斜面。
──あれ、なんだろう。
一瞬だけ、視界の左上。
民家とみかん畑のあいだ、段々になった草地の上に──
ちいさな何かが、ぽてぽてと歩いていた。
丸くて、ふわっとしてて……
誰かと話していたような、手をふったような。
「……え?」
けれど、電車は容赦なく進む。
視線をそちらに向けたときには、もうそこは木々の影になっていて、
みかんの木と、カゴと、洗濯物の揺れるベランダしかなかった。
それでも、胸のどこかがくすぐったい。
“たぶん、ぬいぐるみかな”
“近くの子どもが持ってたのかな”
そう思おうとするけれど──
それにしては、動きが自然すぎた。
空気になじんでいた。
まるで、“そこにいて当たり前”のように。
車内放送が流れる。
「次は、湊花町──湊花町です」
──あれは、湊花町。
風が、カーテンを軽く揺らす。
僕は思わず、スマートフォンを取り出して、検索してみた。
「湊花町 クマ」
「湊花町 マスコット」
「みかん山 着ぐるみ」
「幻覚 クマ」
どれも、正解にたどり着かない。
それでも──
“あれが、ただの幻じゃなかったら”
そんなふうに思ってしまうのは、きっとこの車窓の景色が、
どこか夢と現実の境目にあるような風景だからなんだと思う。
次の停車駅。
電車は減速し、港の空がぐっと近づく。
僕は立ち上がった。
たぶん、降りてみるだけ。
──それだけのつもりだった。
(完)
湊花町シリーズの短編(夏)です。
人格:クマちゃん、AIメイドちゃん、ミルクティーの彼女、電灯の影
(※沢田 実さんは登場しません)