第三十一話 困惑7
「明日からは夏休みだね」
「そうだな」
「神楽小路くんは夏休み何するの? どこかに遊びに行くの?」
「いつも通り、家で本を読んで小説を書く」
「そっかぁ。わたしも遊ぶ予定あんまりなくて、バイトばっかりかも。ずーっとトングで注文されたケーキを取って、トレイに乗せて、紙箱に入れて」
「佐野真綾のバイト先はケーキ屋なのか」
「あれ? 言ってなかったっけ。ケーキ屋さんでアルバイトしてるよ」
「知らなかった。食べることが好きなお前には合ってるんじゃないか」
「退勤前に廃棄処分のケーキつまんでもいいからね。最高だよ。でもね、トングでケーキ掴むのって難しいんだよ。力が強かったらつぶれちゃうし、弱いと滑り落ちちゃって。最初は何個もダメにしちゃって怒られまくったなぁ」
そう笑いながら、いろんな話題で話し続ける佐野を神楽小路はじっと見つめる。
(佐野真綾がいるだけで場が明るくなる。嬉しそうに食事する姿も、好奇心に満ち溢れた目で俺を見て話す姿も。ああ、そうだ。この感覚だ)
神楽小路がそう思った時、佐野が突然話すのをやめて、「えへへ」と声を出して笑った。
「なんだ?」
「神楽小路くんが笑顔で話し聞いてくれてるなぁって」
「笑ってないが」
「今笑ってたよ?」
「俺が笑うことがあると思うか」
「初めて見たから驚いたし、嬉しかったんだけど」
「幻覚だ、幻覚」
「笑ってるって思ったんだけどなぁ」
神楽小路はそれ以上何も言えず、髪をかき上げながら視線を逸らした。
食べ終わり、外へと出る。暑い日差しが二人に降り注ぐ。
「涼しい喫茶店からの落差がひどい……」
「うむ……」
「こんなに暑いのに、神楽小路くんはご飯も食べずに授業受けようとしてたんだよ? ほんと危ないよ」
「……悪かった」
「夏休みもちゃんと三食食べて、水分補給も忘れないように気をつけてね。あと、ちゃんと寝ることも大切だからね」
母親よりも母親みたいなことを言う佐野に神楽小路はただただ黙って頷いた。
「わたしはこのままバス乗り場行くよ」
「ああ」
簡単に返事をして、神楽小路は芸坂の方へ歩きだす。すると、
「神楽小路くん!」
振り向くと、佐野は両手を口に添えると、
「九月からもよろしくね!」
そう叫ぶと、走っていってバスに飛び乗った。彼女が乗ると、すぐにバスは動き出し、立ち尽くしている神楽小路の前を通り過ぎていく。佐野が窓越しに小さく手を振っているのがほんの数秒見えた。神楽小路は自分でも気づかないうちに小さく手を挙げていた。
(やはり佐野真綾といると調子を狂わされる。俺が俺じゃなくなってしまいそうになるのを、必死にこらえている。心の半分以上、いや俺のすべてをあいつに持っていかれそうだ)
ゆっくり下ろした手を見つめる。
(しかし、佐野真綾になら持っていかれてもいい。この感情はいったい何なんだ)
理解できない感情に戸惑いながら、大学一回生の前期日程が終わった。




