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大天使に聖なる口づけを  作者: シェリンカ
第一章 十年ぶりの母の帰宅と驚愕の真実
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 カラーン、カラーン、カラーン。


 朝を告げる教会の鐘が、白み始めたリンデンの街に鳴り響く。

 教会の前の広場で羽を休めていた鳩たちが、いっせいに空へと飛びたった。


 薄紫の空の下、鐘の音と共に人々は寝床から起きだし、新しい一日を開始する。

 それは街の外れの住宅街にある家で、父と二人きりで暮らすエミリアにとっても同様だった。


 空気を震わすようにして鳴り響いた鐘の音に、寝台の上で丸くなって眠っていたエミリアは、もっそりと体を起こした。


(うん……もう朝?)


 両腕を伸ばして大きく伸びをする。


 枕元近くの張り出し窓からは、早くも朝陽が射しこみ始めていた。

 窓の向こうからはピイピイと、うるさいほどの小鳥の声。


「いっけない!」


 慌てて寝台から滑り下りたエミリアは、まずは机の上に飾ってあった小さな絵に、いつものように朝の挨拶をした。


「おはよう。お父さん、お母さん」


 しゃれた額に収まったその絵には、若い男女が描かれている。


 父の絵の師匠が描いてくれたものだというが、いったい何年ぐらい前に描かれたのだろうか。

 よそ行きの上着を着て生真面目な顔をし、直立不動の姿勢で立っている父は、エミリアが毎日顔を会わせている父と比べると、まだずいぶんと若い。

 しかし、父の前に置かれた肘かけ椅子にたおやかに腰かけている母は、エミリアの記憶に残る母の姿そのままだった。


 流れるような金髪に、透き通った白い肌。

 宝石のような翠の瞳は零れ落ちるほどに大きく、薔薇色の小さな唇は、まるで微笑のお手本のように美しいカーブを描く。


(お母さん……)


 子供の頃ならともかく十七歳にもなった今では、エミリアにも少し、母が変わった人物であるということがわかってきた。


(少なくともお父さんと会ったばかりの頃と、私が七歳の頃と、見た目が変わらなかったってことよね?)


 何度考えても、首を捻らずにはいられない。


(それって、けっこうすごいよね……もし今もお母さんがこの家にいたら、どうだったんだろう? ひょっとして、まだこの絵と同じ外見だったりして……)


 想像してみたことは、ずいぶんと久しぶりだった。


 エミリアは母とまったく似ていない。

 髪は栗色の巻き毛。

 瞳は薄い茶色。

 健康的な肌の色も、痩せて背ばかりが高いひょろっとした体つきも、何もかもが父親似だ。

 絵に描いたような美少女の外見を持つ母とは、似ても似つかない。


 それでも綺麗な母が自慢で、小さな頃は友だちにも鼻高々に紹介していたが、あまりに何度も、「へえ。あんまり似てないんだね……」と気の毒そうに言われることに、年を重ねるにつれ複雑な心境を覚えるようになった。


 その思いは積もり積もって、今では少し憂鬱な思い出になっている。

 ましてや今現在、母はこの家にいないのだから、迂闊に絵を見せて、「本当のお母さんなの?」などと疑われても、証明する手段もない。


「もちろん私の本当のお母さんよ!」と力説することもなんだか虚しくて、最近では友だちに、母の絵をわざわざ見せることはしなくなった。

 だからエミリアの母がどんな人物だったのかを知っているのは、本当に小さな頃からの友人たちだけだ。


 その『小さな頃からの友人たち』の中でもとりわけ傍にいて、とりわけエミリアの家の事情に詳しい人物の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。


「そういえば昨日、明日は何かを食べたいって言ってなかったっけ……?」


 柔らかな夜着を脱いで、壁にかけてあった洗いざらしの普段着へと袖を通しながら、エミリアは首を捻った。


「何か言ってたわよね……お肉じゃなくって、茸でもなくって……うーん?」


 思い出せそうで思い出せないというのは、もどかしいものである。

 それも朝の忙しい時間帯にその堂々巡りにはまってしまったのだから、少し腹が立ってくるのも無理はない。


(……だいたいどうして……私がこんなことで悩まなくちゃいけないんだろう?)


 服の上に着けたエプロンのリボンを、腰の後ろでぎゅっと引き結んでいると、そもそもの元凶に対してふつふつと怒りが沸いてきた。


(今日のお弁当のおかず何にしようかなんて、自分が食べるぶんならまだいいわ……お父さんのぶんだってもちろん喜んで作る。だけど何が悲しくて、お隣さんってだけでついでに作ってあげてるぶんで、悩まないといけないの?)


 しかも相手は、このリンデンに住む女の子ならば、知らない者はいないと言われるほどの、超人気者なのである。

 ――師匠に連れられて、最近は城にも出入りするようになった、庭師見習いのアウレディオ。


「俺って一人暮らしだから、お弁当を作ってくれる人もいないんだよな……」などと少し憂いを帯びた顔で俯けば、きっと次の日には街の女の子たちからも、王宮で働く侍女たちからも、ものすごい数の弁当が集まるに違いない人物。


 遠くからでも目を引く淡い金色の髪。

 よく晴れた日の空のような蒼い瞳。

 整った綺麗な顔に、すらりとした肢体。

 どこか人を寄せつけない神秘的な雰囲気。


 それなのに、その問題の人物――アウレディオは、

「あの……もしよかったら……私がお弁当作ってきましょうか?」と親切に申し出てくれる女の子たちに対して、いつも無表情に、「俺はエミリアの弁当しか食べない」と答えてしまうのだ。


 そのあまりにつれない口調、さっさと去って行ってしまう冷たい背中に、少女たちはみな一瞬呆然と立ち尽くす。

 そして決まって次の瞬間、行き場のない怒りの矛先をエミリアへと向ける。


 アウレディオの余計な一言のせいで、エミリアはこれまでに少なくとも八人の友だちを失くした。

 顔も知らないような相手からの嫌がらせも、あとを絶たない。


 おかげで『しっかり者』という誉め言葉の上に『図太い』という表現まで付くようになってしまったのだが、エミリアが被っている最大の迷惑は、そんななまやさしいものではなかった。


(何が悲しいって……ディオとは本当にただの幼馴染なのに、ほとんどの人はそうは見てくれないのよ……!)


 泣き伏したいくらいの悲嘆の思いを、エミリアはぎゅっとこぶしを握りしめることで我慢する。


 その件については、本人に直接抗議したこともあるのだが、アウレディオは、「別にどうだっていいだろ」とまるで取りあってもくれなかった。


「そりゃ、将来結婚する相手だって大勢の中から選り取りみどりのディオには、ぜんっぜんたいしたことじゃないんでしょうけど……私は困るの! 誤解されたくない人がいるの!」


 叫ぶエミリアをまったく無視して、あの時もアウレディオは、さっさと背を向けて歩き去っていった。


(本当に困るんだから……!)


 悔しさに唇を噛みしめながら、エミリアは俯いた。

 いつも遠くから見ているだけのある人物の姿を心に思い浮かべると、トクンと胸が鳴る。


 緑を基調とした近衛騎士の制服が、精悍な横顔によく似あう。

 普段は温厚だが、いざという時には誰よりも剣の腕も立つのだという。

 真面目で有能で、国王陛下からの信頼も厚い、こげ茶色の髪の近衛騎士――ランドルフ。


 考えるだけでドキドキと動悸が激しくなってくる。

 エミリアは机の引出しの中から、小さな額をそっと取り出した。

 中に入っているのは、まだ途中までしか色が塗られていない描きかけの絵の一部分。


 肩の位置で切り取られた両隣の騎士たちには申し訳ないが、ランドルフだけは額の中央で、灰青色の瞳を理知的に煌かせ、きりりと勇ましく前方を見据えている。


「おはようございます、ランドルフ様……」


 額絵を見つめるだけで声が震える自分を励まして、エミリアは今朝も、絵の中のランドルフに礼儀正しく頭を下げた。


「私とアウレディオはただの幼馴染なんです。本当に、なんの関係もないんですよ……!」


 しっかりと付け加えることも忘れなかった。


 近衛騎士に囲まれた国王陛下の肖像画を描く、という大仕事が父に舞いこみ、半年をかけて取り組んでいた間は、身の回りの世話をするエミリアも、ずいぶんと気を遣ったものだった。

 なにしろ国王陛下の肖像画である。

 父も芸術家の端くれ。

 後世に残るものとして最高の作品を仕上げなければと、いつになくピリピリしていた。


 出来上がった絵の評判は上々。

 そのおかげで、父にもようやく画家として暮らしていけるだけのお金と仕事が集まり始めた。


 父の出世作――それは、失敗した下絵の中からランドルフの部分を切り取ることができたエミリアにとっても、実に実りのある仕事だった。


 手に入れた絵に向かって、朝に夕に語りかける日々。

 実際のランドルフとは会話をしたことなどなく、彼はエミリアの存在すら知らないわけだが、エミリアはいたって真剣だった。


 たとえ相手が絵であっても、根も葉もない幼馴染との噂は、しっかりと訂正しておかなければならない。


「本当に本当に、無関係なんです!」


 そこだけは、声を大にして何度も叫んでおく。


 エミリアのこんな姿を、当のアウレディオが見たとしたら、「くだらない……」と冷たく言い放たれることはまちがいなかった。

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