16. 抹消と微睡みと間違い
中学生以下の方は読むことを控えるようお勧めします!犯罪を奨励する、犯罪を美化する、犯罪者を賛美するような表現が多分に含まれますが、これはフィクションであり、決して真似しないように!
不定期連載です。
『抹消』には2種類の使い方がある。
特定の事物の記憶や記録の一切を、この世界から消すのが1つ。
2つ目は、個人の持つ記憶、つまり思い出を消す。
いまやCSOUに欠かせない重要な能力だ。
無駄に広い前庭を抜けて、正面玄関前に赴く。
チラチラと視界の端に見えるキモい光景で目が腐りそうだ。
『透過』によって、あるはずの壁がなく、テレビ番組のセットみたいに全てが見える。掃除に精を出すメイドや、金を勘定する侍従や、窓を開けて煙草をふかすシェフや、カップに口をつけ余暇を過ごす老メイドやらがはっきりくっきりと。
では彼らの主はどこにいるのか、何をしているのか。
従者たちを差し置いて、邸宅主であるキューは性癖全開で楽しんでる最中だった。
こんなキモい事があるのかね。
本人は閉鎖空間だからこそ、欲望をむき出しにしてるんだろうが、丸見えだ。
はあ――。
「自重って言葉を知らんのか」
能力を使って覗き見する分際ではあるが、悪態をつかずにはいられない。
玄関の先には数名の侍従が彷徨いている。ドアベルを鳴らして御免下さいをすると、仕事熱心な彼らは俺を追い返す。間違いなく。
お楽しみ中のアイツを見れば明らかで、仕事は手につかないだろうし、上司の顔なんか見たくないだろう。
あんなド変態ザルでも侍従には慕われてるから、厄介者の俺は門前払いされるってわけだ。
だったら『透過』を使って真っ直ぐ不法侵入だな。
掃除をしているメイドは、丁寧に壁際の骨董品を拭いているが、俺には全く気づいていないようだ。
目の前でガン見しても気づかれないってのは、なかなか変態性を感じる。ストーカーのエスが欲しがりそうな能力だ。
『透過』は透視ではない。透けて過ぎる事ができる能力だ。
だからこうして部屋の中に入ることができる。
「ひっ!えっ、あ、あえ?」
「叫ぶなよ?殺すからな」
「――――は、い」
どうやらここは応接間らしい。
冬だというのに、部屋はやけに暖かい。暖炉が赤く爆ぜているからだろう。メイドが火を付けたのか?掃除のために部屋を暖めるなんて、随分と気前のいい主だな。
その主の姿絵が居丈高に俺を見下ろしている。気取った貴族の二番煎じみたいな自画像だ。なんかムカつくので鼻で笑ってやり、キューの元へ向かおうとしたが、何か気になる。
正確にはテーブルの上に並ぶものが気になる。
「客が来たのか?」
「ひっ、ひゃい」
「――――誰だよ。そこまで言わんかい」
「す、すみません。えー、騎士団の偉い方でした」
「――――名前を言え。時間稼ぎでもしてんのか?」
「違います。知らないんです、私は働き始めたばかりなので」
騎士団の偉い方か。
エスからは報告がないってことは、問題ないのか?
ったく、直接聞きゃあいい話だがムカつくな。まさかコイツまで騎士と通じてたなんて笑えねえ。
少女のスカートの中に頭を埋めるキューを睨みつけ、一直線に屋敷を横断した。
応接間を抜けて、廊下を抜けて、食堂を抜けて、何名か侍従に遭ったが誰もが固まって、俺に叫ぶ事はなかった。
俺の顔が怖かったのだろうか。人の顔を見て唖然とするのは失礼千万だが、良い方に転んだので良しとしてやろう。
さて、背中を丸めてスカートを掘り進めるモグラ野郎をどうしたもんか。
まさか俺がいるとは思わないし、真後ろで睨んでるなんて夢にも思っていないだろう。
だからこんなに夢中なんだ。プライバシーが確保された密室で少女の体を奮わせるのに、そりゃあご執心だ。
うぜえしきめえし。コイツ能力なかったら速攻で殺してるわ。
「キュー出てこい!ぶち破るぞ!」
すり抜けられるとはいっても、3人が入れるほどにトイレは広くない。
手だけ突っ込んで鍵を開けようかとも思ったが、能力によって目の前にはそもそもドアがない。
だから呼ぶしかないだろう。
そうしたら、トイレの中のキューは大慌てだった。
スカート堀を止めて振り返り、扉を凝視したと思えば、ゴクリとつばを飲み込み、ありもしない避難経路を探している。
「3秒以内に出てこい。3、2」
「待って!ちょっと……」
「1」
「分かった!分かったから」
ドアを蹴破るため能力を止めた瞬間、ドアが開いた。首を伸ばして顔を強張らせたのは、水色髪のぶ男だった。
「出ろ」
似つかわしくない髪を掴んで引き摺り出すと、開け放たれたドアの先では少女が身を固めて座り込んでいた。
「さっさと消えろ、殺すぞ」
飛び出していった少女を見送って視線を移すと、キューはぎこちない笑みを投げかけてくる。
「ど、どうしたんだい会長」
「用があったんだが、その前に聞きたいことがある」
「う、うん。何かな」
「騎士団に何を話した」
「き!騎士団!?な、なな何のことかな」
「そうか。それが答えでいいんだな?」
ゴクリと喉が鳴る。
最終目標である世界秩序の破壊に、転生者の仲間は欠かせない。
それが社員である必要はどこにもなくて、俺に協力してくれればそれいでいい。
社員という形を残しているのは、転生者をよく思わないこの世界で、潰されないようにするための防衛のつもりだ。個でいるより集団の方が、デカく見えるだろ。
正直な話、俺1人に全能力を集中させてみようか、と考たこともある。
最強の人類となって革命を起こそうかってな。
しかしそれは現実的じゃない。超優秀な政治家が1人で全世界を回せないように、結局手数というリソースがいる。
要するに、殺したいけど殺さない方が良いってことだ。
「ま、待って!裏切ってない!本当だ!」
「何を話したかを聞かせろ」
ただし、例外はある。
そもそも俺は、社員の属人性などに興味はない。
寧ろ、属人性が邪魔とさえ思える時もある。
騎士団に情報を流していたアール、そしてその友であったエル。倫理観に縛られ、CSOUと距離を起きたがるも生きる術がなく仕方なく在籍するオー。
何を考えているのか誰にも理解出来ないユー。
できれば、こういう奴らの首を切り落として能力だけを別人に移植したい。
願望止まりなのは、その術がないからだ。
そんなわけだから、一部の社員について思い入れが全くない。ていうか嫌いだ。
もちろん嫌いという理由で殺したりはしない。やはり手数は必要だからだ。
しかし、いくら手数が必要でも消さないといけない場合はある。
綱紀粛正とか裏切りだ。
キューが裏切り者だったなら、即刻殺すべきだ。
『抹消』はCSOUに欠かせない社外持出禁止の能力だ。
望ましくはないが、自分で一元的に管理することななるかもしれない。
本当に裏切り者ならば。
「――――個人的に依頼があったんだ」
「依頼?」
「そ、そうなんだ。ある人物の記憶を消してほしいって」
「で、受けたと?」
「人質を取られてて……でも引き受けてないよ!考える時間がほしいと伝えたら、あっさり引いてくれて……」
「ぬるい脅しだな。人質はブラフか?」
「確かめたら本当だったよ」
「ふーん」
コイツのお気に入りは、記憶を消した美少女たちだ。どっかから攫ってきて、記憶をいい感じで消して、ほぼ廃人にしたら再教育する。12〜15歳の子供の世話をしながら、楽しむわけだ。
つーか人質取られても、股ぐらに吸い付く余裕はあるんだな。
「人質は捨てて新しく拐う気か?」
「そんなわけないだろ!どれだけ手塩をかけて育てたと思ってるんだ」
「……いや知らねえよ。んで?俺に相談しなかったのは?」
「殺されると思って……」
「他には何を話した。社員の能力か?住所か?」
「な、なにも話してない。オーに記憶を探らせてくれ!本当にこれだけなんだ!」
コイツ、オーと俺の仲が良くないのを知ってて言ってんのか?
いや、ないな。
コイツは社員の誰ともつるんでない。会社に顔を見せたのは、入社の一回こっきりだし、その後は俺としか連絡を取ってないかった。監視役のエスからも、社員との交流はないと聞いてる。
真実と見ていいか。
「悠々自適に、気ままに、自由を謳歌したいとそう言ってたよな」
「え、あ、ああ」
「その自由を保証してるのは誰か、それも理解してるよな?」
「もちろん!頼む、殺すのは勘弁してくれ。まだ死にたくない!」
気分屋で扱いが面倒だとしても、最近は手綱の握り方を覚えてきた。
コイツには信念も糞もない。あるのは金への信頼と、少女への劣情だけだ。それを満たせる今を手放すことはないか。寧ろ縋りたいって面だ。
だったらここで恩を売って、更に扱いやすくしとこう。
「はあ。ったく、そういうのはすぐに相談しろよな」
「え?」
「助けてやるよその女。その代わり仕事だ」
「分かった!やるよ、すぐにやる!」
「あんどうさえ、転生者、第3位階の悪魔、以上だ」
「あんどうさえか。日本人の名前なら楽勝だ。えーっと……」
「すぐ、だろ?」
「部屋に戻らないと人形が……」
『砂人形』
張り板の隙間から砂が溢れ、こんもりとした山が出来た。砂山は細く捻れながら立ち上り、腕や脚、顔のようなものを形作り、砂の人形が完成した。
「これでいいだろ?」
「――――まあ、いいけどさ。本当は」
「お前のお気に入りがクソジジイに犯されてもいいのか?」
『あんどうさえ、転生者、第3位階の悪魔、多分女の子だよね?』
「名前的にそうだろ」
『女、場所はマルカーヴァでいい?』
「いや、場所は分からん。ああそれからデリクシス・メーンとアーリアルト・ソンブレロは残してくれ」
『了解。場所は不明。以上をもって対象を決定、世界から抹消する!』
御神体に手を合わせ、消去対象の情報を念仏のように唱えると、右手で人形の頭から叩き潰した。
脆く崩れ、砂は血飛沫の如くに飛び散った。
「終わった!助けてくれるんだよね!?」
「よし。会社に行くぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!助けるって言ったよね」
「第3位階の悪魔に目を付けられてる。死にたくないならついてこい。それに、暇な奴らに手伝わせたほうが見つけやすいだろ」
「そういうことなら……あっ、みんなも連れてっていいかな?」
「ガキか?好きにしろ。ところで、記憶から消してほしいある人物って誰のことだった」
「第9位階の王、マモンだよ」
走り去って行ったキューの後ろ姿を眺めながら、新たな敵の姿を想像していた。
秘匿していたキューの能力を漏らしたのは誰か。
マモンを記憶から消す意図は?
騎士団が動いた理由は?
記憶を消すのは存在を消すに等しい。
例えばリンゴの記憶を世界から消すとしよう。甘酸っぱさはもちろん、シャリシャリの食感も、色も形も、切り方も。栽培も収穫も、摂食可能かすらも消えてしまう。幼いころにウサギ型に切ってもらった、その記憶もすっぽりと抜け落ちる。
そして脳みそが勝手に補完してくれる。シャリシャリで、甘酸っぱくて真っ赤でウサギ型にカットしたあの果実は何なのか。たぶん梨とかに置き換わるんだろう。
そうして誰も知らない未知の果実が誕生する訳だ。
これが特定の人物だったならば、世界から一切の関りを絶たれる事になる。親も子も友も隣人も恋人も全てが他人のように振舞い、彼らからすればただの見知らぬ人物になる。
もしもマモンの記憶が消えたならば、俺は生きていくのが難しくなるだろう。
この世界に来た理由も、悪魔という存在についても、能力についても、なにもかもマモンに教わった知識を基に解釈してきたからだ。
マモンという存在の記憶が消えれば、残った知識の出自は別の誰かが代替するはず。それは社員かもしれないし、全く知らない誰かかもしれない。そいつの言う事を信用できればいいのだが、マモンという悪魔に比べるべくもない。
要するに、この世界のことや転生者のこと、能力のことは、マモンが教えてくれたから信用して解釈して知識となっているわけで、マモン以外が教授したと記憶が書き換われば、俺は信用出来ないかもしれない。
ったく、糞面倒くせえ。
寝不足かつ厄介事のせいで頭が痛い。こめかみを指の腹で押さえながら『透過』で玄関へ向かった。
外で待っていると、ぞろぞろと従者たちが出てきて、花道を作るように整列した。
開け放たれた扉から出てきたキューは、整列した従者たちに笑顔を見せ、さも平然と歩いている。
めっちゃ慣れてるんだな。俺なら恥ずかしくて歩けない。
「会長、準備出来ました」
「あ、ああ」
「ミチオ様、屋敷はお任せくだされ」
「うん、よろしく頼むよ」
傍目から見れば良い主従だ。誇らしそうな目とつま先まで神経を尖らせたような立礼で、幼女趣味を気にしていないようだ。
俺の知る限り、この世界はロリコン推奨ってわけじゃない。
つーことは消したんだろうな。
「いい能力だな」
「え?」
誘拐した子供の存在を世界から消して、従者たちには孤児だとか、虐待から救ったとか。それらしい理由を並べて善人を演じる。時々ヤッてるのも、了承済みだとか将来の妻にするだとか言って、みんなを納得させてるんだろう。
挙げ句の果て子供たちの記憶も消し去り、頭をパーにしてやれば、拾い主の株は益々上がる。
本当にいい能力だ。だからこそ奪いたくない。
きっと『傲慢』が邪魔するから。
「紹介してくれないのかよ」
「あ、ああすみません。ほらご挨拶して」
赤ずきん、ヘンゼルとグレーテル。
俺の常識からすれば異質ではあるが、決してとっつきにくいような装いではない。庶民的で飾り気がないからだろう。
だからといって、キューのようにとっつきたいとは思わないが。
この服装は、完全にキューの嗜好だ。
たどたどしい言葉でご挨拶をする2人の少女を見る目は親のそれだというのに……。寧ろ親として見ているから燃えるのだろうか。いや分からん、分かる訳がない。
「この子たち、外に出るのは初めてなんですよ」
「あそ。眠いから転移していい?」
「お任せします」
『変位』でさっさと帰ったら眠りた……クソッ!ティーがいるんだった!眠れるわけねえよ。ああ、しゃーない奥の手を使うか。
ひとまず帰ってからだな。
「じゃあ俺を囲……ああ手は繋がなくても……まあいいや」
子供時代のかごめかごめを想起させる奇妙な光景に苦笑いしつつ『変位』のためにカウントダウンを始めようとした。その時、門前の少女がちらりと見えた。マッチ売りの少女風の子供だ。
ガードマン、というわけではないだろう。キューの子供だと思うが、連れて行かないのだろうか。
「キュー、アイツはいいのか?」
門前に佇む少女を指で示すと、目を細めて口をへの字に曲げた。
「構いません。お仕置きが必要なので」
「いつ戻るか分からんけど、マジでいいのか?」
「――――大丈夫です。従者たちも居ますし」
「あっそ。んじゃあ行きますか『3、2、1変位』」
ぐにゃりと視界が歪み、やってきたのは俺の部屋。ビリヤード台のすぐ脇だ。
「空き部屋あるだろうから、適当に使え」
「はい。それで……」
「わーってるよ。どんな格好なんだ?名前は?」
「服装はアルプスの少女風です。名前はまだ付けていません」
「名無し?」
「はい。最近お迎えした子なんです」
「……記憶は?」
「全部消してあります。親族の線はないですよ」
「いつ居なくなった」
「1週間前、です」
「ふむ」
エイチに頼んで探せるのだろうか。名無しのパターンは初めてだ。ああ、面倒くさい。眠くて頭が回らん。
とりあえず丸投げして寝たい。
「分かった。こっちでやっとくから部屋に行ってろ」
「お願いします!」
キューを追い出して部屋は静かになった。これなら、眠れそうじゃないか?
祈るように深呼吸をして寝室の扉に手を掛けた瞬間、一階から絶叫が駆け上がってきた。
「ムハハハハハ!痛いっスか?どんまいどんまい!」
「ぎぃぃぃいやああああ゛あ゛」
「フハハハ!」
やっぱ無理か。
「エス、いるんだろ?」
するりと腹に絡みつく腕、首筋に感じる生温かい吐息。
はあ。
ストーキングを許容する俺もどうかしているとは思うが、役に立つから無下にも出来ないのが悩ましい。許容しているからといって何も感じないわけじゃない。
いるんだろ?とは言いつつも、いないでくれと願っていた。そしたらこのザマだ。秒で体を擦り付けてきやがった。
プライベートはないと考えた方がいいだろう。便所も、風呂も、趣味も、マスをかいてる時もいるんだ。
キモ過ぎだろ。
「うんいるよ。どーしたの?」
「――――――――こんな事、本当は頼みたくないんだが」
「へえ、珍しいね。なあに」
背後から響く猫撫で声がムカついて仕方ない。例えばこれが美人のエフだったら、多少揺らいでいただろう。
アイツの性格と能力を知っているから、万に一つも手を出すことはないが、悪い気はしないはずだ。
ブスだとこうも苛立つのは何故なのだろうか。
安眠を享受するため、いつもの罵詈雑言は飲み込んだ。
「家に行っていいか?今すぐ」
「ん?いいけど……ここじゃダメなの?」
「煩いだろ。眠りたいんだ、頼む」
「ああ、そういうことね。うーんどうしよーかなー」
『潜伏』『自虐』『分身』という有能な能力さえなければ殺すのに。殺さない理由よりも、感情優先で絶対に殺したい。社会変革のためとか手数が必要とか、そんなお題目は全部取っ払って殺したい。
めっちゃキモいもん。
でもコイツ、仕事はちゃんとやるんだよな。殺すのは勿体ないぐらい会社に貢献している。
ストーカーという性分とエスの持つ能力は、面白いぐらいにフィットしていて、エスのためにある能力と言っても過言じゃないとさえ思える。
ストーカーじゃなきゃ……。
ストーカーでさえなければ……。
そう思わずにはいられない。
「うぜえな、嫌なら嫌って言えよ」
「怒んないでよ。嫌じゃないってわかるでしょ」
「じゃあ行こう」
「待って、私も一緒に寝ていいなら家に来て良いよ」
こんなキショい性格じゃなければ……。
見た目も、もう少し良ければ……。
こんなに憎く思わなくて済んだのに。
「……ああ」
「やった。じゃあ行こっ、家分かるでしょ?」
「……ああ」
「いつでもどうぞっ!うふふ」
「……ああ。『3、2、1変位』」
※※※
ガッ!
揺れるすりガラスの向こうには人影があった。
ビーがいた頃は施錠していなかったのだが、受け付けがティーになってからは、施錠が徹底されており、その影響で呼び鈴が付けられた。
そんな事情を客は知る由もなく、何度も引き戸に力を込めていた。
出迎えるべきはずの受け付け係は、商談用に設えてある受付奥で笑みを浮かべている。
ティーの見つめる先では、半裸の女性が落ち窪んだ目で冷たい息を切らして、懇願を浮かべている。
「ダメだって、まーだ早いッスよ。もうちょい頑張りまショ」
手が伸びると、女は頬を震わせて声にならない声で言葉を絞り出した。
「――す。ころして――――い」
両手が耳に触れ、ピタリと覆った。
すると女の双眸が限界まで開き、眼球は震えた。チェアレッグに縛られた両の足も小気味よいリズムで地面を叩く。
次第に大きくなる揺れ。
彼女だけが地震に見舞われているかのように全身が震え、擦り切れた喉から血の声で叫び続けている。
「最期、っスね」
「あ゛っ」
ビクンと跳ねると、時が止まったように硬直した。見開かれた目は黒さを増して、力なく閉じてゆく。
ガクン――。
支えられなくなった首が前のめりに倒れ、女は命を手放した。
まるでティーに礼でもするように。
ビーーーーーーーー。
「今日はお客が多いっスね。何事っスか」
ようやっと来客に気付いたティーは、間仕切りを避けて引き戸へ向かい、鍵を外した。
ガラガラと古風な響きと共に姿を表したのは、神経質そうな細身の男だった。黒いコートを羽織り、襟を立てて寒そうにしている。
「ん゛?ビーは何処だ」
「ビーさんは死んだッスよ。聞いてないんスか?」
「死んだ!?いや聞いていない。じゃあ受付は誰だ」
「俺ッス」
「遅い!俺が客だったら帰ってるぞ。ブザーも分かりにくいし、第一、鍵を閉めて営業なんて気は確かか?」
「い、ええ?俺に言わないでくださいよ」
「受付だろう!?お前に言わなくて誰に言う」
「それは、会長ッスかね」
「んん゛、そうだな直接言おう。上だな?」
「あ、いやそれが、今出てるんスよ」
「また飲み歩いているのか?」
「えーと、知り合い?的な人と話してから出てったッス。何処に向かうのかは言ってなかったッスね」
「――――報連相を知らないのか?あり得ん、あり得んだろう」
苛立たしげに内ポケットまさぐり、銀のシガーケースを取り出した。丁寧に巻かれた煙草を咥えると、甲高い音を立ててライターの蓋を開け、ジャキッと火花を散らした。
灯る火にジリジリと煙草が焼かれて、紫煙が立ち昇る。
「あ、あのージーさんですよね?」
「ジジイみたいに聞こえるだろう!ギーと呼べ」
「ギー、ですか?」
「ジーだと自慰みたいだろう?もしくは爺。だからギーだ。他の社員とも被らないから問題ないと会長から許可を頂いている。クソッ緊急だというのに何処に行ったんだ会長は!」
グレーの煙はより一層、もくもくと天井へ立ち昇った。
※※※
目を開けたくない。
耳を撫でられ、湿った肉が唇をチロチロと這いずっているのは分かっているが、目を開けたくない。
まだ眠い、眠り足りない。さっき眠りについたばかりだってのに、この変態のために起きろと?いや、ふざけんな。意地でも目は開けん。
クソ、寝る場所を入れ替えておけばよかった。俺は左向きじゃないと寝られないんだ。右側を選んでいれば変態と向き合うこともなかったのに、わざわざ左を選んでしまった。いや、誘導されたか。あまりの眠さに深く考えていなかった。
さっきから俺のアレを執拗に攻撃してくるこのボケは、やはり殺していいだろうか。眠いっつってんのに……。
「起きて」
死ね。誰が起きるか。
「ジー、じゃなかった。ギーが来てるよ」
ギーもといジーが顔を出す、か。久しぶりだし、何かあったに違いない。
――――厄日か。
一気に厄介事が降ってくる日だ。今日を厄日と言わずしていつを言うんだ。
もう笑えてくるわ。逆に面白いわ。
「そんなにヤリたいのか?」
「あっ、おはよ゛っっ、ぐはっ……」
「今まで楽しませたんだから、今度は俺の番な」
「ぐっ、がぁあ゛っ…………」
片腕で首を掴んでエスの上に跨った。肘を伸ばして体重を掛ければ、軌道が狭まり空気を取り込めなくなる。そうなれば当然抵抗するわけで、女相手でも片腕じゃあ太刀打ちできない。
両手に体重を込めて、鬱血するブサイクな面を見下ろす。
腕を殴るわ引っ掻くわ。
体を弓形にして力を逃がそうとするわ。
涙目になって藻掻く姿に多少の興奮を覚えてしまった。
――――にしてもブスだな。
「がっ、こぼっ、ごほっ、げほっ、お゛ぇえ゛」
「悪い悪い、大丈夫か?」
ったく。良くないな。最近、ご無沙汰だったせいか…………。殺すとマズイって理解してるんだが。
「はあ゛、はあ゛。だ、大丈夫、大丈夫」
「本当に大丈夫か?」
肩に手を伸ばすと、ビクリと体を震わせた。
――。
どうやら欲求不満みたいだ。
今日中に見繕えるかどうか。最悪、ピーが作った人間を使い捨てにすればいいか。
――でもどうだろうか。
コイツが耐えられるなら、ターゲットを見繕う手間も省けるし、きっと好きになれる。
「『自虐』はどうよ。発現してる感覚はあるか?」
「え゛っ?ごほっ、いきなりなに?」
「回復してる感覚は?」
「え?分かんないよ」
「試してもいいよな」
見開いた瞳が揺れた。
動揺が隠せていない。
恐いんだろ?もっとビビれよ。
じゃないと楽しめないだろうが。
『擬態』で手を刃に変えて、服を切る。頭から被る上着が前開きのシャツのように、はらりと捲れた。
「俺の趣味ぐらい分かんだろ?ストーカー」
「…………」
「死ぬなよ、お前は殺さない予定なんだ」
細い首筋に手を添えて、刃を収めたもう片方の手も添える。
顔を真っ赤にして、飛び出しそうな眼球も充血してきた。
体を逸らして逃げ出そうと藻掻く。
その度に突き上げる刺激が、良い。
でも……なんでだ。
まだまだ余裕があるのか?
「もっと足掻けよ。腕を引っ掻くとか、殴るとかできるだろ?」
更に体重を掛けると、体を捩って逃げ出そうとした。唇が紫になり、目の周りが赤黒く変色していく。
もう死ぬぞ。
死ぬ気なのか?
「ごぁ、げぼっげほっ、お゛えぇぇはあ゛」
「何してんの?なんでもっと必死になんねえの」
手を離したのは、限界だったからだ。これ以上続ければ死ぬ。
でもそれ以上に、コイツの行動に納得がいかなかった。
「ひゅー、わ゛私は、だ、大丈夫、だよ。続けて」
「はあ?そんなこと聞いてんじゃねえよ。もっと抵抗しろ、でないと勃たねえんだよ」
「で、でも……」
「ちっ、こんなことでレクチャーさせんじゃねえよ。こうして……」
エスの手は血塗れだった。
握りしめたのであろう布地は、血を吸い込み硬い皺ができている。
強引に手を取ると、点々と4つ、皮膚が裂けて肉の傷跡が見えていた。
拳を強く握ったせいで、爪が食い込んでしまったのだろう。
「何してんのお前」
「だ、だって、エー君に傷をつけるなんてできないよ」
――――ブスが。
眠っ……。
俺だって頑張ったんだから、星ぐらいつけとけよ。
(エーより)




