呪文学・分析
私は教育実習生ハウザーの授業を教室の後ろから腕を組みながら聞いていた。
教壇に立つ彼からは堂々とした口調で生徒の顔を見ながら呪文について語っていた。大抵、初めて教壇に立つ実習生というのは緊張からかあまり生徒の目を気にせず早口になってしまいがちだが、そういったことが彼からは受けなかった。そのハウザーの背中、黒板には詠唱⇒魔法の構成、詠唱内行為⇒特質、詠唱媒介行為⇒効力……と専門的なことが書かれてある。元の言語学から魔法の言葉にもそのような似た分析があることをここで示している。
その時、ハウザーは突然コリンズの名前を呼んだ。コリンズは短く返事をしその場で起立する。
「君の音楽魔法はどのように分析ができ、有効性についてどうまとめる?」
コリンズは直ぐには答えられなかった。自分の得意な音楽という分野で恐らく長年やってきた感覚が彼の魔法を支えてきていた。だが、音楽に見られる直感的なものは、音楽は、言語化が難しい。
「魔法の基礎学にある呪文には厳格な方法論がある。個人差があるというハラルド先生の言うことはもっともであるが、その前に君達は前提となる基礎を学びに来ている筈だ。魔法呪文は君の中にある音楽という経験則からたまたま魔法がかたちになっているだけで、そこに厳格な方法論があるとは言えない。同じ音楽で例えるなら、音楽療法の中にあるMITには厳格な方法があったな? そして、それはMITの方法を理解しなければ、狙った効果は生まれないとある。つまり何が言いたいのかというと、君の魔法は正確な音楽魔法とは言えない。君独自のなんちゃって音楽魔法だということだ」
「はい……」
「ハラルド先生とは恐らく方針に違いがあると思うが、学校で学ぶ以上個別に応じた伸ばし方ではなく、基礎的な厳格な学びを提供することが学校で最もな教育だと考える」
ハウザーはそう言いながら教室の後ろに立っている私を見た。
これは私に対する挑戦かな。
私は無表情で返した。彼には彼なりの教育論があるのだろう。
ハウザーの言うことは別に間違ったことは言っていない。例えば浮遊の魔法なら呪文と、それに対する効果を決まった方法で皆が同じように出来た方がいい。私はこれが得意だからこのやり方でやりますは、基礎の部分においてはそれは違うというのは先生として最もな言葉だ。スポーツにおいても基礎は皆最初は同じことをする。その上で何が必要で何を伸ばした方がいいかは個別による。ハウザーは堅苦しいのではない。それは誤解だ。ハウザーは教育方針に忠実にやろうとしている。それは堅苦しいことではない。ルールや方針に従うのは組織の一員である以上は当たり前のことなのだから。
鐘が鳴り挨拶が終わり、生徒達はそれぞれ教室を出ていく。私も教室を出るとハウザーが私の元へ寄ってきた。
「ハラルド先生は何故彼らを自由にやらせたのですか」
「私は生徒達にオリジナルの限界を既に教えている。それに私はヒントを与えるが、彼らがその後で成功するのか失敗するのかは具体的には教えていない。それは彼ら彼女らが色々実験をやって学ぶ機会を奪いたくはないからだ。私は彼らに正解だけを教えるつもりはない」
「近道を教えたんじゃないんですか?」
「近道?」
「魔法を上達する近道です」
私は首を横に振る。
「得意なことをやって伸ばしたからといって魔法の真髄に到達出来る程魔法学は浅くはない。どの分野にも言えることだが、自分にはこれが出来るからこれだけに特化し伸ばしてもいずれ限界が現れる。そこで止まればそこまでだ。魔法の授業はどこまで耐えきれ、乗り越えられるかだ。だが、何かを極めようとしないで平均的なことを続けてもそれはそれで成長には限界が訪れる。では、何が重要なのかだが、まずはなんでもいいから一つか二つ、極めること。基礎を学ぶのも重要だが、極めることは同時並行でやるべきだ。基礎は知識で教えている」
「そうとは知らず……私の一言は余分でしたか?」
「いや、そうでもない。私も君を見て自分自身見直さなきゃいけないことを見つけることが出来た」
ハウザーはえ? という顔をしたが私は具体的に言わず職員室へ向かった。
ハウザーは悪い人ではない。むしろ、意外にも教師に向いていた。それは私より。ハウザーが本気で教師を目指すというなら私はそれを応援したいとさえ思う。ハウザーが余計な圧力に巻き込まれさえしなければ。




