第十五話 変化3
神楽小路は彼女の濡れた瞳を覗きこむように、顔を近づける。
「佐野真綾、お前がそんなに平凡、非凡などにこだわりを持っているとは思わなかった」
「え……?」
「お前は確かに天才肌ではない。文章に関しても、読みやすいが印象に残らん。あの教授が言ったことはわからなくもない。だが、それに対して『悔しい』と思っていたとは意外だった。それに、何者かになりたいという気持ちを絶えずに持っていることも驚いた」
今日も佐野のことだろうから、いつも通り笑って『次は頑張ろう』と軽く言ってくると思っていた。
神楽小路も佐野真綾は変わった奴だとは思えど、飛びぬけた個性を感じたことはなかった。小説を書くのが好きというのなら、一般的な大学に入学しても書ける。その方が自分のペースで書けるのだからと、こんな辺鄙な場所にある芸大にわざわざ入学しなくても良いのではないかと思っていた。
以前、佐野が言った言葉を思い出す。
「神楽小路くんって自分の世界持ってて、その世界に触れてみたいって思ったの。触れたら、わたしもなにか変われるかなって」
そう言っていた、その気持ちには平凡な自分を変えて上へ行きたいという、神楽小路の思っていた何倍も強い意志があったのだ。
「どの世界でも特別な人間になれるのは、ひと握り。なりたいと思ったわけでもない奴が選ばれる時もある。どっちにしろ、向上心を忘れ、天狗にでもなってしまった瞬間、そいつは滑り落ちるだろう。だが、お前は普通だと言われても、周りの奴ばかりが認められても、お前が腐らない限りは成長し、いずれ認められた時、強く、長く活躍できるんじゃないか」
そう言うと、神楽小路はズボンのポケットからすみれ色のハンカチを取り出した。
「まだ使っていない新しいものだ。使うと良い」
「ありがとう……」
これ以上なんと言葉をかければいいのか、わからず神楽小路は遠くを見ていた。昼間の日差しはもうしっかり夏だ。額に汗が滲む。そんなことを考えながら、佐野が落ち着くのを待った。
「う……、マスカラも落ちちゃったな……。わたし、このままトイレ行ってお化粧直してから授業行くよ。ハンカチは洗って返すね」
まだ少ししゃくりあげながら、佐野は立ち上がり歩いて行った。神楽小路は黙って見送った。一人残って、膝の上で頬杖をついた。
(俺はあんなに向上心もなければ、悩み、もがくことがない)
それを幸せだと思う人もいるかもしれない。しかし、神楽小路は自分自身の物足りなさを痛感した。
(何倍も佐野真綾の方が創作者として上だ)




