名前を言ってはいけないあの人
ヴォ〇デモートの事ではないです。
翌朝、櫛奈に連れられて璃珠は後宮に戻った。
自分がいた所が後宮から隣接していた建物だとその時初めて知ったが、よく考えると度々(たびたび)蒼劉と遭遇していたのだから意外な事でもなかったと納得する事が出来た。
女官長の執務室で櫛奈にお礼を言って別れる。
「璃珠、体調はもういいのかい?」
心配そうに眉をひそめながら女官長に尋ねられる。
「はい、女官長さま。もうすっかり」
璃珠は晴れ晴れとした笑顔で答えた。
「璃珠、女官棟に戻ったら、あのお方のお名前を口にしてはいけないよ」
女官長から注意を受ける。
「あのお方とは、蒼劉さまの事ですか?」
「!・・・そうだよ。口にしてはダメよ」
璃珠の口から名が出ただけで女官長が弱冠青ざめた気がした。
「何故ですか?」
「本来なら、私達が御名をお呼び出来るような立場のお方ではないからよ。璃珠は特別にお許し下さっただけの事だから」
「そうなのですか、確かに地位のある方だと感じました。かしこまりました」
「わかったなら、いいよ。ああ、それから璃珠の教育係だけど別の者が着く事になったから・・・」
「結風姉さまは、どうされたのですか?」
「・・・別の用事をする事になったよ」
「そうなのですか。今までお世話になったお礼を言わないといけませんね」
「結風は忙しいから、それは私から伝えておくよ。次の者は、川に入るような用事は言いつけないとは思うけど、困った事があったら私に相談しておくれ」
璃珠は女官長の言葉に感動を覚える。
なんて優しいのだろうか!
璃珠はキラキラと笑顔をたたえて頷いた。
「はい、ありがとうございます」
そんな様子に女官長は苦笑した。
女官棟に戻ると、朝餉の時間だった。
璃珠が食堂に入ると、一瞬場がザワリとした。
「? おはようございます」
こちらを凝視する姉さま方に挨拶をして見習達が固まって座る一角に向かう。
そこにいる紗に 声をかけた。
「紗、おはよう」
「璃珠、戻ったのね!二晩も帰って来ないから心配したのよ」
「心配をかけてごめんなさい、それからお仕事も抜けてしまって迷惑をかけました」
「いいのよ!璃珠が元気に帰って来てくれたのだから」
紗が笑顔で答えてくれて
璃珠も自然と顔が綻んだ。
いつもの食事 パンとスープを食べていると
いつの間にか姉さま達が近付いてきて囲まれていた。
「姉さま?」
璃珠が不思議そうに目を瞬いていると
肘でつつかれた1人の女官が口を開いた。
「ねえ、璃珠は今まで王太子殿下の所にいたの?」
周りを囲む姉さま達の顔が強ばっている。
王太子殿下? 璃珠は首を傾げる。
「いいえ、王太子殿下とお会いした事はありません」
そう答えると、皆の顔があきらかにほっと緩んだ。
「そう、そうよね!やっぱりそうだと思った!」
姉さま達がワイワイと嬉しそうに話す。
「それで、璃珠はどこにいたの?」
姉さまの1人がにこやかに聞いてくる。
どうやら心配をかけてしまったようだ。
「姉さま、ご心配をおかけしました。
私はここからすぐ東に見えるあの大きな建物で過ごさせて貰っていました」
「「「!!!」」」
姉さま達の顔が途端に青ざめる。
そう言えばお名前を口にしてはいけない程の方がいらっしゃる所だった。
璃珠はまずい事を言ったかと、少し気まずげに様子を伺う。
「奥の間に入ったの?」
ポツリと問われる。
「奥の・・・?確かに入り口から1番奥の寝台がある部屋に泊まらせていただきました」
「「「!!!」」」
姉さま達の身体がいっせいにビクリと震える。
ただならぬ様子に隣の紗も目を瞬く。
「・・・そこで夜伽をしたの?」
そう言われて、璃珠は首を傾げる。
「姉さま、よとぎ とはなんでしょうか」
姉さま達が微妙な表情をして、皆で目配せをし合う。
「お屋敷にいた方と・・・その、一緒の布団に入って、その・・・触れられたり、抱きしめられたり、したの?」
顔を赤らめて姉さまに聞かれる。
なんでそんな事を聞かれるのだろう?
不思議に思いながらも、昨日昼過ぎに蒼劉に抱きかかえられて眠った事を思い出す。
熱を計るためにおでこや頬、首にも触れられた。
頭を撫でられて、ぴったりとくっついて
温かくて安心して眠ってしまった事を思い出す。
「あ・・・それは・・・はい」
そう答えるのに何故か妙に恥ずかしくて
頬を染めて返事をする。
「「「!!!」」」
バタバタバタ
姉さまの数人が倒れた。
「え?!姉さま!!どうされたのですか?」
「なんでもない、なんでもないのよ!」
一部の姉さまが青ざめながら言う。
「璃珠、小さい身体で大変だったわね」
また一部の姉さまは憐れむように言う。
更に一部の姉さまは
「王太子殿下は幼女がお好き・・」
悔しげにボソリと呟かれた声は、璃珠にはよく聞こえなかった。
様々な反応に璃珠は混乱した。
姉さまの何人かが、倒れた姉さまを抱き起こして去って行く。
璃珠はそれを訳が分からず呆然と見送った。
「紗、姉さま達はどうしたのかしら・・・」
「うーん、璃珠の言った事に驚いていたように見えたけど」
・・そう言われて璃珠は考える。
お名前を口にするだけでもダメなお方と一緒に眠るのは、
もっと大変な事なのかもしれない。
驚かせてしまって、申し訳なかったな・・・。
それから、後宮での璃珠の扱いが明らかに変わった。
大きく変化があったのは、仕事の内容だ。
今までの掃除や洗濯ではなく、貴族の令嬢達が暮らす建物に入る事になった。
手洗い場にある手ぬぐいを洗いたての新しい物に変える。
建物中に飾られた花瓶の花を新しい物に変える。
妃候補に仕えるこの建物の令嬢達が休憩中に飲むお茶の選別。
更にお茶受けのおやつの毒味。
その全てに新しく教育係になった姉さまが着いて来る。
新しい姉さまは寡黙で2人の間にはほとんど会話が発生しなかった。
仕事の指示以外で姉さまは言葉を発する事もない。
作業に間違いがないか確認する時や御手洗に行くと申し出た時はほのかに微笑み頷いてくれる。
挨拶以外の交流はこの程度だった。
貴族令嬢との接触は驚く程に無い。
どうやら令嬢達がいない時間帯を見計らって仕事が組まれているようだ。
確かに女官見習である自分が身分の高い方の目に入ると不快な思いをさせてしまうかもしれない。
そう気付いて納得する。
今までとはかなり毛色の違う仕事になったが
璃珠はここでもやはり、それはそれは真面目に取り組んだ。
・・・だが、真面目に働いていても
本当にこれで良いのだろうか?
と不安になるのが、毒味の仕事だ。
毒に当たるかもしれないのが不安なのではない。
何故なら璃珠の役割は『二重チェック』
要するに既に一度毒味が済んだおやつを更に毒味している。
姉さまには、これで良いのか何度も確認をしたが
やはり、ただただ頷くだけだった。
新しい仕事を始めて、4日が過ぎた。
蒼劉とはあれから会っていない。
それはそうだ。
お名前を呼んではいけない程に高貴なお方と
一時でも交流があった事の方が奇跡に近いのだから。
少し寂しい気もするけれど、
それはどうしようもない事だった。
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