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クリスマスの夜、コンサートの後で

作者: 久遠のるん

Merry Christmas !


 「やっぱり、今夜も来なかった、な」

 

 舞子は隣の空いた席を改めて見遣って、ぽつりと独り言ちた。

 ここはこの辺りでも一二を争う立派な音楽ホールだ。今夜はベートーヴェンの重厚な交響曲を聴かせてもらった。トップに君臨するオーケストラではないが、中堅どころのN市管弦楽団の今夜の演奏には非常に満足した。うん、いい夜だった。

 立ち上がるとひらりとストールを纏って階段を降りていく。

 

 あいつは今何処に居るのか。

 

 ホールの外に出て、瞬く星の光を仰ぎながら暗い夜道を独り歩いて行く。家族連れや寄り添うカップルを眺めて、ほんの少しだけ羨ましく思う。一度だけ貴弘と二人で、今夜と同じN市管弦楽団のコンサートを聴きに来た。モーツァルトは好きなんだ、思っていたよりもいい演奏だったな、と彼は言った。チケットが手に入るならまた誘ってくれ、と明るい笑顔で。

 

 あれからどれだけの月日が流れたのか。新型の疫病が世界規模で流行って早三年が経つ。その間にいつの間にか私の前から消えてしまって連絡すら取れない状態が、生煮えな感情のまま固まっている。親しい友人からはもう忘れなよと言われ、何なら俺が代わりに付き合ってやってもいいぜ、なんていう輩にも絡まれる。そうだよね、こんな宙ぶらりんな状態はもう、いいかな。

 

 いったん立ち止まって目を瞑り、大きく息を吐いた。夜の冷たい空気が纏わりついてきた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 総務からの呼び出しだという伝言を聞いて、階段を駆け下りる。思っていた通り、次の定期コンサートのチケットが用意できたということだった。

 

 「はい、これ。いつも通り二枚ね」

 「ありがとう」

 

 舞子はこの会社で分析研究員をやっている。業界内でもそこそこの規模の化学系の会社で、未だにここに採用されたことを夢かと思う時がある。研究職に就くのは割と大変で、大学院の同級生たちは皆苦労していたものだ。何かの縁があったのだろう、希望が叶ってとても嬉しかったのを覚えている。

 勤め先が同じ市内のN市管弦楽団を支援していると知ったのは、でも、働き始めて一年は過ぎた頃だった。偶々出掛けたコンサートプログラムに、協賛企業として会社の名前が載っていたのを見たのだ。これは友の会のようなもので、支援してくれた企業には協賛金の金額に応じて、定期コンサートに限り招待券が貰えたり、特別イベントでも割引が利いたりする。さっそく総務に問い合わせると、招待券なら欲しかったらありますよと呆気ない返事が返ってきた。

 なんでも社員はさほどクラシック音楽には興味がないらしく、てっきり争奪戦だろうと思っていたそれは、いつも残っているという。なんて勿体ない。年に五回ある定期コンサートの招待券が着たら必ず連絡をくれと、総務の友人に頼み込んだのだった。

 そうして初めて貰った招待券で、舞子は貴弘を誘った。クラシックなら彼も聴くと知っていたから。

 

 コンサートが終わって、また誘ってくれと彼は言った。だから次の定期コンサートでも彼女は招待券を二枚取り寄せた。渡そうと連絡を入れたが、知らぬ間に海外へ派遣されて既に出国した後だった。携帯やパソコンに連絡を入れてみたが、うんともすんとも返事は無かった。

 どうして何も言わないまま行ってしまったのか。

 雪の舞うクリスマスの夜、舞子は独り、コンサートに出掛けて二つ並んだ席の左側に座り、メインのブラームスの第一番を聴いた。彼女の好きな交響曲だったが、その夜は曲に乗れずにいつしか涙を流していた。

 

 腐れ縁のような存在だった。考えてみれば、改まって告白されたことも無いなとその時になって初めて気が付いた。いつの間にか寄り添っていて、いつの間にか付き合っていることになっていた。別にそれが嫌だった訳でもない。適度に会って、食事して、話をして。笑い合い、慰め合い、抱き締め合った。体温を分け合って眠りに就いたこともある。そんな関係だったから、確かに付き合っていたのだろう。

 なのに。

 唐突に決まったらしい海外派遣のことを全く知らされなかったという放り出されたこの想いを、何処へ持っていけばいいのか分からず、暫く何も手につかない状態が続いた。友人たちは心配してそれぞれの伝手を辿り、何とか連絡を付けてやろうと努力してくれたが無駄に終わった。それは舞子も一通り試みたのだ。彼の所属する研究所に尋ねても、急に引き抜かれるように決まったことで、今現在何処にいるのか此方こそ教えて欲しいくらいなのだと責めるように言われただけだった。

 年が明けて二月の舞子の誕生日に突然、お誕生日おめでとう、と短いメッセージがパソコンに入った。狂喜して長文の返信を送ったが、それに対する返事はないままだった。

 

 そうこうしているうちに、世界規模の病禍がやってきてしまった。彼の向かった国ではけっこうな流行り具合で死者もたくさん出ていると報道された。心配で仕方がなかったが、ごたごたしたのは此方でも同じで、社内でも感染者が広がり、終いには会社自体閉鎖されて仕事どころで無くなった時期もあった。

 ある程度収束してくると今度は、遅れを取り戻すように仕事が立て込み、身動きが取れない状態が続いた。どこもかしこも病一つに翻弄されて、世界がすっかり塗り変わってしまったようだった。

 なんとか一息つけるくらいには余裕が出てくると、途端に思い出して心配に襲われた。が、どうすれば良いのか見当も付かなくなっていた。

 夏に迎えた貴弘の誕生日には短いメッセージを送った。その頃には意固地になっていて、こちらからも敢えて近況を知らせるようなことはしなかった。

 

 そんな折、総務から連絡があり、久しぶりにコンサートが再開されるようですよと言われると、嬉しさのあまり飛び上がりそうになった。念の為、彼には定期コンサートの再開を知らせるメッセージを送った。だがやはり返信がないままで、昨年のクリスマスの夜のように、独りで会場へと向かった。右側の席を開けて自分は左側へと座る。並んで歩く時も、隣に座る時も、舞子は大抵貴弘の左側にいて腕を取っていたからだ。今夜は随分前に彼に買って貰った小さなクマの縫いぐるみを、空いている席に置いて演奏を聴いた。

 もう日本には帰って来ないのだろうか。というより、もう二度と会えないのだろうか。

 その日は彼が好きだと言ったモーツァルトの交響曲を聴きながら、視界が潤みそうになるのをひたすらに耐えた。

 

 そうして月日が過ぎて、また舞子の誕生日がやってきた。一年前と同じく、おめでとうとだけのメッセージが入っていた。生きてるんだ、と舞子は安心した。だがそれ以上のやり取りは、やはりないままで時が過ぎていく。

 

 独りで聴くコンサートを幾度積み重ねただろうか。

 二人でモーツァルトを聴いてから丸三年が経っていた。今夜の演目のメインはチャイコフスキーの第六番『悲愴』だ。クリスマスの夜にはちょっと重たいかもしれないと思うが、舞子は好きな曲だった。彼はどうだったのだろう、聞いたことなかったな、なんて思いつつ、いつものように隣にクマの縫いぐるみを座らせた。

 

 演奏が始まった。前半はシューマンのピアノ協奏曲だった。海外からのピアニストが軽やかに音を奏でていた。今夜もなかなかないい夜になる。休憩を挟み、期待を込めて座り直す。それは他の観客も同じだったようで、始まる前の会場の雰囲気もとても良いものに感じられた。ホールが暗くなる寸前、滑り込んできた客が居た。男は目に付いたのか、舞子の隣の席へと真っ直ぐに向かってくる。仕方がない、どうせ空いているのだからとクマを自分のバッグへとなおし込んだ。

 今夜の為に呼ばれた指揮者はなかなかの大振りな指揮で、曲を盛り上げた。華やかな第三楽章ではすっかり曲想に入り込んで、高揚感に包まれていた。そうして静かに第四楽章が終わり、余韻を楽しむように指揮者はなかなか指揮棒を下ろさなかった。ああ、本当にいい演奏だった。漸く指揮棒が振り下ろされると、感極まって手を上げて拍手をした。ブラーボ―! と叫ぶ人も一人や二人ではなかった。皆が一体となって感動の渦に巻き込まれて、何度も何度も指揮者がコールに応える。そろそろ拍手も疎らに成り始めた頃、詰めていた息を吐いてうっとりと胸に込み上げる感情を大事に抱くように胸の前で手を組んだ。

 

 「なかなかドラマティックな演奏だったな」

 

 突然隣に座った男が口を開いた。右側の席に座り込んだ男のことをまるで忘れていた舞子は、驚いて改めてそちらを見遣った。

 

 「なんで?!」

 

 思わず大きな声を上げて立ち上がってしまった。何事かと周りの観客がこちらを見ている。

 

 「なんで? どうして、ここに居るの?!」

 

 貴弘だった。三年振りの。髪が伸び、中途半端に髭が生えて、かなり疲れた様子だった。それに瘦せたかもしれない。でも、確かに貴弘だった。

 

 「待たせて、ごめん。でもちゃんと帰ってきたから許してくれ」

 

 そう言うと彼も立ち上がって、彼女を引き寄せる。おおー、と感嘆とも取れる溜息が聞こえてきて、何を思ったのかこちらへ向けての拍手が湧き起こった。

 えええ? と思う間もなく、大勢の観客に見守られたまま、舞子はきつく抱き締められていた。舞台上では楽団員たちもがおどけたようにアンコールよろしくホワイトクリスマスを弾き始めた。どうしたらいいのだろう。顔に熱が集まるのが分かって仕方なしに彼の胸に埋めるように擦りつけた。すると背中に回された腕に益々力が入る。

 演奏が終わってお開きだと観客は帰り支度を始めた。兄ちゃん頑張れよ! とクラシックコンサートらしからぬ声が飛ぶ。貴弘はハリウッドスター気取りでそんな声に満面の笑みで手を上げて応えている。気持ちがだんだんと落ち着きを取り戻して、貴弘の胸を押しやると、一歩離れて独りで立った。いつものように独りで。

 そんな舞子をじぃっと見下ろして、相変わらず、らしいな、と呟いた。

 

 とにかく外へ出ようと背中を押されて階段を降りる。何から聞いたらいいのか、次に会えたら話したいことがたくさんあったのにいざとなるとまるで出て来ない。二人して黙ったままホールの前の公園へと向かう。ホールに居た客もまだそこここに大勢いた。貴弘は空いているベンチに舞子を誘った。

 

 「流石に外は寒いな」

 

 白い息を吐いて彼女の右手を取り上げた。冷たいなと言いつつ両手で包み込んで擦っている。

 

 「――さて。盛大な言い訳をさせてくれ」

 

 懐かしささえ感じる笑みを浮かべた。そう、三年も経ったのだ。

 

 「お前とコンサートを聴きに来てからすぐに、こちらの研究所や、海外の派遣先の都合がいろいろ変わって、突然出国する羽目になったんだ」

 

 落ち着いて連絡する暇もなかった、まだ二カ月の猶予があった筈なのに、急に来て欲しいという話になって。だいたい住むところも決まってなかったんだ、と言った。

 

 「あちらに着いてからは機密事項のある研究内容だからと外部との接触を制限されてしまって。とにかく研究を始めようかという段になって、例の疫病が流行り始めた。はっきり言って皆パニックに陥っていた。同僚も次々に倒れて、自分も罹患したよ。俺はなんとか軽症で済んだが、亡くなった同僚も居た。碌に仕事が進まないまま、連絡するのも憚れて、どうにか持ち直した時には気付くと日本の研究所からは切られてしまっていた。半年は行方不明になっていたらしいからどうしようもなかったんだ」

 

 亡くなった人々へ思いを寄せるように、彼は空を見上げた。

 

 「そこからは忙しくて、とにかく余裕が無くなって。だけれど何とか研究成果が見えてきて論文作成者の末端に加えて貰えた。技術的に難しい内容ではあったけれど、業界で割と話題になって、日本のメーカーからの引き合いも幾つか来たから、思い切って帰国したんだ。……お前のことが気になっていたしな」

 

 だったら、とどうしたって恨みがましい思いが湧き起こる。舞子はぐっと胸を抑えた。

 

 「引っ越しを済ませて、前の研究所に怒鳴り込んで決着を付けて。そうしているうちに、コンサートのことを思い出したんだ。そう言えばこの時期だったと。お前の会社に問い合わせると、今日のコンサートの招待券を取り寄せたことが分かって、窓口に無理矢理捻じ込んで入れて貰ったんだ」

 

 臆面もなく迷惑千万なことを言っている。そんな笑顔で誤魔化されないぞと腹に力を込める。

 

 「だとしても、連絡くれなかったことを許せる気がしない」

 「若さ故の過ちってやつだな」

 

 某有名アニメの超有名な台詞を口に乗せた。謝られてる気が全然しないと舞子は憤りを覚える。

 

 「なかなかのサプライズだったろ?」

 

 にいっと口角を上げて目を細める。何やら嬉し気だ。こちらは腹立たしいというのに。

 むっとしてそのままぶつけるように睨み付けた。

 

 「三年だよ? 分かってる? 三年放っておかれたんだよ」

 

 だいいち、もう他の人と結婚していたかもしれないじゃないの、と嫌味を投げつけた。

 

 「うーん、だよなあ。でもそんなことにはならないと思ってたよ」

 「何それ。そんな、根拠のない自信、何処から来るの? 思い上がりも甚だしいよ」

 「そうは言っても今の会社には満足してるって言ってたし、結婚はし無さそうだったしな。でも、結果的に待っててくれたんだろ」

 「待ってません。待ってなかったからね」

 

 そうだ、二枚の招待券はただの習慣で取っていただけだと目を眇めた。

 

 「つれないなー。ま、これからはずっと側に居るから。コンサートも一緒に行こうな」

 

 そう言うと、ポケットから何かを取り出した。赤いリボンの付いた一つの鍵だった。

 

 「クリスマスプレゼントだ。部屋の鍵、渡しとく」

 「はあ? あなたね、……っ!」

 

 怒りを露わにした舞子を抱き寄せて、文句を言い始める前に唇で口を塞いだ。

 

 本当に文句くらいなら幾ら言ってくれてもいいと思う、幾らでも聞こう。それから何度でも謝ろう、何なら土下座だってする覚悟だ。独りぼっちで、約束していたコンサートに通い続けてくれた彼女を、舞子を今更ながらに大切に想う。彼女はきっと独りでも生きていける人だ。だから此方が余程希わないとこれからの道筋は重ならない。貴弘は必死だった。三年放っていた負い目は一生付いて回る。だが。

 

 甘い吐息を落としてしかし、真っ直ぐにこちらを睨んだ舞子は、一生、許さないからね、と言い放つ。

 

 そういう枷なら喜んで受け入れるよ、と貴弘は鮮やかに笑ってみせた。

 

 

 ―― Ende ――


■ブックサンタとは

「厳しい状況に置かれている日本全国の子どもたちに本を届けること」を目的に、NPO法人チャリティーサンタが、2017年から全国の子ども支援団体および書店と連携してスタートしたプロジェクト。

pixivさんでは、クリスマスをテーマに執筆した小説やエッセイに「ブックサンタ2023」のタグを付けて投稿すると、作品数×500円をピクシブ株式会社よりNPO法人チャリティーサンタに寄付を行う企画です。今回の寄付金は、ブックサンタの運営や、子どもたちに贈る本の購入費として活用されます。

お近くの本屋さんや専用オンライン書店でも参加可能です。ぜひぜひご参加ください。

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